関西弁のリズムは
縦乗り だ。次のリズム譜を見て欲しい。
日本語のアクセントは頭に来るのは当たり前と思われるかも知れない。しかし実は、日本語の関西弁以外の各種方言ではしばしばアクセントは頭に来ない。例えば私のネイティブ方言の関東弁ではアクセントはしばしば後ろにくる。
「なんでやねん」を関東弁で言えば「なんでですか」になると思われるかも知れない。しかし関東弁がネイティブの人々が「なんでですか」という表現を使うことはまずない。
関西弁と関東弁の違いというとイントネーションの違いが主に挙げられる。しかしよく観察してみるとイントネーション以上にリズムのとり方に大きな違いがあることに気づく。この違いはとてもはっきりしたものだ。
その違いとは関西弁には弱起がないが関東弁にはある という点だ。みなイントネーションの違いに意識が向いていても、リズムの違いにまでは意識が向いていないことが多く、ここが盲点になっている場合が多い。
そのリズムの違いはしばしば、ジャズのアドリブにも色濃く現れる。それはアドリブのリズムを聞くだけでその人が関西人か関東人か聞き分けることができるほどにはっきりしている。場合によっては曲が始まる前にテンポを出してカウントをしているそのカウントのとり方を聞くだけで関西人か関東人か区別が付くこともある。
関西人であることは
ジャズを演奏する上で大きな弱点 となる。この関西弁のリズムの取り方は、関東弁だけでなく東北/九州の方言・欧米・アフリカ・東南アジアの各種言語と全く違うリズムの取り方だからだ。このリズムの取り方で外国語を発音するるとほぼ通じない。またこのリズムの違いがはっきり聞き取れていないと、外国語を聞き取ることも難しい。言語のリズムは音楽を演奏するリズムにも色濃く反映されれる
─── この
頭乗り のリズムは外国の人達に難解な印象を与える。このリズムで音楽を演奏しても外国の人達に訴えることはとても難しい。
─── そしてこのリズムは関西外の人に対してほとんど訴求力がない。
関東弁の中の関西リズムに関西人は気付かない。だが関東人は必ず気付いている。だがそれを言葉として出してしまえば大変な失礼に当たることである以上、それを指摘することは絶対にない。
何故こういうことが起こるのだろうか。
ここでは、関東弁と関西弁のリズムの違いをリズム譜やビデオなどを使って確認していこうと思う。
関西弁と関東弁のリズムの違い
関西弁で有名な台詞といえば「おまえはあほか」で異論はないだろう。
これを関東弁でいったら「あなたはあほですか」になると思われるかも知れないが、関東人が「あなたはあほですか」などということは絶対にない。言うとしたら以下のようになる。
関東弁では大抵の場合、主語と述語が逆転し上記の様に変化する。
この様に関西弁で必ず頭にアクセントが置かれて発音されるものが、関東弁ではしばしば、まず枕詞がついてその後に強調されるべき単語が来るというように弱起 がついた状態に変化する。
関東弁のリズムと関西弁のリズムの違いを漫才で比べてみよう。サンプルがやや古いが、1980年代に吉本が関東進出をして以降、テレビの芸能人が話す関東弁のリズムも大きく変化した。だから1980年以前の漫才のほうが関東/関西間のリズムの違いを観察しやすい。
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これは80年台に一世風靡した横山やすし・西川きよしの漫才だ。
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こちらは1980年代に一斉を風靡し今なお絶大な支持を持っているビートたけしを輩出したツービートの漫才だ。
日本語のなかの弱起の存在
横山やすし・西川きよし
あ ついねー
あ ついねーほ んま
あ ついでしょーみなさん
ツービート
えーもー非常に 風 邪が流行っておりまして三日前から えれえ風邪 ひいちゃっておりましてね
最近の風邪ってのはもう 鼻水 でんだろ、そっから下痢 すんのすんごい 下痢 すんのよ
関西弁が必ず文頭にアクセントを置いてリズムを付けることに対して、関東弁では「〜ってのはまぁ」「そっからえれえ」等々の枕詞を置いてからアクセントを付けている点が異なる。
この様に関東弁でよく使われるフレーズのリズムにはしばしば弱起が入る。
弱起と方言
このビデオに出てくる福島方言のリズムを聞いてみよう。
VIDEO
この「さむぐね?」は標準発音ではないが、関東方言がネイティブの私から見ても全く違和感がなく、また私自身もこのアクセントをしばしば使う。
