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2016年8月27日土曜日

バカなタイ人 (oka01-xzmejgoszplkncmc)


日本人がタイ人を見ると『頭が悪い』とイライラを募らせることが多い。 何故、タイ人は『頭が悪い』のか。頭の悪いタイ人をやっつける為にはどうすればよいのか。考えてみた。


『タイ人はバカじゃない』というブログ記事を見つけた。

加えてインドシナ半島は人や物資の通り道で、過去、戦争状態じゃなかった時代のほうが珍しいぐらいで常に入れかわりたちかわり色んな人がやってきた 動物的直感が研ぎ澄まされていないと危険を察知できないし時には施政者に迎合して手打ちできる柔軟性がないと生き延びることはできないし。そういう人達の子孫が今日のタイ人なんだろうなーと  ─── タイ人はバカじゃない|アチログ

タイ人は、日本人と見ている点が全く違う。タイは物資が貧弱で小さな軍しか持たないのにどういうわけかアジアで唯一欧米の蹂躙を免れた ─── 一方日本は、世界最強と言われ世界中を震え上がらせた強大な軍を持っていたのにどういうわけか戦争に負けた。 タイと日本は実に好対照ではないかと思う。

タイ人と日本人は何が違うのだろうか。

タイ人と日本人の違い

確かにテレビドラマは素人が撮ったのか?なレベルですけど^^; (脚本や演出以前に、音声レベルがまちまちだったり同じシーンの繋ぎがめちゃめちゃだったりする)多分、1時間半×10何回みたいな長丁場には向かないだけなんでしょうね。でも30秒とか5分なら物凄い映像が創れるぜっていう。─── タイ人はバカじゃない|アチログ
確かにタイのドラマを見ていると、ドラマの舞台に出てくる家具が壊れていたり壁に穴が開いていたり電気が切れていたりする  ─── 実は、このことに目が行くそれ自体が非常に日本人的なことではないかと思う。

タイ人にこういったセットや小道具の不具合を指摘してみると「なんで、そういうどうでもいいところばかり気づくの?」というような反応が返ってくる。それで僕も初めて気付いたのだがタイ人はドラマを見る時ストーリーしか見ていない。タイ人にとってセットの出来栄えなどはどうでもよいことなのだ ───  一方日本人(僕)は、ストーリーよりも出演している俳優の顔や着ている服やセットの出来栄えなどを見ている。その時僕はその違いに初めて気付いた。

タイ人は『人間関係』を見ている。 僕も当初はタイのドラマはチャチだ…と思っていたが、僕のタイ語が上達するに連れて徐々にわかる様になってきたのはタイのドラマのその恐ろしいほど詳細な人間関係描写だ。日本のドラマでは絶対にありえない複雑な人間関係や政治関係がドラマの主題になっている。

タイのドラマは日本のドラマと比較すると恐ろしく長い。一回の放映が2時間以上あるのが普通だ。しかもそれが毎日連続している。この充分過ぎるほど長い時間を使って悲鳴を上げる隙もないほどに緻密に絡み合った人間関係とそこで起こった感情のもつれが描かれる。

また登場人物の人生の描写が日本のドラマではありえない程の残酷さを伴っている。

おちゃめな登場人物が愛嬌たっぷりにおちゃらけて突然のハプニング…ポヨヨヨーーンというような効果音と妙な音楽で視聴者を笑わせる。そんなおちゃめキャラが突如として情け容赦のない残酷なレイプ殺人に遭遇し、殺されたりする。 油断しきった視聴者に何の容赦もない残酷なストーリー展開が襲いかかる 。

これが、タイのゴールデンタイムの枠で放映される。子供からお年寄りまで、視聴する。

僕が思うに、一般的な日本人は、タイのドラマを楽しむだけの精神力を持ち合わせていない ─── もし日本人が言葉の問題がなくタイのドラマを見ることができたなら、恐らく30分ももたずに発狂するのではないだろうか  ─── 話が細かすぎる。人間関係に幻想がなさすぎる。

日本人は、タイのドラマに出てくる複雑な人間関係を読み解く分析力というか、根気というか、人間に対する飽くなき好奇心を持ちあわせていない。また、人間関係の醜さを直視して楽しむ程の精神的な成熟度を持ち合わせていない  ─── タイ人は、子供からお年寄りまで、誰でもこういうドラマを見て楽しむに充分なコミュニケーションスキルを持っている。

