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2018年9月10日月曜日

ジャズと権力3…武道的なジャズ (oka01-qwqwadlqjzosmrxg)

音楽で一切妥協しないことは、決して自己中心的というわけでは決してない。



僕は中国南部〜ラオ〜タイをまたぐ放浪生活を10年くらい送っていた。長いラオスの農村生活のあとでバンコクに戻ってきた時、ラオ系タイ人(タイ東北=ラオ系タイ人の居住地域の人)がバンコクでは、同郷の人で集落のようなものをあちこちに作って集まって住んでいる事に僕は気付いた。タイに住んでいる複数の民族は、全く『同化』が進んでいないからだ。

タイは多民族社会だ。主に5つの民族に分けられる。クメール・マレー・潮州・タイ・ラオだ。少数民族を入れるとその数は100以上になるだろう。彼らはそれぞれ方言を持っており、場合によっては完全に違う言語を話す。文化も全く異なる文化を持っている。

そういう中でも僕は、ラオ語(タイ東北方言)が話せる。なのでバンコクにいる時も、ラオ系タイ人の集落ばかり渡り歩いていた。方言を話す妙な日本人ということで、ラオ系の人にいつも不思議がられていた。

そんななかで僕が、『ラオ人』の視点から見た『タイ人』には、実にむかつく奴が多かった。わざとわかりにくい様な形で、方言を揶揄した冗談を言ったり、場合によっては露骨にそれを言ったりする。ラオ系タイ人は、街者と全く価値観が違う。特にラオ系の人は根っからの農民ばかりなので、商業は苦手。工業も苦手な人が多い。そんなラオ人の田舎風の生活風習や気質などを嫌味に言う人は、たくさんいる。

もちろん僕はラオ人ではないし、 僕とラオ人を比べるとたくさんの違う点があるわけだが、でも僕は可能な限りラオ人に配慮を示し、ラオ人に怒られないようにラオ風にして生活していた。またそうすることに慣れてしまっていたので、なんだかんだいっても、いつもラオ人と一緒に過ごしていた。

─── それで東京に戻ってきて思ったのだが、タイの首都バンコクで地方出身者が同郷人同士で集まって生活している点に於いて、実は日本も全く同じ状況があるのではないだろうか。僕は東京の地方で生活した経験がないので、はっきりしたことは言えない。 都内の人を遠目で眺めていると、都内(特に山手線圏内)に住んでいる地方から上京した人々は、しばしば、会社・学校・サークル・行きつけの飲み屋・バンド・オフ会… などをひとつの『集落』と見立てて、同じ出身の人同士で集まって過ごしている…と僕には思えてきたのだった。

タイ人でも、僕のようにタイ語・ラオ語・中国語と複数の言語を勉強して、バンコクの各民族の集落を自分の庭のように渡り歩けるようなタイ人は、滅多にいない ─── だが、それはひょっとしたら、東京も同じなのではないだろうか。僕は東京で、日常的に全く違う傾向のお互いが全く何の関連も持っていない、全く違ったジャンルの人間関係を渡り歩いている。(ジャズ・アイスホッケー・インラインスケート・語学・プログラミングに等しく首を突っ込む人が僕以外にいたら、僕も是非見てみたい)  だが、そういう東京の歩き方ができる人は、極稀だ。それはひょっとしたら、極端に混血度が高い僕という人間が持っている特殊性が起こす現象なのではないか。

田舎を知る街者

問題は、僕が完全に田舎の人の手の内を読んでしまったことなのかも知れない。

僕がタイの地方の農村で方言地獄に落ちて苦しんでいるとき、丁度時同じくして、ツイッターで炎上したことがあった。1万を超える人から延々と2週間ぐらい連続で怒りのリプライを受ける ─── タイにいると時間が有り余るほどあるので、ひたすら返答を返した。そういうことが数度あった。

そこで僕は、田舎の人がやりそうな騙しの手法。詭弁の組み立て方。精神的な揺さぶりの掛け方 ─── それを北海道から沖縄まで、全部一通り見てきてしまった。(炎上書き込みするのに、わざわざ自分の出身を明かす人などいないが、嫌がらせの仕方には非常に強い地域性が出るため、最初の1ツイートを見るだけでも、西日本か東日本かくらいは判別がつく。よく観察すれば出身県くらいまでは判別つく。)

