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2014年5月30日金曜日

同調圧力の起源 (ドラフト)(oka01-draft0000001)

同調圧力の起源について考えてみた。まだ考えがまとまらないのだが、現状として考えている事を拙速で文章化してみた。これを草稿として一時的に公開するもの。意見、罵倒、悪口、晒しツイート、晒しまとめ等々、求む。




この問題について考えたことを、漫画として書いてみた。

もしタイ人が、後ろに全く気付かない中国人タイプの人と出くわしたら、どうするか。
→ 何も言わない。違いがあるということを受け入れる。愚痴をいうことはあるが、苦情までは言わない。

もし中国人が、後ろに気付くタイ人タイプの人と出くわしたら、どうなるか。
→ しばしば「あ!いいよいいよ!気にしなくていいよ!」という反応。「気遣いされすぎても逆に疲れる、もっと好き勝手に振る舞ってくれ」的な感覚がある。

もし東北人が、後ろに気が付かない中国人タイプの人と出くわしたら、どうなるか。
→ 「空気読めよ、馬鹿野郎。」と罵る。

もし東北人が、後ろに気付くタイプのタイ人と出くわしたら、どうなるか。
→「どくのが当然だろ、ルール守れ、ボケ。」と罵る。

もし東北人が、後ろから人が来た時、気付くとどうなるか。
→「何でお前の為にどく必要があるのか。」

もし東北人が、後ろから人が来た時に気付かず、「すみません」と声をかけられたら、どうなるか。
→ 激怒。自分の立ち位置を死守。

全員が全員そうだ、とは言わない。だが関西人や大陸人(中国人・朝鮮人・欧米人含む)には滅多にいないタイプであるが故、非常に目立つタイプではある。

無意味に対決するものは、無意味に破滅する。 もし利害の衝突があった時、賭けられているものが重要でないなら、対決は避けるべきだ。一般的に考えて、エスカレータの立ち位置などは、命を賭してまで守る必要性のないものである。 もし先頭の人が、エスカレータの右側で立ち止まり、後ろに道を譲らず、対決姿勢を示した場合、後尾の人にとって、エスカレータの立ち位置を奪取することで得られるメリットが、先頭の人を虐殺することで支払うコストを上回ると考えた場合、後尾の人は攻撃するであろう。特に大陸人には、このような「意地っ張り」を積極的に破壊することを好む、攻撃的傾向を持つ人間は多い。 後ろから来た人が爽やかにありがとうと言葉をかけ笑顔で通り過ぎるメリットが、左にちょっと避けるというちょっとしたコストで得られるのであれば、避けるべきではないだろうか。

周囲に気を配り思いやりながら街を歩くコストは、さほど高くない。お互いに譲りあう事で、様々な考え方の人がいる社会のなかで、みんなが気持よく仲良く過ごすことが出来るのではないだろうか。

そしてこれは、日本の東北人が、都心や海外に適応することを難しくする原因でもある。

昨今、東北地方の原発事故により、やむを得ず東北地方を離れる必要性に駆られている方は多いであろう。 東北気質は東アジア・東南アジアの中で極めて独特だ。この東北人の独特な気質は、東北人が東北外に出た時、外部の者と激しい摩擦を起こす。この摩擦は経年と共に激化し、コミュニティーの中で誰もが看過できないレベルに到達する為、東北人移住失敗の最大原因となる。やむを得ずに東北の地を離れる場合、この東北人の気質を正しく理解し、東北人と異なる気質を理解し、それを許して受け入れ、摩擦を起こさない為の知恵を学ぶ必要があるのではないか。

余談ではあるが、これは筆者が筆者自身を観察して得た経験でもある。大陸文化に適応するにあたって、東北的頑固気質は大きな障害となる習慣だ。筆者は、自分自身を観察することで問題を分析し、自分を訓練することで矯正した。この経験を、同じ気質を持つ悩める方々と共有したいというのが、この文の趣旨である。

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以前筆者がアメリカに滞在した時のことだ。地下鉄に乗って帰宅中、ある女性が電車の座席を横向きに体育座りして、2人分の座席を塞いでいたのを見かけた。筆者はこの女性を見て「この人は相当に空気が読めない人だ」と思ったが、黙っていた。やがて電車が混み始め、立っている乗客も増えてきた。だが女性は相変わらず横向きに座っている。日本であれば、空気の読めない非常識人とみなされ、見えないようにカバンの中に犬のウンコ等を放り込まれる様な場面ではないだろうか。筆者はこれは一体どうなるのか興味を以って見ていた。すると、あるサラリーマンが「すみません」と女性に声をかけた。「すみません、そこ座ってもいいですか?」女性は「あぁいいですよ。」と答え、まっすぐに座り直した。サラリーマンはそこに座った。