タイ語歴も10年を超え僕のタイ語力は大分伸びてきた。だが未だにタイのドラマはよくわからない事が多い。というのも、ストーリーが恐ろしく長く複雑で僕の理解を超えてしまっている。毎日決まった時間にドラマを見る好奇心が続かない。毎日2時間という長時間にわたってドラマを見る集中力が続かない。

ドラマを途中から見た時に、その前後で起こった出来事を推測して補完する能力が足りない。タイの人はしばしば、ドラマを途中から見ても、その前後で何が起こったのかを、想像で補うことができるようだ。だが日本人はしばしば、それができない。タイ人は、他のグループの雑談に途中から参加することができる。それまでの会話の経緯がどういうものだったのか、想像で補うことができるからだ。だが日本人はしばしば、できない。

何故タイ人はバカなのか

人が人と出会う。そこでコミュニケーションを行う。そこには、そのコミュニケーションが行われるに至った『物語』が存在する。そのコミュニケーションが行われている『状況』が存在する。コミュニケーションに使うことができる『切り札』が存在する ─── こういったコミュニケーションに必要な全ての要素を分析する能力を考えた時、タイ人は日本人と比較にならないほど長けている。

50歳〜60歳になった中年の日本人男性が、18歳〜19歳のタイ人女性と交際している・・・という状況は、バンコクにいればしばしば見掛ける状況だ。僕が、その人間関係を見て思うのは、日本人男性が50〜60歳になってようやく人間として成熟がはじまり『大人』なりつつあるのに対して、タイ人女性は18歳〜19歳で既に『大人』になっている、ということだ。

10代にして既に親を養い子を養い、一家を切り盛りしているタイ人女性。10代にして既に『他者』を気遣い『他者』の心情を理解し『他者』に配慮するだけの精神的なゆとりを持っている。

一方、日本人男性は50歳〜60歳になってもわがまま放題で自分しか見えない。他者を気遣うだけの精神的なゆとりを持っていない。子供っぽい精神性を温存させたまま、中年を迎える日本男性。
 
状況が飲み込めないまま金にものを言わせ、わがまま放題を繰り返す日本人男性。そして、そういう精神的に幼い中年日本人と出会い、精神的・心理的に何が起きているのかを完全に理解し、そこにあるギャップを受け入れて許しているタイ人女性。その段階でその人間関係は対等ではない。

日本人はそこで様々なトラブルと出会う。日本人は、「タイ人がバカだから、こうなった」「タイ人がバカだから、ああなった」とのたまう。だが、タイ人から見ると、そこで起きたことは、最初から最後まで狙い通りなのだ。つまり日本人は、騙されているのだが、日本人は、タイ人のもちかけたゲームを分析する能力を持たず「タイ人はバカだから仕方がない」と短絡的に結論づけて、思考停止してしまう。

バカほど他者がバカに見える。

差別感情は弱点になる。 差別をしてはいけない本当の理由は、それが倫理的に悪いことだからではない。敵に付け込まれて利用されるからだ。

─── それは、当然のことなのだが、人間関係の醜さを直視して分析する習慣がない日本人は、どうしてもそのことが理解できない。



タイの田舎と日本の田舎

『民族のるつぼ』と言われているバンコクには、あらゆるアジアの民族が集まっている。バンコクで、顔を見ただけでその人が日本人を見分けるのは、案外とむずかしい ───  ところが、日本人はしばしば歩き方が非常に特徴的で、歩いている姿を見ると案外と簡単に見分けがつく。

その歩き方とは、「ボケーーー」っとしていることだ。全くまわりを見ないで、しばしば人とぶつかる。様々な民族の人らが狭い歩道を機敏に譲り合いながら歩いているタイの人ゴミのなかで、こちらが右に避けたら右に避ける、左に避けたら左に避ける…というような、間の悪い歩き方をしている人を見かけたら、それは大抵日本人だ。

