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2019年12月22日日曜日

助けてサイン (oka01-qizrvmtfvhhpgvdb)


今日僕は、週末夜の山手線の車内でギター背負って瓶ビールを飲みながら歩いているというマナー最悪な状態だったところに、椅子に深く座って邪魔な少女に足を踏んだとケンカを売られ、『マナーが悪いのは貴様だ!』大声で文句言い返して、完全に状態巻き返して周りの乗客を味方につけるという離れ業をやってのけた。

これには流石に自分でも驚いたが、そのなりゆきはこんな感じだった。
今日は旧友がホストをやっているジャムセッションに行った。気分よく演奏したあと、帰宅する為に山手線に乗った。店で飲みきれなかったビールを持って出た。週末だし電車で飲んでも別にバチはあたるまい。というわけで山手線の車内で瓶ビールを飲んでいるというマナー最悪な状態だった。

僕は大きなギターを背負っているのだが、17時〜18時頃のギュウギュウ詰めという程でもなかったので降ろさずにそのまま乗っていた。これは背後の人に豪快に迷惑になる行為なのだが、とにかく背後に気をつけていればよい。

僕はバンコクのギュウギュウ詰めの高架電車BTSの中で豪快にランドセルを背負ったまま乗車するタイの高校生を思い出した。『お前!迷惑だろ!』と一瞬思った。迷惑と思いきや、タイ人は周囲の配慮が忍者並みに高いのが一般的だ。タイの学生は常に背後にものすごく気を使っているので、全く周囲の通行人とぶつからない。だから全く迷惑ではなかった。これは周囲の気遣いが皆無な人が9割以上を占めている東京で生活した僕にとって、ほとんど驚異的と言ってよいほどの高いマナーだった。

世の中はマナーが全てだ。世の中、他人の迷惑にならなければ何をしてもよい。それが大都会の掟である。

という訳で僕は背後に気を使ってギターを背負ったまま乗り込んだ。

電車のなかでビールを飲むのも同様である。恐らく普通の人はやらないが、ゴミを散らかさない、絶対にこぼさない、酔った勢いで人にぶつからない、背後の人の邪魔にならない、空き瓶は必ず持ち帰る等々、マナーが守られているなら別に良い(目立つが)。

これが外国だったらそうはいかない。日本以外の大抵の国では屋外での飲酒行為自体が違法だ。電車の中は当然のこと公園・路上でも飲酒は違法だ。屋外の飲酒をしないのはマナーの問題ではないのだ。だが日本は飲酒に関して世界的に全くありえないほどに非常におおらかだ。

屋外でビールを飲んでも警察に捕まらないなんて、日本はなんて素晴らしい自由のある国なのか!

僕は単純にそう思う。

─── 繰り返すが自由とマナーは表裏一体だ。だから電車の中でビールを飲むというのは依然としてハイテクニックであることは間違いない。そこには超高度なマナーに対する配慮が求められる。電車の中でビールを飲む人は大抵ルールを全く守らない。だから迷惑になる。

週末の終電間際の山手線は酔っぱらいだらけで、みんなふらふら歩いている。背後にも人が沢山通るが、東京の常でとにかくみんな周りを見ないで突撃してくる。「これでどうやったらぶつからないで通り過ぎることができるのか、こっちが教えてくれ」という様な角度で突入してくる老若男女が大勢襲い掛かってくる。普段ですらぶつかりやすいのに酔っ払っていたら更にぶつかりやすい。

だが僕ももう慣れているので、きちんと動きを見て避ける。僕がいくら周りを見ても、周りの人はスマホ注視で全く周りをみない。これでぶつからなかったら、そのほうが僕は不思議だ。だがそれでもきちんと避ける。

そんななかで事件は起きた。

背後に酔っ払った周りを見ない人々がウロウロしているのでどうしても立ち位置が座席側に酔ってしまうのだが、座席側には椅子に深く座って足を投げ出した若い女の子が座っている。僕も足を踏まないように気をつけているのだが、これもまた東京の常で、全く周りを見ていないのでちっとも足をどかしてくれない。