この女性は
と「く」にアクセントを置いて発音している。
私の感覚でいえば
と「む」にアクセントを置くかも知れない。いずれにせよ大きな違いはない。
だが関西弁だと恐らく
と頭にアクセントをおく筈だ。
方言によるアクセントの違いには数種類のタイプがある。
日本のアクセントは主に東京式・京阪式・無アクセントの3つに分けられる。この内、弱起をもたないのは京阪式アクセント のみだ。このことについてはもっと形式的に検証する必要がある。これは飽くまでも仮説であり、検証が充分でない現段階では間違っている可能性が残っている。だがこの仮説はいろいろな事象を矛盾なく説明してくれる。
弱起を持たない関西弁
VIDEO
この曲は河内音頭の名人・河内家菊水丸の歌だ。
ど んとうぉ ーりーびー はっぴー いっ つぁふぁん でーえ っぶりぼでー
この様に全ての音節で頭にアクセントが付いている。
では東北出身の吉幾三の歌を見てみよう。
VIDEO
ハーァ
テレビもねぇ
ラズオもねぇ
くるまもそれほど
はスってねぇ
まず冒頭の4拍目にハァーと弱起が入っている。
そして極めつけがサビの部分だ。
おら
こんな村いやだ
おら
こんな村いやだ
東京へ出えるだぁ!
この様に全ての主語「おら」が小節が始まるまえに弱起として入っている。
この特徴はより古い音楽になるとより顕著に現れる。
VIDEO
わー
らー にー
ま みれて
よ ー
そ だてた
く ーりー
げ ー
この様に冒頭は頭乗りで始まる。だがサビ部分で大きく異なる特徴を持つ。
1小節目
2小節目
3小節目
4小節目
5小節目
アーーアァーアー
ーーーーーーー
アーーアァーアー
ーーーーーーー
おーらおーら達者で
なーーーーーーーー
おーらおーらかぜひく
なー
この様に1小節の弱起を持ってメロディーが構成されている。
日本古来の発音と弱起
東北の奥地に行くと日本古来の発音が方言として残っていることがある。
VIDEO
現代の日本語はLとRの発音区別 がない。ある説によると言語の発音/文法は民族衝突を経るごとに単純化するという。日本語の古代の発音にはRとLの区別があったのが時代を経て単純化した可能性もある。私は言語学者ではないのでこの是非はわからない。
少なくとも私がわかることは、実際に日本の東北部の方言を聞くと、Rの様な発音やLの様な発音が聞こえてくることだ。
また私は経験上、東北の人々は英語などの欧米言語を学習する時、アクセントにあまり訛りが残らない傾向があることを観察している。もちろん訛りはみな持っている。だが東北の人達は、近畿方言を話す人が長期に渡る海外在住歴を経てもなお発音に強い癖を残したままになることと比べて とても対照的だと私は感じている。
縦乗り気質
こちらに来て最も苦労するのがやはり言葉です。特に発音。中でもデンマーク語はRの発音が変わっていて、うがいをするようにのどから声を出すのでなかなか習得できません。英語でも、RやLの音が日本にはないので発音が難しいですよね。つい、日本の「らりるれろ」と同じように言って相手に全然伝わらないことがよくあります。 という話をしていると、「日本人てよくRalph
Laurenをラルフローレンって言うもんね!笑」とこれまた可笑しそうに言われました。「え、今の2つそんなに違った?!」と思ったのですが、向こうの人にすると全く違う音らしいです。発声の仕方、舌の使い方が違うのでしょう。でも仕方ない!日本語にない音なのだから!躊躇せずにどんどん「らるふろーれん」と言っていきましょう。
果たして、ラルフローレン Ralph
Laurenを正しく発音できないのは果たして日本人全員の全ての共通な特徴なのだろうか。もちろん誰もが発音に自分の癖を持っていて努力してもなかなか直らないというのは、仕方がないことだ。だがそれを果たして『日本人だから仕方がない』正当化しても良いものだろうか。
京阪アクセントでは恐らくこれを
ラ ルフ
ロ ーレン
というように頭を強調する形で発音するのではないだろうか。
だが恐らく京阪アクセント以外の方言を話す関東東北九州の各方言では恐らく
ラ ール
フロ ーレン
と弱起付きのアクセントで読もうとするのではないだろうか。恐らく英語のリズムとしてはこちらのほうが原語に近い。このリズムで発音すれば恐らくRとLの発音が曖昧でも通じるだろう。英語は頭乗りで発音すると大抵通じない 。
VIDEO
このビデオを見ればわかるように、フとロは一連の子音として同時に発音される。