先日も、バンコクの高架列車の駅に入る階段を登っていた時、その狭い階段を大勢の人が降りてきた。皆、まわりを見ながら、対向する通行者を右にかわしたり、左にかわしたり、譲り合って通行している。だがその中に、階段のどまんなかをまるで無人の野をゆくかのように、威風堂々と歩いている人がいた ─── 日本人だ。

この歩き方は、それだけで極度に目立つ。

これを見て僕は思った ───  バンコクでこうして働いているタイ人は、ほとんどの人が田舎から出てきている。彼らは田舎者だが、広いタイ社会のなかで、それなりに競争を勝ち抜いて首都バンコクに出てきた優秀な田舎者でもある。彼らは、歩き方がそれなりに機敏だ。 ─── ところが、この中に混じって歩いている日本人のほうは、そうではない。日本社会での厳しい競争に勝てず、日本から追い出される様に『いやいや』タイにやってきたタイプの日本人が多い。彼らは当然、日本の首都・東京で暮らした経験などない。彼らの歩き方には機敏さがない。

彼らバンコクの日本人は、首都に住んで様々な地方から集まった多様な人たちとぶつかり合った経験がない。タイに来て初めて多様な人とぶつかったという様な状況なのだ。彼らは、外国が初めてという以上に故郷を離れること自体が初めてだというタイプが多い。

つまり『タイ人はバカばかり』なのは、タイにいる日本人が田舎者集団であることにもよる。

参照:おかあつ日記・日本という秘境

人のせいにする日本人

ある日僕は、バンコクの高架電車に乗っていた。電車は混雑していた。僕が車内で立っていると突然僕の目の前にあるつり革に手を伸ばしつかまりはじめた女性がいた。僕もよそ見をしていたので、僕の胸がその女性の腕に当たった。女性は、僕をジロリと睨みつけた。

これを見て僕はその女性が日本人であることを悟った。

こういう問題のある日本人によくあることだが、この人も例外に漏れず、顔を見ただけでは日本人だと見分けがつきにくいタイプ(タイにもたまにいる顔)の人だった。だが僕はこの人が日本人だということに気付いた。何故かというとこの女性の行動パターンは日本人にしかないパターンだからだ。

もしこの人が中国人だったとしたら恐らく腕があたっても全く怒らないだろう。怒らないだけでなく、気にすらしない。謝らなくても怒らないというよりも、謝る必要がない。 腕が当たるくらい、中国では普通のことであり、謝る必要もなく、気にする必要もない。相手の失礼に対する寛容さを見せるのが、常識なのだ。

もしこの人がタイ人だったとしたら、恐らくそのつり革にはつかまらない。人の目の前にあるつり革につかまれば、当たるのは必然だ。ならば、最初から遠慮してつかまらないのが当然だ。もしどうしてもつり革につかまる必要があるなら「済みません」と一言声を掛けてからつかまるだろう。そしてもし腕が当たったら、つかまっている人から先に謝る。 腕が当たった程度で、ムッとしない。それが普通だ。

日本人だけが、何故か人の目の前にあるつり革につかまる。つかまればそばの人にぶつかることもあるかも知れないが、そこに気付かない。当然、声を掛けることもしない。そしてぶつかると、ぶつかった人のせいにして、謝らない。 これは日本人にしかない習慣だ。

この『強情っぱり気質』については、 おかあつ日記・同調圧力の起源 で詳細に述べた。

同調圧力の起源の中では、この『陰湿・強情っぱり気質』を持つ人は東北の人に多い、と結論付けられている。だが僕は今、この結論に異論を持っている。何故なら、バンコクにいる日本人には東北人が非常に少ないからだ。だがにも関わらず、バンコクには上記『強情っぱり気質』に一致する日本人がたくさんいる。これは恐らく、関東人の真似をする関西人=『エセ関東人(東北人)』が原因している。僕は以前、『エセ関東人』『エセ東北人』の存在に気づいていなかった。日本の『陰湿・強情っぱり気質』の根源を全て東北とする結論は誤りだ。 『エセ関東人』『エセ東北人』については、別紙に改める予定だ。