日本人である筆者は衝撃を受けた。サラリーマンが「空気読めこのバカ女!」と罵ることもなく、女性も「なんですか!あなたは!私が田舎者だとでもいいたいのですか!」と怒ることもない。ただの普通な会話であった。「そこに座りたい」「座ってもいい」という何の変哲もない会話。たったそれだけのことが、日本では不可能なのだ、と思わざるを得なかった。

空気が読めないことを恥じることもない、空気が読めない事を罵ることもない。ただ単に自分でさえあればよい大陸文化。


先日筆者がバンコクに滞在している時のことだ。通勤混雑中の高架列車で、ある少年が巨大なランドセルを背負いながら乗車しているのを見かけた。車両は非常に混雑していたが、少年はランドセルを下ろすこともなく、そのまま乗車していた。筆者は内心、「この少年は相当に空気の読めない人だ」と思ったが、黙っていた。やがて電車は更に混み始め、立っている乗客も増えてきた。だが少年はランドセルを下ろす様子もない。日本であればカバンの中に犬のウンコ等を放り込まれる様な場面ではないだろうか。筆者はこれは一体どうなるのか興味を以って見ていた。少年のランドセルが筆者にぶつかりそうになったところ、少年は鮮やかに身をひねり、カバンは筆者を避けてぶつからなかった。筆者はこれを目撃し、「タイ人は後ろに目が付いているに違いない」と確信した。少年は一部始終この調子で、結局のところカバンは他人にぶつからなかった。

日本人である筆者は衝撃を受けた。背後に居る人に対しても、気遣いがある。もしこれが日本だったら、後ろに居るお祖母ちゃんを突き飛ばしてもなお気付かないというタイプの人間は少なくないだろう。「空気が読める」だの「空気が読めない」だのと大勢で罵り合っている日本人の空気読みのレベルの低さを思った。タイ人は空気読み文化だ。日本で例えるなら、国民の全員が「ホストクラブの売れっ子」レベルに気がつく。仕事としてお金の為に気を使うわけではなく、ただ単に、相手が何を思っているか気付くから、相手にしてあげる。ただそれだけの行為である様に、筆者からは感じられる。

空気を当たり前の様に読む。空気が読めないことを罵ることもない。ただ単に思いやりだけがそこにある村社会文化。

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日本人が持っている「空気感」は激しく混乱している。何故なら「大陸型」と「村社会型」の両方が混在しているからだ。

空気が読めるなら、空気を読めば良い。空気が読めないなら、空気を読まなくてもよい。それはただ単にコミュニケーション方法の傾向の違いであって、どちらが優れていると決定出来るものではない。空気が読めるなら相手を思いやる。空気が読めない人の空気も思いやる。 空気が読めないなら、それを受け入れてノビノビと振る舞ってもらう。自分も気遣わずノビノビと振る舞って構わない。そして相手の空気が読めないことも受け入れる。

だが日本の場合、それらが両方混在している。これを日本の「二重常識」と呼ぼう。

日本の「田舎者」東北人は、これらの本来は人間と人間のコミュニケーションをスムーズにする為の常識を、常識を知らない『田舎者』という他者を叩きのめす為の材料として応用している。日本には「村型」と「大陸型」の両方の人間が混在している為、2つの常識が混在している。つまりこの二重の常識は、常に、ある任意のどのような人間をも断罪することが可能だ。 気を使えば「お前は気を使いすぎだから成功しないのだ」と断罪可能であり、気を使わなければ「お前は気遣いがなさすぎるから成功しないのだ」と断罪可能だ。断罪を目的とするなら、この二重常識によって日本人の全員を断罪可能だ。


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日本の同調圧力の来る場所。それが正に東北なのではないだろうか。