実は私はこの『日本人はRとLを発音できないことを気にしてはいけない』という発言を読んでやや不愉快だった。何故なら私は経験的に日本人は必ずしもラルフローレンを正しく発音できない人ばかりでない、ということを見たことがあるからだ。
『日本人は世界から笑われている。仕方ないなぁ。』 ───
いやそこで笑われているのは、日本人全体ではなく京阪人のみではないのか。
九州(福岡や鹿児島)東北関東の人達は外国語を学習すると案外と訛りが残らない。それは几帳面な性格なども関係しているのかも知れないが、もともとネイティブで話している方言のアクセントが近いからではないか、とも感じている。これもきちんと形式的に検証していく必要があるだろう。
───
だが少なくともそれを京阪人に「日本人はみんなおんなじだから仕方がない」と居直られてしまうと「それは違う。少なくともその点はみな同じではないし、それは京阪アクセント独特な特徴なのだ。」と指摘する必要が出てくる。
もちろん、ここで問題なのは発音が間違っていること自体ではない。誰もが発音に問題を抱えている。発音が正しい人はこの世のどこにもいない。 問題は間違っていることではなく、間違っていることを間違っていないと力づくで押し通してしまい、お前も同じに違いないだろ?と押し付けて間違っていない人にも間違うことを強制させてしまうその行為だ。
つまり逆に
と居直ることには何も問題がない。むしろ潔く好感すら持てる。
こういう居直りは相手に何も強制しない。
関西だけが持っていない弱起
非常に興味深いことに、 ・東京都心から、わずか35kmしか離れていない、茨城県南地域は、「無アクセント」地帯。 ・東京都心から、1000kmも離れた福岡県は、「東京式アクセント」地帯。 したがって、こんな珍現象も起こります。 ・茨城県人より、福岡県人の方が、東京弁(標準語)を話そうとすると、それらしく聞こえる。
氏がいう九州の人が関東弁を話すとそのまま関東弁になってしまうという話は事実だ。九州出身の方々は関東に来て関東弁を話している状態でも、さほどアクセントに違和感がない。それは恐らく、もともとのアクセントに共通部分が多いからではないか、と思う。
恐らくだが、弱起がある発音リズムも共通なのではないだろうか。これも形式的な検証が必要なことだが、
おてもやん や
刈干切唄
等々の九州の民謡のリズムには弱起があることから推測すると、恐らくその地方の方言が持っているリズムは京阪式の頭合わせリズムではない。
関東には東北の方々も多い。
私は関東が地元で、子供の頃から東北弁を間近で聞きながら育った為、個人的には東北弁にそれほど強い違和感は持っていない。また言い回しや表現に共通なものが多く多少イントネーションが異なってもほとんど違和感なく理解できる。リズムは京阪式頭合わせのリズムではない。
九州は弱起を持っている。前述の通り東北も弱起を持っている。関東も弱起を持っている。(形式的な検証が必要ではあるが恐らく)弱起を持たないのは京阪式アクセントだけ だ。
関西ジャズのリズムには弱起がない
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Kyoto Jazz Massiveの演奏には芸術性がとても高くファッショナブルだ ───
だが全編に渡って執拗なまでに頭拍強調リズムが入っており、音楽のリズムとしては全編例外なく完全に京阪アクセントの頭打ち縦乗りリズムになっている。それは最初の1音を聞いただけで即座に「関西」とわかる強烈さでリスナに迫ってくる。この音楽と方向性が非常に近いチックコリアの演奏と比べてみよう。
VIDEO
チック・コリアの演奏には装飾音(弱起)がはいる。だがKyoto Jazz
Massiveの演奏には1拍も弱起が入らない。またソロが始まって以降も、8分音符16分音符のシンコペーションがほとんど出てこない。Kyoto
Jazz Massive の演奏にはオフビートがない 。
縦乗りの関西リズムはグルーヴしない
関西の縦乗りリズムは古い伝統があり奥行きを持っている。だが縦乗りはグルーヴしない。縦乗りには弱起がないからだ。 弱起の存在が次々に次小節へ進んでいく疾走感となってグルーヴが生まれる。それがシンコペーションの力だ。だが弱起がなければシンコペーションが生まれないためグルーヴも生まれない。
これは弱起を持つ方言を話す人達にとっては強烈なストレスになる。
このケヴィン氏は教会音楽の世界でとてもよく知られた有名なコメディアンだ。彼はここでスワグサーフという2009年頃にアフリカ系アメリカ人の間で流行したダンスを踊っている白人の方々についてのコメントしている。
