日本人の演歌的なリズムのことを縦乗りと呼ぶことがある。僕は縦乗りが大嫌いなのだけど、一方で演歌が好きでもある。いろいろ思い起こしてみると、この縦乗りと演歌は実は全く違うことを言い表しているのではないかと思う。
基本的にその人が縦乗りかどうかはその人の自由だ。その人のリズムの感じ方を他人がとやかくいう理由はない。だけどジャズをやっているなら話は別だ。ジャズは横乗りの音楽だからだ。激しい横乗りのリズムでアドリブ演奏するジャズ…その醍醐味の源泉こそが横乗りだ。みな横乗りに憧れてジャズを始めたのではないか。少なくとも僕はそうだった。 縦乗りを極めた音楽である演歌や音頭を演奏するならともかく、ジャズに縦乗りは合わない。
縦乗りジャズはダサい。それは誰が聞いてもダサい。だがそれをダサいと思わない人がいる。リズムの感じ方について他人がとやかくいうのは失礼だ、だからそれをダサイというのは失礼だ、そういう論理でそれをダサくないという。
だが僕は10年以上に渡って東南アジアを放浪した結果として、妙な特技を身につけたようだった。それは全く同じメロディーを縦乗りと横乗りで弾き分けるという特技だ。この特技はどうやら、縦乗りの本質を鮮やかに暴きだす様だった。それも非常に残虐な形で ───
縦乗りと横乗りの違い
縦乗りとは日本や中国北部の人達に特徴的なリズムの取り方のことを指す。横乗りは主に東南アジア・中東・インド・アフリカなどの赤道に近い人達のリズムの取り方だ。次のビデオは僕が作ったビデオで、縦乗りと横乗りを比較したものだ。縦乗りは基本的に日本人のリズムの取り方なのだが、日本人が必ずしも縦乗りかというとそれはそうではなく、地域によっては横乗りの人が多い地域もある。 縦乗りの地域偏在性については 何故、日本人は縦乗りなのかで説明した。
縦乗りと横乗りの違いが生まれる理論的背景
この章は音楽に興味のない人がいたら読み飛ばして構わない。これは飽くまでも僕がリズムに関して考えていることの理論的な背景であって、これから僕が述べる考えが正しいことを間接的に証明してくれる。だがリズム自体は実は『縦乗り』という現象の本質ではない。だからこの章を読まなくてもこの問題の本質は理解できる。この章に書いてあることは難解で読解することに時間が掛かるので、読み飛ばして構わない。縦乗りと横乗りの違いを要約すると、リズムには2種類の区分があり、1つ目の区分は『頭合わせ乗り』『尻合わせ乗り』の区分、そして2つ目の区分は『表拍乗り』『裏拍乗り』だということだ。 『頭合わせ乗り』と『表拍乗り』の2つが組み合わさるとその乗りは縦乗りになる。『尻合わせ乗り』と『裏拍乗り』が組み合わさるとその乗りは横乗りになる。
古今東西、世の中にありし全てのリズムには『頭合わせ乗り』『尻合わせ乗り』の2種類がある。『頭合わせ乗り』とは、小節の頭とメロディーの頭を同時に揃えてメロディーを始める乗りのことだ。日本人がこれを読むと『何を当たり前なことをいうのか』と思われるかも知れないが、これは実は当たり前ではない。日本の外では、小節の終わりとメロディーの終わりを同時に揃えてメロディーを終える『尻合わせ乗り』が使われることが多い。
日本人はどうも、この『尻合わせ乗り』を認知することができない様だ。『頭合わせ乗り』が骨の髄まで染み込んでしまっている日本人は、最初にポンと鳴った音を1拍目と思い込む非常に強固なバグを持っている。だからメロディーが1拍目以外の音から始まるとメロディーを正しく認識することができなくなってしまう。
尻合わせ乗りのリズムは、メロディーが始まる地点が決まっていない。ランダムな場所から始まっても必ず決まった地点で終わるのが尻合わせ乗りの特徴だからだ。だから『頭合わせ乗り』は『尻合わせ乗り』が理解できない。
『表拍乗り』『裏拍乗り』の区分は日本のジャズマンの間でもよく知られた『ジャズのリズムの特徴』だ。だがこれは正しくない。何故ならジャズでは『表拍乗り』で『尻合わせ乗り』という場合も存在するからだ。つまりジャズのリズムの本質は『尻合わせ乗り』だ。
むしろ『頭合わせ乗り』はジャズにはない乗りだし、もっと踏み込んで言うと『頭合わせ乗り』は日本にしかない乗りだ。
縦乗りの鼻先に縦乗りをつきつける