青森から九州まで、全国津々浦々に親戚がいる混血度の高い『僕』という特殊性もあるのかも知れないが、どういう角度から攻撃を受けても、それなりに打ち返せるようになってしまった僕。

東京の人間関係の荒波を乗り越える心構えとして「カウンターパンチ」に気をつけることは大切だ。なぜならカウンターパンチを食らうのが一番危険だからだ ─── 自分がパンチ(口撃)を仕掛けた瞬間に、反撃されてノックダウンというパターンは非常に多い。だから自分から攻撃を加えてはいけないし、止むを得ずパンチするときは、カウンターを最大限に警戒しながら細心の注意を払ってパンチするのが定石だ。

だけど、東京に不慣れな人は、みんなカウンターパンチを全く警戒してない。無警戒でパンチを撃ってくる。そこで僕が軽くカウンターを入れるだけで、彼はノックアウトになってしまう。これは僕からみると、とても危うく見える。

好きこのんで相手をノックダウンしたい訳ではない。だが反撃せずにパンチ(口撃)を受けつづけるのは、こちらとしても非常に痛い。だが、こちらがカウンターを入れてしまうと、相手は致命傷を負って完全にノックダウンになってしまう。

そこが悩ましい。

反撃してはいけない

大陸の人間関係は、基本的にぶつかり合いだ。騙し、嘘つき、はったり、誇張、陽動、矮小化、傲慢、憐憫、ごり押し、居直り …なんでもある。日本から出た約10年というもの、僕はそういう大陸のぶつかり合いのなかで揉まれてきた。最初は負けっぱなしだったが、6年間の苦労の末、ラオ語が話せるようになった。これが非常に強い武器になった。

特にバンコクでは有利だった。なんといっても僕は、タイの半数以上の人がネイティブとして話している言語=ラオ語が話せたので、街中での口喧嘩には非常に強かった。場合によってはタイ人よりもずっと強かった。それが逆に危険だった。

僕は一度、外人の多い船着場のチケット売りと口論になったことがあった。座っていたら、向こうが僕に悪口を言っているのが聞こえたので、何となく言い返したら興奮して更に言い返すので、最終的にエスカレートして殴られ、警察沙汰になってしまったのだ。

実はそのチケット売りのおばさんは、僕がタイ語が話せないと踏んで、僕の悪口を大声で言っていた。僕がそこに気が付かず、普通に返答してしまったのが、すべての間違いの始まりだった。

「外人に言い返されてタジタジになっているおばさん」というのは、どう見ても滑稽だった。それはタイ人から見ても充分に滑稽な姿だった。それがおばさんを激昂させてしまった。 僕は石を投げつけられて怪我をした。

僕はラオ語の方言が話せたので、僕は頭から血を流しながらラオ語で「あのおばさんにやられました」と宣伝して歩いた。バンコクはラオ系タイ人が非常に多い。これで、その辻のなかのタイ人を全員味方につけたも同然だった。ラオ系ではなかったおばさんにしてみれば、完全に予想外の展開だった。

そのおばさんは「警察呼ぶぞ」と威嚇するので、呼べと言った。だが、呼べというのに一向に呼ばない。おばさんは、外人に『警察を呼ぶ』といえば、萎縮して何も言わずに逃げるだろう、と踏んでハッタリを掛けている訳だ。だから僕は、自分で警察を呼びに行った。

警察はすぐに来てくれた。警察が来たらすぐに治療班来てが治療してくた。で警察と話をした。僕も頭から血を流しながらだったので、流石にこれは説得力があった。周りのタイの人も援護射撃してくれた。いつもはタイ人びいきの警察の人も「これは流石にちょっとやりすぎだろう」と僕の肩を持ってくれ、警察官は、そのおばさんに治療費を払えと命令した。おばさんは真っ青になって謝り始めた