ケヴィン氏はいう「オフビートなさすぎだよ! やめてくれ! 」 ───
弱起を持つ方言を話す者にとって弱起のない音楽はほとんど拷問だ。私も日本人(関西人)の演奏するジャズを聞いてほとんど同じ感想を持っている。
この弱起のない音楽に対する苦痛は、私がラオ語が話せるようになって以降はっきりと強烈に感じるようになった。私が話せる言語=ラオ語タイ東北方言は複雑な弱起リズムを持っている。またラオの民族音楽は常に2拍〜6拍の弱起を伴って演奏される。日常会話もこのリズムで発音しないと聴きとってもらうことすらとても難しい。
この弱起のあるリズムに親しんだあとで、弱起が完全に消えてしまった弱起のあるべき音楽を聞くと、発狂しそうになるほどに狂おしい強いストレスを感じる。乗りたいのに乗れないこの感覚はさながら、まぶたを強制的に開け放して固定しそこに水滴を落としたままで拘束する中国の残虐な拷問の様だ。
関西人は縦乗りの存在を感じることができない
縦乗りの存在を感じることができないということは、自分が縦乗りだということも認識できないということだ。だから縦乗りを指摘されても指差すそこに何も存在しないように感じていることが多い。よって自分の何が批判されているのか理解できない。
よって縦乗りを批判されると、いわれのない因縁を付けられているように感じてしまう。
では関西人はどうやったら縦乗りの存在を感じることができるようになるだろうか ───
これについてはとても残念なのだが縦乗りの存在を謙虚に受け止めて研究に努めるという以外の方法がない 。
なお縦乗りの人が縦乗りを感じることができない原理については既に日本人は何故縦乗りなのか で詳しく説明した。
縦乗りの人は縦乗りを感じることができない。だから縦乗りの人は縦乗りを指摘されるとしばしば卒倒して激昂する。縦乗りの存在を全否定しそれが存在しないかの様に振る舞おうとする。
だがこれまでに説明した様に、日本人は必ずしも縦乗りではない。これはつまり日本人は必ずしも京阪アクセントで話す訳ではない
───
という事実とほぼ等しい。日本には様々な方言があり、様々なリズムがある。京阪アクセントのリズムもその様々なリズムのなかのひとつでしかない。日本各地にはそれぞれ固有の土着リズムがある。その土着のリズムに対して謙虚に敬意を持って接するということはごく当たり前なことだ。
その人がもつ土着のリズムはジャズのアドリブにも色濃く反映される。
ジャズに縦乗りはあわない
縦乗り自体は何も間違っていない。縦乗りの音頭・演歌には奥行きのある深い伝統がある。しかしここで注意が必要なのは、縦乗りの頭拍強調はシンコペーションとは真逆のコンセプト だということだ。
ジャズの真髄はシンコペーションでありシンコペーションのないジャズはジャズではない。
英語でジャズ・シンコペーションと検索してみよう。ジャズとシンコペーションの切っても切れない深い関係を解説しているサイトが無数に見つかる。
ジャズ・シンコペーションと検索
シンコペーションに対する無理解は、ジャズに対する無理解だ。
ジャズかそうでないかは問題ではない
『お前のリズムはジャズではない』論争は日本人がジャズを演奏するようになった60年代頃から延々と続いてきた。俺のリズムはジャズだ!お前のリズムはジャズではない!云々、日本のジャズシーンではこのような不毛な論争が長きに渡って繰り広げられてきた。
ジャズかそうでないか...私はこの問いは無効だと思っている。問題は、それが縦乗り(演歌・音頭)かどうかだ。そこが問題の核心であり、それがジャズかどうかは問題ではない。
前述の通りジャズとシンコペーションには深い関係がある。逆に言えば、シンコペーションのある音楽であればどんな音楽でもジャズとして演奏することが可能だ。
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例えば南米の地元の音楽にはシンコペーションがある。これをジャズとして演奏したものがボサノバだ。
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そもそもジャズ自体、西洋人が作ったキリスト教の宗教音楽をアメリカに連れ去られたアフリカ人がシンコペーション付きで演奏する様になったことがきっかけで生まれた音楽だ。シンコペーションがなければそれはただのキリスト教の宗教音楽でしかない。ここにジャズとそうでない音楽の違いがある。