しばしば東北の方は「東北を差別するな」「東北だって他と同じなのだ」と言う。だが東南アジアから東アジアに向けて各地の方言や文化を研究…太平洋沿岸の港のある地域=インドネシア・マレー・タイ・ラオ・カンボジア・ベトナム・海南・深セン・香港・潮州・福建・台湾・沖縄・奄美・九州・神戸・東京・岩手と研究すると、みなそれぞれ違うことがわかる。それぞれが影響を与えたり受けたりしつつ似ているが、その似ている中に独特な違いがある。その独特な違いに、日本起源の失われたヒントが含まれている。そして「東北地方は他と同じである」という言及は、一体どういう意味なのか。東北地方は何と同じ、というのか。「日本の東北地方も『他と同様に』独特な違いがある」というのが最も客観的な意見だ。他と異なるのは、日本の東北地方に限ったことではない。他もみな違う。

筆者が知る限り、東北外の日本人は「みな同じだ」という主張をしない。むしろ「人と違う」という事を強く主張する人間の方が一般的ではないか。変人と呼ばれると嫌がるどころか、逆に喜ぶ … そういうタイプすら居る。

恐らくだが「東北人が他と同じ」と主張する理由は、日本の歴史にあるのではないだろうか。飽くまでも仮説だが、日本の歴史は、日本の原住民が外国から文化を取り入れてきたというような「努力と学習の歴史」などではなく、大陸人による侵略と混血の歴史ではないか。 何千年も前から、日本に大陸からの技術者や知識人が渡来し、立ち遅れた原住民に対して「農耕」「文字」「医学」「料理」などの当時の最新技術を持ち込むことで支配し、労働させて税を取りたてることで権力を築き上げてきたのが、日本の歴史なのではないか。つまり、聖徳太子や菅原氏・源氏は、大陸から来た文化人だったのではないか。

その様な渡来系の大陸人は、本来日本人ではない。だが日本人でないという事が明らかになってしまうと、排外感情が強まって権力支配がうまく行かないので、「我々支配者も日本人です。貴方たちも同じ日本人なのです。私達は同じ日本人なのです。」というようなプロパガンダを広めたのではないか。だからこそ、今でも東北人は、社会が複雑化して文化と文化の違いを理解することが大切になった現代でも、「東北だって他と同じなのだ」と主張しているのではないだろうか。

この様な政策は現代でも一般的だ。この政策を「同化政策」と呼ぶ。テレビ・ラジオ・雑誌・本・論文・文学・映画・音楽 … これらの人間に直接訴えかける表現手段を使い、政治的な思想を人々に植えつけることをプロパガンダと呼ぶ。このプロパガンダを使って、異なる複数の民族をひとつの民族と錯覚させる行為=「同化政策」は、現代では極めて一般的に行われているものだ。例えば、タイ国の「タイ族」と「ラオ族」は、言語・文化・気質に大きな違いがあり、それぞれ仲が悪く、異なる民族だとそれぞれの方々は思っているが、政府は、同じタイの国民であるとして「タイ族もラオ族も同じタイ人」なのです、という美化したテレビコマーシャルが毎日の様に放送している。タイ国には他にも「マレー系」「中華系」他の民族が沢山住んでおり、それぞれ非常に仲が悪い為、このようなコマーシャルを流さないと、即分裂してしまう為、「同化政策」は近代、どの様な国家であっても必須の政策である。

「日本の文字・ひらがなは大陸人が発明した」という説がある。これは公式に否定されている。特にネトウヨ系の人からは激しく嫌悪されている。ひらがなは大陸の文字、漢字を崩して日本語の音節に適応させて作ったものだが、この方法を考えたのは大陸人の筈だ。ある国が、外国から文化を取り入れる時に「本だけがトコトコと勝手にやってきて、その国の人が一生懸命本を読んで勉強して取り入れた結果なのだ」と思うのは、浅はかである。支配欲と性欲にまみれた知識人が、臭い息を吐きながら、技術や知識を持って外国からやってきて、異国風の美しい装飾や衣装を見せびらかすことで羨望を煽り、村の娘をかどわかして混血することで、結果的に文化が取り入れられて、定着するのが普通だ。知識は学習で学ぶことが出来る。だが学習だけで、人間の思考パターンまではなかなか変わらないものだ。

「ひらがなを考えたのが大陸人だ」という見解が日本ではタブーなのは、それが事実だからだろう。「ひらがなを考えたのが大陸人だ」ということが明らかになってしまうと、『日本人』が『日本人』なのではなく、『大陸人と東北人』であるということが暴露してしまう。つまり、日本の歴史が努力と発展の歴史などではなく、大陸人=「渡来系日本人」による、侵略と支配の歴史なのだ、という事が明らかになってしまうからであろう。