※(2016年9月2日追記)『エセ関東人』については、 エセ関東人の見分け方がおもしろ過ぎる件www にて詳細に説明した。


人のせいにする性格は、日本人だけが持つ特徴ではないかと僕は思う。

たしかに、タイ人も人のせいにすることが上手だ。問題が『車がぶつかった』…というような金銭上の責任問題である場合は、殊にそうだ。タイ人は無責任だろうか。否。実はこれは、タイ人に限らない習慣だ。世界的に見ると中国人やアメリカ人など世界の大半の人たちはそう簡単に謝らない。

この場合、自分の非を認めると金銭的な損害になる。それは飽くまでも政治的な駆け引きであって、倫理的に見てそれが正しいかどうかは別問題であり、利害関係を調節する上で不利になることは、一切認めない。

だが大陸人はそれ以外の場面では案外と素直だ。

タイ人を含む世界の大陸人は、コミュニケーション上の衝突で非を認めないことは、あまりない。例えば、肩がぶつかるなどして、相手に嫌な思いをさせてしまったら、即座に謝る。そもそも謝ったところで、金銭上何も損害はない。笑顔を絶やさず、すぐに謝り、自分に敵意がないことを明確に表明する。

あるいは、肩がぶつかったくらいのことで怒らない、ということもある。それくらいの些細なことでいちいち怒っていたら、それ自体が損害だ。些細なトラブルは、寛容に受け入れて、許す。それが普通だ。

大陸人は、日本人のように意地をはらない。むしろこういう場面で強情をはると、人間関係がスムーズにいかなくなり、自分自身の損害になる。つまらない意地をはって衝突が先鋭化すると、色々な意味で危険でもある。

日本では、道の真ん中で「ゴルァ!どこみとんじゃ!ボケ!」「お前こそどこみとんのじゃドアホ!」と大声を張り上げ騒々しい怒鳴り合いを繰り広げる方々を見掛ける機会は多いが、これを同じことを大陸でやると、怒鳴った次の瞬間に、鉄パイプや刃物や拳銃などが出てきて、即座に決着がついてしまう。大陸では『怒鳴りあい』という行為が自体が成立しない。大陸人には『大きな声を出す人を目前にすると、恐怖で萎縮し何でも言うことを聞く』という習性自体が存在しない。 怒鳴られたら、即座に逃げる人・即座に殴る人の二種類しかいない。延々と怒鳴りあい威嚇しあう人は、いない。




これは、2016年4月にタイ中部であったケンカの映像だ。日本外の喧嘩では、日本の様な怒鳴り合い威嚇しあうようなことが一切ない。躊躇なく刃物や鈍器などの武器が出てくる。喧嘩というものは、基本的に殺し合いだ。ひとたびこの様な人間関係上の衝突が起これば、どちら側にも甚大な被害が及ぶ。よって人々は、可能な限り衝突を避けようとする。常に笑顔を絶やさず、自分に敵意がないことを常に表明し続ける。

相手のせいにして人に怒ってばかりいるのは日本人だけが持っている特徴だ。意地を張った結果としてどの様なメリットがあるのか僕にはよくわからないのだが、些細なことでいちいち謝らず些細なことでいちいち自分の優位を確認しようとするタイプの人が日本だけにいる。

コミュニケーション上のトラブルを全て人のせいにして自分を一切顧みず、タイ人はバカだ、タイ人はバカだ…と連呼し反感を買って騙されてばかりいる日本人。どちらが本当のバカなのかは、一目瞭然だ。

───  もっとも、大半の日本人は、決してバカではない。そもそもこういう問題のあるタイプは東京ではまず見掛けない。その絶対数は決して多くはない。だが日本にしかいないタイプではある。






更新記録:
(Fri, 02 Sep 2016 19:06:10 +0700) 『エセ関東人』に関する記事へのリンクを追記した。
(Mon, 19 Jun 2017 15:50:52 +0900) エセ関東人に関する記述を若干変更した。
(Tue, 06 Mar 2018 08:44:33 +0900) 冒頭の『正にその通りだ。』『前述のブログには、こう書いてもあった。』を削除した。『だが日本人はしばしば、それができない。タイ人は、他のグループの雑談に途中から参加することができる。それまでの会話の経緯がどういうものだったのか、想像で補うことができるからだ。だが日本人はしばしば、できない。』を追加した。
(Thu, 23 Jan 2020 10:27:04 +0900) 句読点を整理した。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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