邪魔だなぁと思いつつも人々を避けていたのだが、その女の子がチラッと露骨な迷惑顔を見せてきたので僕も頭に来た。

僕はよく喋る。だが僕の風貌だけを見ると物静かで頑固な人に見える様だ。それが妙にニコニコでペコペコ腰が低くよく喋る人だとは恐らく夢にも思わないだろう。また同時に僕は(話そうと思えば)非常にはっきりした標準語でやわらかく話せるし、同時に弁が立つので口喧嘩に非常に強い。

でその女の子に大声で僕が思うところを話して、更に周りの人も「あぁーそりゃまずいわな」的な感じの雰囲気に巻き込むことに成功した。

前述の通りビール片手で、しかも中年のくせに長髪ギタリストという超反社会的風貌の僕が、そこまで周りに対して信用と説得力を持って話ができるというのは、自分で考えても驚異的なことだ…そう自分でも思う。

僕は足掛け12年ものあいだタイとラオと雲南省を放浪した。タイとラオと雲南省では本当に気疲れした。はっきりいって日本社会で暮らしていくのとは比較にならないほどに激しく気疲れした。あらゆる頑固な民族に挟まれていつも気遣いの連続で、複数の空気を同時に読んで言語を変え方言を変えて話をしなければいけない  ─── だがそういう複雑さの中でもまれるうちに、自分でも気付かなかった色々な話術を身につけたのだろう。

だがしかし僕は何故その女の子に絡まれたのだろうか。

助けてサイン

女の子には、ストレスが多くなると怒られるとわかっていてわざと悪いことをするタイプの人がいる。他人を怒らせるにあたって微妙に陰険なやりかたで相手に気が付かれない様に嫌がらせをする。実はこれは嫌がらせではなく、実は微妙な「助けてサイン」だったりするのではないか、と僕は思っている。

というのも恐らくうちの家系にこの気質があるらしいのだ。うちの親族はこれをやるタイプが多い。

この『助けてサイン』をぶっちぎり無視すると、よりあからさまに『微妙な陰険攻撃』が始まる。10年位倉庫に入ったままで見ていなかった大切な思い出の品をこっそり捨てたり、大切なものだと知っている癖に知らなかったふりをして捨てたり …等々、大抵は物を捨てる行為に走る。

ストレスが激化すると、より捨てたことが発覚しやすい物へと捨てる対象がシフトしていく。僕が後で食べようと思っていたパンを食べようとしていると知っていながら捨てたり、あとで使おうと思っていたもので捨てても問題なさそうな物をどんどん勝手に捨てたりする。

自分が捨てても怒られないと思ってるなら俺が捨ててやるバカヤロウと思って、仕返しに豪快に親族の物を捨ててやったこともあったが、体調が悪くなってしまったので中止を余儀なくされたことがあった。というわけで、いつも物を捨てられるばかりの僕。不公平である。

何かあるとすぐ捨てられる。いろいろな物を捨てられたなぁ…。今まで捨てられたもので一番ムカついたのは、僕が子供の頃にコレクションしていたマイコンベーシックマガジンのバックナンバーコンプリートしていたものやさまざまな豆本を全部捨てられたことだ。アレについて僕は今でも許していない。

電車の中でこれを知らない人にやるタイプがいる。普通の人は気が付かないで通りすぎてしまうので、問題が起こらない。ところが僕は、どういう訳かそれに恐ろしく敏感に反応してしまう。それで喧嘩になってしまう。


空気を読む能力

僕はよく『お前は空気を読めないやつだ』と怒られるのだが、実際のところ僕は非常に空気を良く読む。僕は空気が読めないのではなく、空気を読み違えているのだ、と気付いたからだ。

日本の空気感は大別すると2種類ある。ひとつは東日本の空気感で、もうひとつは西日本の空気感だ。この2つの空気感は全く真逆と言ってよく、この両方を行き来するためにはこの『空気感の切り替え』を正確に行うことが大切だ。この空気感の入れ替えは自分の気持ちのうえで非常にプレッシャーのかかる作業で時間も掛かる。僕が『空気が読めない』と怒られる時は必ず、この空気感の入れ替えに失敗している時だ。