ちなみに日本の「ネトウヨ」をやっているネットユーザーの9割は東北人であることを筆者は見て取っている。(残りの1割は煽動員として雇われた朝鮮人であろう)その理由についても様々な思いを巡らせているところであるが、その考察については別紙に改めてみたい。


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同調圧力の起源

日本は海流によって激しく混血している。大陸から渡ってきた人が大半を占める関西の混血度が高いことは当然として、元々の日本の原住民だった東北地方の人たちにも、この「混血化」の波は押し寄せている筈だ。歴史を紐解くと、この5〜600年の間で、廻船を使った貿易によって関西系の人が東北に渡っていく事が多かったらしい。よってこの廻船文化の時代に、比較的純血度が高く気質や文化に統一が撮れていた東北人の中に、気質・文化が違う人が増えてきたのではないか。

東北人は元々、氷河期に絶滅した縄文人の生き残りだという説がある。縄文人は氷河期の到来と共に絶滅したが、東北地方の雪国に適応した縄文人だけが生き残った、という説がある。この説の真偽は不明だが、東北人の我慢強さ・厳しさ・寡黙さといった、特徴的な気質をよく説明できる説ではある。

雪国の暮らしは厳しく、生存に必要な条件が非常に高い。ちょっとした気の緩みが一族全員の飢餓といった深刻な問題を招く。よって問題となりうる要素は、どの様なコストを支払ってでも…いわば『人の2〜3人は殺して』でも絶対に解決するという習慣がある。これは東南アジア人や大陸人などは、持っていない気質だ。

ところがもしそこに、関西人や大陸人などのあまり我慢強くない部外者が渡ってきて混血化するとどうなるだろうか。このような、問題解決に対する絶対的な対応に、精神的に全く耐え切れず、大暴れすることが容易に想像される。ちなみに現代でも、日本に渡ってきたタイ人が全く同じ行動を取る。

大暴れした結果、万が一冬支度に失敗したら、一族が飢餓と直面する結果を招く。そこで、村八分などの陰湿かつ絶対的な精神的ないじめによって、一族の掟を守らせる様な風習が出来上がったのではないか。「 お前だけが勝手なことをするのは絶対に許さない。」ということだろう。

筆者は、東北人が村を離れた途端に「タガが外れたように」無茶な遊び方をして大陸人を辟易させるのを、数度目撃した。恐らくだが、東北人は既にかなり混血度が高くなっており、以前の様に我慢強い東北人ばかりではなくなっているのではないか。よって「民族の気質としての我慢強さ」だけでは、生存必要条件を満たせなくなり、「同調圧力」によって行動を押し付ける文化が育まれたのではないだろうか。よって東北地方を離れると、その同調圧力が突如として消え失せる為に、歯止めが効かなくなり、男遊び・女遊び・暴言・酒・タバコ・放蕩などの無茶を始めるのではないだろうか。

子連れの女性が、放射能汚染によって地元を離れると、二度と地元に戻れなくなる、という話も、この理論でうまく説明できる。女性は、村で子孫を残すために重要だ。だが雪に閉ざされた山奥に暮らす女性が、暖かく華やかな都の暮らしを見て帰ってくることなどないだろう。村の男はそう直感している為、女性が村を離れる事に極めて否定的な見解を持ち、絶対に村を離れられない様な強い同調圧力を掛け続けるのではないか。「おいおめぇ、一度でも村を離れたら、二度と村に戻ってこれるなどと思うなよ。おめぇの親の面倒も誰もみねぇ。村八分じゃ。もし村を離れるつもりならそれを忘れるな。」


ちなみに筆者は先日気付いたのだが、「ヘソが曲がる」「性格が曲がる」という表現を東北人はしばしば使うのに、関西人は「ヘソが曲がる」という表現をあまり使わないことに気付いた。関西でも「へそまがり」という言葉は通じるだろうし、言うことはあるだろうが、その出現頻度は東北人程ではないだろう。東北人は他人を形容する言葉として頻繁に「へそまがり」という表現を使う。筆者は漠然と思うのだが「へそ曲がり」というのは、ひょっとしたらこの様な「混血度の高い東北人」の性格を表現したものなのではないだろうか。