だが僕は治療費を請求しないで帰ってきた。

このあとも、色々な人と話をしたが、どの人も僕に理解を示してくれた。これは流石にあのおばさんが悪い。  ─── だが僕はこの時、勝てるからといって勝ってばかりいたら、いつか大怪我をすることになる、と気付いたのだ。いくら相手が悪くても、できるだけ衝突を避けるようにしなければいけない。そう気付いた瞬間だった。

ジャズの武道性

ジャズは基本的に、 大陸の音楽だ。基本的に、相手とぶつかりあう音楽だ。相手に寄り添う音楽ではない。これは基本的に協調を重んずる日本の文化にはない行為だ。 ─── だが僕が思うに、ここに武道の考え方を持ち込むと、ジャズはむしろ日本的な要素を持った音楽と捉えることもできるのではないだろうか。

武道は、基本的に相手を殺す技術だ。それは最終的に、人間同士の衝突でしかない。だけど武道を極めると、それは、相手を殺す為にむしろ逆に相手を活かす…という全く逆の境地に到達する。 ─── この考え方は、ジャズでも有効なのではないか。

ジャムセッションは、基本的にぶつかり合いだ。リハモナイズ・リズム・メロディーの抑揚など、音楽のすべての局面において、何かひとつが飛び出せば、何かひとつが叩き落とされる。そうやって曲全体が構成されていく。

ジャズの激しい人間のぶつかり合いのなかで、気分を害したり傷ついてしまう人もいる。だが遠慮して相手の出方を伺ってばかりいれば、聴いている人は面白くない。あくまでもジャズはぶつかりあう音楽だ。

だがぶつかりあいが終わったあとは、正々堂々と闘ってくれたことに感謝を示し、相手に対する敬意を示し、礼儀正しくお礼を言う。こうすることによって、よりただ単なる衝突を日本的な芸術の域まで昇華することが出来るのではないか。

僕は主にタイにいたので、ムエタイ(タイ式キックボクシング)をテレビで観戦する機会が多かった。ムエタイは基本的に殴りあう蹴り合うだけの殺伐とした競技だ。だがムエタイの面白いところは、ゴングがなると一転、両者が実に爽やかな笑顔でニコッと笑って抱き合って分かれていくところだ。武道会とは、単に相手を殺す技術を競うだけのものではあるが、それを極める過程で相手の気持まで踏みにじる必要はない ─── そう思わされた。

アジアの頂点にある日本のジャズも、そうあるべきではないか…と思う。

日本のぶつかりあいの難しさ

東京のジャムセッションは、色々なレベルの人が、混ざっている。ルールを守って正々堂々闘うタイプの人もいれば、多少のルール違反を犯してでも勝とうとするタイプの人もいる。好戦的で必要以上に他人とぶつかってばかりいる人もいれば、ぶつかること自体が苦手な人もいる。

技術的な問題も勿論ある。だが、それ以前の問題として、大陸的なぶつかり合いのある人間関係に不慣れな人が多い…ということもあるのではないか。ぶつかり合うとそれだけで動転してしまい、激昂してうっかり手が出てしまう…というタイプの人が日本には多いのではないだろうか。

ぶつかり合いのある人間関係は、飽くまでもぶつかりながら仲良くする点にポイントがある。サッカーのように激しくぶつかりあうが、絶対に手を出してはいけない。大陸では、激昂してうっかり手が出てしまうと、それは基本的に殺し合いの始まりであり、攻撃した人にも、攻撃された人にも、甚大な被害が及ぶからだ。

 ─── 日本では、道の真ん中で「ゴルァ!どこみとんじゃ!ボケ!」「お前こそどこみとんのじゃドアホ!」と大声を張り上げ騒々しい怒鳴り合いを繰り広げる方々を見掛ける機会は多いが、これを同じことを大陸でやると、怒鳴った次の瞬間に、鉄パイプや刃物や拳銃などが出てきて、即座に決着がついてしまう。大陸では『怒鳴りあい』という行為が自体が成立しない。(中略) ───


 ─── (大陸での)喧嘩というものは、(この様に)基本的に殺し合いだ。ひとたびこの様な人間関係上の衝突が起これば、どちら側にも甚大な被害が及ぶ。よって人々は、可能な限り衝突を避けようとする。常に笑顔を絶やさず、自分に敵意がないことを常に表明し続ける(後略)