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これは恐らく米国原住民の音楽ではないかと思うがはっきりしない。この音楽にもシンコペーションがある。これはジャズではないが、シンコペーションがあるならばジャズとして演奏することができる筈だ。
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この音楽はタイ東北部のラオ族の民族音楽を元にした歌謡曲(ルークトゥン)だ。この音楽にもシンコペーションがある。これもジャズではないが、シンコペーションがあるならばジャズとして演奏することができる筈だ。
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このビデオは寝屋川祭りで演奏された江州音頭だ。この音楽にはシンコペーションがない。つまりこの音楽はジャズとして演奏することができない。関西の音頭はしばしばシンコペーションを持たない。これは関西の音頭だけが持っている珍しい特徴となっている。
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このビデオは志村けんの東村山音頭だ。江州音頭と同じような音頭に聞こえるかも知れないが東村山音頭には弱起がある。この点が江州音頭と全く違う。
シンコペーションのある音楽ならばジャズの上に乗せて矛盾なく演奏することが可能だ。音楽の上に存在するリズムという数学的な構造に共通点があるからだ。だがシンコペーションがない音楽はジャズの上に乗せることが出来ない。シンコペーションがないという特徴自体が、ジャズのシンコペーションを強調するという存在意義と真向から衝突しているからだ。
つまりその音楽がジャズかどうかはどちらでも構わない 。問題はそれが音頭 かどうかだ。それはすなわちそれが関西式イントネーションかどうか であり、問題はシンコペーションが存在するかどうか だ。
縦乗りと政治力
縦乗りのミュージシャンはしばしば東京都内で強い政治力を持っている。だからその音楽が面白くなくても誰も文句を言えない。その場にいる関西人以外のリスナ全員が『リズムが変だ...』『グルーヴしていない...』『乗れない...』と冷ややかな目で眺めていても、その強力な政治力を使って批判を抑えこまれ黙らされてしまう。
例えば前述の Kyoto Jazz Massive は、なんと実は、私がよく出演させてもらっている都内最古参の某R&B系ライブハウスの親分でもある。私がこの様な Kyoto Jazz Massive について声高に批判するブログを書いていることが発覚したら私は間違いなく出演を禁止されてしまう だろう。
だがシンコペーションのないグルーヴしないジャズというのは世界的に見て極めて異例なことであり、しばしば京阪アクセント外にいる人(関東人・外人)に強い苦痛を強いることでもある。いくら強い権力を持っていてもこれではまるで裸の王様 だ。その点だけは京阪アクセントを持つ人・持たない人のお互いの為にはっきり指摘しておかなければならない。
近畿人はしばしば京阪縦乗りリズムの存在を認識できない。 京阪アクセントは譜面上はっきり示すことができる形で音楽に表れる。 京阪縦乗りリズムは近畿外(九州/東北/関東/外国)では全く訴求力を持たない。 リズムの構造とその芸術性とは全く別な問題。
その訴求力の欠落を政治力で解決しようとしている限り、その音楽が人の気持ちに届くことはない 。リズムの違いに真摯に耳を傾けて弱起のある音楽に敬意をもって習得に努める姿勢がない限り、ここに存在するリズムの壁は永遠に崩れない。
縦乗りと甘え
私は「こういう複雑なリズム(非縦乗り)を演奏すると怒られるからな...」と諦め顔の関東/東北/九州のミュージシャンを大勢見てきた。と同時に縦乗りのジャズを聞いても「日本の社会はこういうものだから諦めて受けいれるしかない」と妥協していくミュージシャンも大勢みてきた。
そして私はまた、縦乗りが関西のリズムだということに気づくようにもなってしまった。
また私が今している様に縦乗りについて声高に批判をすれば、関東/東北人は必ず「(確かに私もそう思うのだが)社会に出たらそのような大人気のないことは言ってはいけない」という言葉が返ってくる。そしてなお意見を曲げなければ「お前は我が強過ぎる」と社会的な評価を失う結果となる。