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都会での同調圧力

被支配の結果として「東北人は日本人。大陸人と同じ日本人。」という無理のある理論を信じた東北人。彼らが受けた精神的な屈辱を晴らす嫌がらせとして「同じ」という理論を逆手に取った嫌がらせを発明したのではないだろうか。

例えば、相当に無理のある論説であっても「お前がこう思うというのは性格が曲がっているからだ。お前と俺は同じなのだから、こう思え。これが普通だ。」という様な押し売り強盗風の論理を持ちだして、相手に自分の意見を強要することが可能だ。日本語に、これと同じ表現は無数に存在する。「常識では考えられない。」「普通ではない。」「信じられない。」「頭がおかしい。」

そもそも「常識」「普通」とは、定義がはっきりしない言葉だ。その定義は大抵決まっておらず、発言者の思い思いの都合の良い解釈が詰まっている。もしも「常識」という言葉を使うなら、その定義をきちんと相手に提示しながら使う必要がある。

誰かにとって「信じられない」ことがらは、誰かにとって「当たり前」な事柄だ。誰かに取って「当たり前」な事柄も、誰かに取っては「信じられない」事柄だ。「信じられない」という言葉は、飽くまでも人と人の違いを否定する言葉であり、社会性の低い表現だ。「頭がおかしい」も同様である。

だが問題の本質は、そういう論理的なことではなく、歴史的な怨念に基づいた復讐的な嫌がらせなのだろう。

関西人は、こういう「同調圧力」に根ざした表現を『東北人ほどは』多用しない。全く使わないことはないかも知れないが、東北人ほど多様はしない。

東北人は他人の足をひっぱるが、関西人は他人の背中をそっと押す。他者の成功を妬み、他者の成功を妨害する様な行為ばかり行うのも、東北的な同調圧力が根本にあるのではないか。

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日本には様々なかつて、様々な廻船航路があったらしい。右回りも左回りもあったという。この廻船により、東北人が関西に移動することも、関西人が東北に移動することも非常に多かった様だ。血液型を見ると、日本中でA/B/AB/Oの比率は同じだが、偏差的に見ると、東ほどBが多く、西ほどAが多い、太平洋側でOが多いことがわかる。つまり日本は、既に混血化して一巡りしてしまった、という事が言える。(日本人と血液型の関係は非常に奥が深い話なので、別紙に改める)

つまり、東北人・関西人という区別は、生まれた場所によってどちらか片方に決まるものではなく、飽くまでも混合率=パーセンテージの問題ではないか。関西人でも東北的な気質を持っている人はいる。東北人でも関西的な気質を持っている人は居る。

筆者は次の言葉を見た時、東北人の心情をよく表す言葉だと感じた。

一人でいると孤独感。
二人でいると劣等感。
三人で居ると疎外感。

恐らく関西人であれば、次の様に感じるはずだ。

一人でいるとちょっかい出す。
二人でいるとボケツッコミ。
三人で揃ってかしまし娘。

関西人だからと言って、必ずしも後者として感じるとは限らない。それは何故なら、日本人が混血しているからだ。
東北人だからといって、必ずしも前者として感じるとは限らない。それは何故なら、日本人が混血しているからだ。

同時に「疎外感」という、混血度が高いコミュニティーでしか起こりえない複雑な気持ちが描かれているところが、興味深い。これは婉曲に東北の混血度の高さを表しているだろう。

自分の感受性が東北的なのか、関西的なのかを、このような判定基準を使って分析することで、自分をよりよく理解することは、現代日本の複雑な人間関係を生き抜く上で、とても有意義なことではないだろうか。


(終)



2016年9月2日・追記:

当記事の中では、劣等感・執着質・陰湿といった特徴を持つ人は東北の人に多い、と結論付けられている。だが現在の僕は、この結論に異論を持っている。何故なら、バンコクにいる日本人には東北人が非常に少ないからだ。だがにも関わらず、バンコクには上記の特徴に一致する日本人がたくさんいる。これは恐らく『エセ関東人』『エセ東北人』が原因している。僕はかつて『エセ関東人』『エセ東北人』の存在に全く気づいていなかった。『日本人の陰湿さ』の根源を全て東北とする結論は、誤りだ。

本日『エセ関東人』についての記事を執筆、公開した。

参考:おかあつ日記・エセ関東人の見分け方がおもしろ過ぎる件www


また、この考え方の変化が起きた経緯に関して、次の記事で述べた。

おかあつ日記・何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界
おかあつ日記・日本という秘境