あらすじ ─── 1991年に実家を追い出され、何の援軍もなく都会砂漠で孤立奮闘。飯が喰えないまま八百屋・運送屋・新聞配達などをしながら夜間高校に通っていたおかあつ。1996年に大検に合格した為、めでたく高校を名誉中退。ジャズミュージシャンを目指しバークリー音大留学の為に渡米。3ヶ月の留学準備の語学研修を受けた。だが堪え難い生活苦を忍ぶ貧乏学生にとって、留学など高嶺の花だった。語学研修を受け終わった段階で資金切れ。帰国。そのまま生活苦に陥り、転げ落ちる様にコンピュータープログラマに。8歳の頃から遊びでプログラミングをしていた事が、思わぬ助けとなった。ネット革命直後の時代、まだまだプログラマに対する偏見が強くオタク・ネクラなどと蔑まされていた時代、まさかそれが月収数十万も得られる職業につながるとは、想像だにしなかった。
だが当時はバブル時代の驚異的な繁栄の残り香が漂う時代。苦労を知らない団塊ジュニア世代が豊かさを謳歌していた時代でもあった。生活苦に対して理解のある人は稀だった。筆者は様々な偏見に苦しんだ ───
だが当時はバブル時代の驚異的な繁栄の残り香が漂う時代。苦労を知らない団塊ジュニア世代が豊かさを謳歌していた時代でもあった。生活苦に対して理解のある人は稀だった。筆者は様々な偏見に苦しんだ ───
筆者は2000年前後に、自己発表の場所として http://ats.oka.nu/ というサーバーを作成し、そこで日記や演奏などを公開していた。 極めて忙しい中で走り書きの様に書き残したものが殆どで、稚拙で荒削りなものばかりだ。
しかし、2010年の筆者と比較すると、まるで別人のようでもある。否、改めてよく見るとやはり同一人物のようでもある。この10年間でどの様に筆者が変化したのか、分析する為の手がかりとして、ここに過去の日記を公開するものである。
9×3+2=30?
そんなある日、旧友から生活のゆとりが無いことをなじられる。苦しみつつも前向きに受け止める努力をするおかあつ。そこに旧友で某レコード社からメジャー デビューしたミュージシャンB氏から連絡が…「ジョンスコのライブに飛び入りしようぜ!」。ジャズギタリストを目指していたおかあつの大ピンチ。おかあつ の反応は如何に…。※ジョンスコ=ジョン・スコフィールド。マイルス・デイビスバンドで演奏していた著名なジャズギタリスト。
INCREDIBLEの意味
間違って意味を覚えた英単語。間違って覚えたからといって、一体なんの問題があるというのだろうか。現代日本社会の親と教育
コンピュータープログラマとして働くことで経済的な安定を得た後に、夜間大学に社会人として編入したおかあつ。何とか自力で稼ぎ、自力で学ぶというスタイ ルを作り上げようとするも、親が子を養育・親が学費を払うのが日本社会の一般的な流れ。偏見と無理解に阻まれ暗中模索するおかあつ・1999年の手記断片 ─ クールヘッド・ウォームハート
2000年初頭に書かれた断片。気持ちと論理の交差点を様々な視点から切り出し、読者の前に並べてゆく筆者の話法は、人呼んでおかあつ節と 呼ばれているらしい。 筆者が厳密な論理と、それに真っ向から矛盾する存在の気持ちとを、並行して考えることが大切だと、筆者がはっきり意識したのは、つい最近のことだ。だが、 この断片を見てみると、実は2000年の段階で、その発想を持っていたらしいことがわかる。 その事が、筆者自身にとっても、意外だった。マイ・イデアル
自分の理想について。今日、学校に中退することを告げる為に電話したのだ。
筆者は、1999年から2000年までTという夜間大学に通ったが、仕事と勉強を両立させる大きな犠牲と、お金を払って大学に行く大きな犠牲と、大学に行って得られる小さなメリットを天秤に掛けて、最終的に中退する事を決めた。その後、再度A大を受験し合格したのだが…。この記事は、当時の経緯を述べた手記である。
今日、合格したA大に行ってきた。
筆者は、1999年から2000年までTという夜間大学に通ったが、仕事と勉強を両立させる大きな犠牲と、お金を払って大学に行く大きな犠牲と、大学に 行って得られる小さなメリットを天秤に掛けて、最終的に中退する事を決めた。その後、再度A大を受験し合格した。だが仕事と勉強を両立させる困難と犠牲、 その犠牲を払って得られるメリットの小ささを考えて、大学に見切りをつけるべきと感じており、激しく悩んでいた。この記事は、当時の経緯を述べた手記である。