或いは敢えて空気を読まないときもある。 『そこで空気を読んでも意味がない』という場所では敢えて空気感を無視したり、積極的に空気感を乱すようなことを言ったりすることもある。

大陸では様々な民族が完全に住み分けられて分かれており、異なる民族が同じ地域で共存していることは稀なことだ。それぞれの民族によって全く違った空気感を持っており、それぞれ別な地域に分かれて住んでいる。だが日本はあらゆる全く違った空気感の人達が東京という街に押し込まれてぐちゃぐちゃになって生活している。

そういう多様性の中で「これくらいならやっても誰も気付かないだろう」というような隠れた悪意で嫌がらせや八つ当たりをする人というのは、必ず一定数いる。

僕は顔が東日本顔なので、大抵西日本人には見られないのだが、性格的にはあまり東日本的でない。僕は東日本的に無口ではないし、東日本的に我慢強くもない。だが明らかに西日本人よりも我慢強いし、ひとたび無口になると1年くらい無言で過ごすことも稀でない。

そういう僕は恐らく日本の様々な空気感を自分のなかで機敏に切り替えて色々な人間関係に入っていく能力があるようだ。

そういう特殊能力がある僕は、電車に乗っているだけで、様々な隠れた悪意にいちいち気付いて反応してしまうという面があるのではないか、と思う。

西日本人独特な嫌がらせの仕方もあるし、 東日本人独特な嫌がらせの仕方もある。僕が見ている限り西日本人がよくやるように雑踏で間違ったふりをして他人を蹴飛ばしたり突き飛ばしたりしても東日本人は大抵その悪意に気付かない。逆に東日本人がよくやるように、こそっと一瞬だけ露骨な嫌な顔を見せたり隠れて物を捨てたりする隠れた悪意に西日本人は大抵気付かない。

僕は両方気付いてしまうのだ。

空気が読めないという苦情

『空気が読めないと怒られた』と悩んでいる人は多いようだ。

だが僕は断言するが、空気が読めるようになると逆に怒られる機会はより増える。

それは東京のような複数の空気感が混在する街ではより顕著に怒られる様になる。

何故か。

『空気が読めない』という苦情の本質は、空気が読めない人の居直り責任転嫁だからだ。

西日本の地方都市から出てきたばかりの方はしばしば、東日本の常識に不慣れなことから自分が『空気が読めない』と怒られるよりも先に自分が先に相手を『空気が読めない』と苦情を言うことによってイニシアチブを取ろうとする。 ─── ここでは便宜上東日本人・西日本人という表現を使ったが、西日本にも東日本的な気質の人はたくさんいるし、東日本にも西日本的な気質を持った人はたくさんいる。

『空気読め』というセリフは、コミュニケーション重視型で細かいことが得意でない人が、集中作業重視型の人を腰砕けにして牛耳るためのテクニックのひとつだ。


他人の悪意に気付いたときどうするか

僕個人的な好みを言わせてもらえば、他人の悪意に気付いた時にそれをいちいち捕まえて文句を言うのは全く僕の好みではなく、むしろ他人の悪意を受け容れて許してしまい怒られるままにしておくのが僕の好みだ。

だが日本では、それがあまりうまくいかないことも多い気がするのだ。

外国の様に嘘つきや詐欺師のような性格の人がひしめいているなら、それでよい。

だが日本人が文句を言ったり嫌がらせをしたりするのは、厳密にいうと悪意でない場合が多いのではないか、と思うのだ。

本当は気になっている、或いは本当は助けて欲しい、本当は苦しいことをわかってほしい、といういう無意識の思いが、『どうみてもあからさまなのに飽くまでも隠れながらやる陰険な嫌がらせ』となって表出するのではないか、と僕は思う。だから頭に来るようなことをされた時に、無視して放っておくのもよくない様な気がするのだ。

だからといって電車のなかで知らない人にそれをやるのも、どうかと思うが。

僕はどういう訳かそういうふうに女の子に絡まれることが多い気がする。









著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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