普通とは
2011年01月17日14:36
Mon, 17 Jan 2011 10:58:20 +0700
僕のタイ語/ラオ語/中国語の発音は、決して良くない。 それはわかっている。 いろいろな人に話しかけると、しばしば顔をしかめられて「は?は?」と聞き返される。 では、どのような発音の仕方が正しいのか。 そう聞くと大抵答えは帰ってこない。 よもや答えてくれても人によってかなり違う。 僕は思うのだが、「正しい発音」と言う物は、恐らくどこにも存在しないのだと思う。 確かに、名目上正しい発音、つまり標準語というものは存在する。 中国語には「普通话プートンホア 普通話」という標準語が存在する。 ラオ語にもパーサーカーング ພາສາກາງ と言ってビエンチャン方言を正しい言葉とするという決まりがある。 タイ語もパーサークラーング ภาษากลาง と言ってバンコクの発音を標準として定められている。 しかし、これらの標準語を話す人は極少数と言わざるをえない。 中国語ではテレビでひたすら普通語の番組を流している。しかも画面下部に常に簡体字のキャプションがつけられている。 僕が居た昆明では、街中の人の99%は、普通語を話していなかった。 数少ない普通語を話している人も、テレビで話している様な本当の普通語ではなくて、雲南流の発音に変化した普通語だ。 タイも同じである。 タイで標準語を話している人は、極少数だ。 空港の職員とかテレビの中とかでは本当に正しい標準語を話しているがそれ以外の場所ではまったく利用されない。 中国では、公務員や大学構内では少なくともきちんと標準語を話す決まりがあるが、タイでは、公務員や大学構内ですらきちんとした標準語を話さない。 ラオに至っては、標準語を話している人がそもそも存在しない。 国内の政治家・高官・芸能人など、極々一部の高学歴の人たちがちょっとだけ話すだけで、他の人はまったく話さない。 まだ標準語があるだけマシという状態である。 ビエンチャン行きのバスに乗っていると、どこのムジナから這い出てきたのかわからない様な謎の民族の人たちがゴチャゴチャなってにバスに乗っている。 誰かが何かを言うと、誰かが「何だよそのヘンなしゃべりかたは! ○○だろ!」と直す。 その話し方だって標準語とははるかにかけ離れた話し方だ。 みんながみんな自分が話している言葉をラオ語だと思っているが、みんながみんな違う言葉を話している。 標準語とはひとつのギャグだ。 標準語を話すのはひとつの滑稽なマヌケである。 そんな改まった話し方いちいちするのは、かったるい。 だから自分流に変えてしまう。 すると他の地域の人は理解できなくなってしまう。 そんな混沌のなかで、全ての人とコミュニケーションを取るにはどうすればいいのか。 出会ったその人その人の文化をひとつひとつ学んでいくしかない。 しかし、人の人生には限りがある。 無数にある郷土文化の全てを学び尽くすことは、人間に取って一つの絶対的な不可能である。 これこそが標準語の存在意義である。 しかし人とは標準語を嫌う存在だ。
僕のタイ語/ラオ語/中国語の発音は、決して良くない。 それはわかっている。 いろいろな人に話しかけると、しばしば顔をしかめられて「は?は?」と聞き返される。 では、どのような発音の仕方が正しいのか。 そう聞くと大抵答えは帰ってこない。 よもや答えてくれても人によってかなり違う。 僕は思うのだが、「正しい発音」と言う物は、恐らくどこにも存在しないのだと思う。 確かに、名目上正しい発音、つまり標準語というものは存在する。 中国語には「普通话プートンホア 普通話」という標準語が存在する。 ラオ語にもパーサーカーング ພາສາກາງ と言ってビエンチャン方言を正しい言葉とするという決まりがある。 タイ語もパーサークラーング ภาษากลาง と言ってバンコクの発音を標準として定められている。 しかし、これらの標準語を話す人は極少数と言わざるをえない。 中国語ではテレビでひたすら普通語の番組を流している。しかも画面下部に常に簡体字のキャプションがつけられている。 僕が居た昆明では、街中の人の99%は、普通語を話していなかった。 数少ない普通語を話している人も、テレビで話している様な本当の普通語ではなくて、雲南流の発音に変化した普通語だ。 タイも同じである。 タイで標準語を話している人は、極少数だ。 空港の職員とかテレビの中とかでは本当に正しい標準語を話しているがそれ以外の場所ではまったく利用されない。 中国では、公務員や大学構内では少なくともきちんと標準語を話す決まりがあるが、タイでは、公務員や大学構内ですらきちんとした標準語を話さない。 ラオに至っては、標準語を話している人がそもそも存在しない。 国内の政治家・高官・芸能人など、極々一部の高学歴の人たちがちょっとだけ話すだけで、他の人はまったく話さない。 まだ標準語があるだけマシという状態である。 ビエンチャン行きのバスに乗っていると、どこのムジナから這い出てきたのかわからない様な謎の民族の人たちがゴチャゴチャなってにバスに乗っている。 誰かが何かを言うと、誰かが「何だよそのヘンなしゃべりかたは! ○○だろ!」と直す。 その話し方だって標準語とははるかにかけ離れた話し方だ。 みんながみんな自分が話している言葉をラオ語だと思っているが、みんながみんな違う言葉を話している。 標準語とはひとつのギャグだ。 標準語を話すのはひとつの滑稽なマヌケである。 そんな改まった話し方いちいちするのは、かったるい。 だから自分流に変えてしまう。 すると他の地域の人は理解できなくなってしまう。 そんな混沌のなかで、全ての人とコミュニケーションを取るにはどうすればいいのか。 出会ったその人その人の文化をひとつひとつ学んでいくしかない。 しかし、人の人生には限りがある。 無数にある郷土文化の全てを学び尽くすことは、人間に取って一つの絶対的な不可能である。 これこそが標準語の存在意義である。 しかし人とは標準語を嫌う存在だ。