おかあつ日記『バカなタイ人』より引用

タイに住んでいる日本人でしばしば見かけたのは、ぶつかりあいに慣れていないので、激しくぶつかった時に動転してしまい、リスクを何も考えずに衝突を先鋭化させてしまう ─── うっかり手が出てしまう。先鋭化させた結果は、上記のビデオでご覧になった通りだ。このパターンで犯罪に巻き込まれる海外在住日本人は、非常に多い。

もう少し具体的に分析すると、日本では「多少威嚇するだけで簡単に引き下がる」タイプの人が多いので、日本的な甘さに慣れすぎてしまい、海外の多少威嚇したくらいでは絶対に引き下がらないタイプの人に対応できなくなってしまう人が多いのではないか。海外でしつこく威嚇すると、刃物や拳銃が飛び出てきて迅速に決着する。海外では威嚇など自爆行為でしかない。これはある意味では、日本というガラパゴス島に住み着いて、長年の居心地のよい保護された島国のなかで虚弱化した大陸人の末裔の様なものなのではないだろうか。

僕は、風貌がとても日本的らしく、外国のどこに行っても、まず間違いなく「日本人」と言われる。ラオ系のタイ人が僕の顔を指さし「見ろ!中国人と全然顔が違うぞ!」と言われたこともある。だが同時に、中国人に「おかあつさんは性格が中国人みたいですね!」と言われたこともある。僕の起源には色々なものが混ざっており、特徴が一様ではない様だ。少なくとも僕は日本人ではある。だが、どうやら気質は大陸的なところがあるようだ。

だからこそ、大陸のぶつかりあいに親しみを感じるのかも知れない。

それで僕は、大陸の音楽文化であるジャズの音楽的な衝突が大好きな訳だが、僕が日本で大陸的なぶつかりかたをすると、僕も、タイや中国で事件に巻き込まれる日本人と全く同じ反応を受けてしまう面があるのではないだろうか。つまり、衝突に慣れていない日本人が激しく衝突すると、その衝撃で激昂してしまい、ついうっかり手が出てしまうのではないだろうか。

相手の心理に配慮する為、激しいぶつかりあいでも武道の精神をもって相手に礼儀を尽くすことが大切なのではないか、とも思うのだが、怒っているのに礼儀を尽くされると、つんのめってしまい、逆に激昂して吠え続けてしまうタイプの人も多いのが悩みどころだ。

日本人の人間関係というのは、実に面倒くさい。 


最後に

とりあえずここで筆を置こうと思う。これは、今感じている強烈な違和感について散文的に思いつくままに書いた文章だ。どうしてもこの違和感の正体を描き切れなかった。これが今の僕の分析力・説明力の限界だ。

またしばらく修練を積んでから挑戦し、次こそは雪辱を晴らしたい。
 (終)

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日本語のリズムと日本ジャズのリズムの関係について:

この文章の中で、繰り返し日本語の持つリズムの特殊性について言及している。その特殊性について、譜面を混じえて具体的に説明した「縦乗りを克服しよう」と題したシリーズの講義を書き記した。

何故、日本人は縦乗りなのか ─── 縦乗りを克服しようシリーズその1
縦乗りの起源・日本語のリズム ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
縦乗りをよく知る・縦乗りと裏縦乗り ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
日本語のイントロ ─── 縦乗りを克服しようシリーズその4

これらの『縦乗り』のリズムと、ジャズとの関連については次で説明した。

言語と音楽『ジャズと揉み手


ジャズと邦楽の関係について考えてみた

言語と音楽『ジャズという敵性音楽』





更新記録:
文言『ジャズと権力』をタイトル後に移動した(Fri, 16 Aug 2019 12:51:25 +0900)
関連記事を追加した。(Fri, 16 Aug 2019 13:04:07 +0900)
『武道的なジャズ 〜 ジャズと権力3』から『ジャズと権力3…武道的なジャズ』に変更しました。 (Sun, 08 May 2022 02:16:43 +0900)

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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