僕はラオ語(ラオス国の公用語)の方言が話せる。この地域にはラムと呼ばれる民族音楽があり、非常に奥の深い音楽文化を形成している。この音楽が非常にはっきりした尻合わせ乗りだった。ラオ語とラムには非常に深い関係がある。ラオ語の発音自体にはっきりと尻合わせ乗りの音声要素が含まれている。僕の言語を12年かけてマスターした。結果として日本人としては極めて稀な『尻合わせ乗り』を非常にはっきりと身につけた日本人になったようだった。そして僕は日本に帰ってきてからジャズの特訓を始めた。特に声を出してカウントする練習を重点的に行った。結果として僕は頭合わせ乗りと尻合わせ乗りの違いを非常にはっきりと数字として理解できるようになった。更に2年程度練習した結果として、僕は全く同じメロディーを縦乗りと横乗りで弾き分けるようになった。これは僕の感覚としては、縦乗りと横乗りを弾き分けるのは、日本語とラオ語を話し分ける感覚と非常に近い。
先日これを数人の知人の前で披露したところ好評を得た。
全く同じメロディーを縦乗りと横乗りで弾き分けてどちらがよいかたずねてみると、縦乗りについては『最低限これは避けたほうがよいだろう』という。誰が聞いても同じ結果だろう。縦乗りはリズム分解が悪くリズミカルに聞こえない。リズミカルに聞こえないことにははっきりした理由がある。
結末を先頭に持ってくるのが前提の演歌は、結末を後尾に持ってくるのが前提のジャズとは全く違う語法によってストーリーを組み立てなければならない。これらは全く別物の音楽だ。
縦乗りジャズ ─── これはまるで答えを先に言ってから遊ぶ謎かけのようなものだ。縦乗りジャズはまるで結末を知っている映画のように何の面白みもない。縦乗りのミュージシャンはさながら、映画館で映画が始まるやいなや大声で結末を説明する無粋な観客のようなものだ。
全く同じメロディーを縦乗りと横乗りで弾き分けるこの技能は、とかく好みの問題で片付けられて正当化されがちな縦乗りジャズの欠点を、見事に暴きだす。
─── そこで僕は更に気付いたのだ。縦乗りはリズムの問題ではないのだ、と。
縦乗りの問題の本質
そもそも、その人が縦乗りか横乗りかはその人の個人の主義主張の範囲内のことであって、 他人がとやかくいうべき筋のものではない。誰が縦乗りでも誰が横乗りでもそれはその人の精神的自由の範囲内のことだ。だが日本のジャズを筆頭とするセッション社会に於いては、ややその精神的自由を超えた問題を含む。縦乗りの人の方々にはいくつかの共通する特徴がある。
- 権威的
- 威張りたがり
- 妬みっぽい
- 自説に固執しがち
- 状況に合わせた柔軟な対応ができない
- しつこく人にからむ
- 延々と他人の演奏を否定する
- 説教がましい
- 自分の意見を他人に押し付けたがる
縦乗りの本質2
この文章は、もともとは違った形で詳細に論じていくつもりだったのだが未完成のまま放置されていた。12月4日にこの文章を書いた。僕はここまでを書いたあと、縦乗りリズムを持った人の地域偏在性を指摘したうえで民族的気質に結びつけて論じてみようと思っていた。だが行き詰まってそのまま放置された。今日は12月28日だ。その後しばらく都内のあちこちのセッションに顔を出しながら色々と考えていたのだが、この問題の本質はつまるところ民族性とも地域性とも関係ないのではないか、と思うようになった。縦乗りの人でも横乗りの人でも同じような反応をすることがあるからだ。
彼らはしばしば「社会性がない」「他人を受け容れない」「自分が見えていない」「わがまますぎる」「勝手だ」等々の苦情を申し付ける。それらについては平身低頭謝罪し真摯に反省していくよりない。
だが彼らは、つきつめて考えると嫉妬しているだけなのではないだろうか。嫉妬している自分を受け容れられず、その嫉妬している自分の姿を他人に投影して糾弾しているのではないか。
「独りだけいい格好をする」というのは日本社会のなかで褒められた話では決してない。だがミュージシャンのメンツを守るために音楽が犠牲になってそれを見ているオーディエンスが呆れ顔で見ているという状態も決して褒められた話ではないのではないか。
未完成の文章だが、考えた経路を示すために敢えてこのまま公開しようと思う。
(続く)
(2019年12月4日14:44頃 執筆)