私はその点について非常に強い意見を持っている。関西人は間違っている。 何故なら私は関東人であると同時に関西人でもある からだ。私の関西批判は私の自己批判でもある。 私は関東人だが家柄は関西系なのだ。関東生まれ関東育ちの江戸っ子の家柄で生まれた関東人だが同時に関西人の家系で生まれた関西人でもある。
実は私自身が非常に強い縦乗りだし、私自身もとても関西的に権力的なところがある。そして関西人は差別的だと思うと同時に、自分も同じ差別的な感情を持っている。そして関東/東北人は多少こちらがいい加減なことをいっていても強気にさえ出てしまえば折れて何でもいうことを聞いてくれる...ということも経験的によく知っている。よく知っているどころか自分がやっていた。
関西的な縦乗りの音楽で関東/東北人は許してくれる。彼らは内心それを面白くないと思っていても「いいよいいよ」と許して受け入れてくれる。内心それは好きでなくても、それが社会の浮世の常だから、それを受け入れないといけない、と諦めて受け入れてくれる。
だが私はそこに甘んじていていいのか と言いたいのだ。
ミュージシャンたるもの、リスナに心の底から喜んでもらわずして、何を望もう。
私はおべんちゃらなど欲しくない。
縦乗りの人がいてもいいし、横乗りの人がいてもいい ─── それは飽くまでも個人の自由だ。だが縦乗りの人は横乗りの人が来ると、本来そちらのほうが正しいジャズのリズムなのに、つい妬ましく疎ましく感じて、つい「変なリズムを演奏するのはやめろ!」と怒ってしまう。そうやってみんなを萎縮させ、その場を無理やり縦乗りで染めてしまう。非常に迷惑な話だ ─── だが実は私がそれをやっていた。
関西人はしばしば、関東/東北人に親しい友達がいない。逆もまた然りだ。関東/東北人は関西人にあまり親しい友達がいない。だからお互いがあまりお互いのことを知らない。
だが私は関東人であり関西人である為、関西人にも関東人にも等しく友達がいる。関西人が関東人にどういう印象を持っているのかもよく知っており、関東人が関西人をどう思っているのかもよく知っている。
私はさながら雀卓の周りをグルグル歩いて全員の手の内を観察している 様な状態だ ─── 卓に座る全員の手の内を完全に知ってしまった。
だが同時に私は関東在住で、関東のルールに従って生活している身でもある。本当は守らなければいけない関東ルールがあるのに、色々な狡いテクニックを使ってそれを巧妙に回避する関西人 ─── まるで自分を見ている様だ 。そういう回避のテクニックも丸見えで見えてしまうのが関西系関東人の辛いところだ。
縦乗りを制するものは世界を制する
この記事は関西人の縦乗り批判に終始した。縦乗りがそんなに憎いのか、と思われるかも知れない。縦乗りを克服したら一体どうなると言うのかと問うかも知れない ─── 実際のところ、非縦乗りの音楽には日本の東西は愚か洋の東西すらを超え国境を超えて人を高揚させるパワー がある。
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絶頂期をとうに過ぎた今でも絶大な人気を誇るジュリーは京都人だ。彼は普段喋るとき関西弁を隠さない。だがジュリーの音楽を聞いて即座に気づくことはジュリーの曲は全て非縦乗りだということだ。ジュリーは縦乗り ではない。 関西から関東進出を果たし大成功を収めているアーティストはしばしば縦乗りを克服 している。
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縦乗りを克服するということには大きな価値がある。 縦乗り克服は標準発音の苦手部分を克服するキーポイントだ。英語苦手を克服するキーポイントでもある。縦乗りのリズム解釈自体は英語その他のリズム解釈と真向からぶつかり合っている ─── それこそが音楽を演奏した時の縦乗りの原因であり、つまり縦乗りを克服すると音楽のバリエーションが大幅に広がる。それはなかなか消えない京阪訛りの原因でもあり、英語苦手の原因でもある。つまり縦乗りを克服すると世界が広がる。
書き残したことが沢山あるがひとまず筆を置こうと思う。
更新記録:
加筆訂正した。 (Thu, 09 Jul 2020 11:16:12 +0900)
加筆訂正した。(Sat, 18 Jul 2020 17:15:26 +0900)
僕を私に変換した。(Tue, 06 Dec 2022 22:01:03 +0900)
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