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2016年8月11日木曜日

日本という秘境 (oka01-ecjsjanmtgshqubw)

先日、行き掛け上「地方移住(Iターン)」について調べたのだが、実は、たくさんの移住失敗例が挙げられていることを知った。僕には、日本への地方移住の経験はないが、タイの地方農村部に移住した経験があるので、この失敗事例は、僕にとってとても興味深いものがあった。


地方移住失敗から見る、日本とタイの共通点

先日、偶然から『地方移住失敗』についての記事を見つけた。以下で若干引用してみたい。

地方移住に失敗した人たちが語る、田舎暮らしの“影の部分” より引用 ───
まず田舎は出費が多い。例えば(中略)ムダに回数が多い集金。月4千円の集会費に青少年育成会費、体育協会費、交通安全協会費…と何かと持っていかれ、低収入な僕には地味ながらきつい負担でした。

村じゃ60代までは若者扱いで、80過ぎのじいさんも現役バリバリの農家。年寄りがみんな元気すぎるんです。毎晩誘われる酒盛りは身体的にきつかったですね。

また、家の鍵は基本、開けっ放しだからプライバシーがなく、仕事後に帰宅したら勝手に洗濯物が取り込まれていたり、掃除されていたり、エロ本の置き場所が変わっていたり…。

腐りかけていた頃、「新しい仕事をやる」と、今度は村のゆるキャラの着ぐるみを渡されて。それから1ヵ月後の真夏の炎天下、その日もゆるキャラに扮(ふん)してスーパーの入り口横にポツンと立っていました。ゆるキャラの正体が私だということはすでに知れ渡っていて、買い物帰りのじいさんにこう言われたんです。

「地域おこしというけど、ソレ、意味あんの? あんた、税金で食べてるんだよね」

もう、心をへし折られましたね。3日後、東京の実家に帰りました。

僕は、これらを読んで『タイの奥地も日本の奥地も実際のところ大差がなく、それどころかしばしば日本の方が秘境度が高い。』という前回の記事で書いた僕の見解が、案外と正しいという確信を持った。

前回の記事1:何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界
前回の記事2:地方移住でよくあるトラブルとその原因

「プライバシーがなく、エロ本の置き場所がいつの間にか変わっている」という話などは、タイの奥地でも全く同じだ。これ位で文句を言っている様では、田舎暮らしは無理だ。

「例えば、ムダに回数が多い集金。」・・・これもタイで非常にありがちだ。田舎人は、都会人を見つけると、何かとかこつけて金をむしり取っていく。 

田舎暮らしのサバイバル上、方便を上手に駆使して『出資のお願い』を丁重に断るスキルは、必須だ。「仕事上のトラブル」「子供のケンカ」「先日の騒乱」等々、持ちうるクリエイティビティーを総動員し、どうしても今すぐに手持ちのお金がないという『やむを得ない』ストーリーを演出する。常に笑顔を絶やさず、常に「後で払う」と言い続ける。そして、相手が呆れて諦めるまで、粘る。防御の基本は、持久戦だ。都会の様に全てを真面目で貫き通してはいけない。

田舎では、『出る人からは採り続ける』のが基本だ。 全く出さないということも良くないが、常に出し続けるというのも同様に良くない。だがしかし、『出資のお願い』を断る際に相手の機嫌を損ねてしまうと、村の人間関係が破綻し、村暮らしはほぼ不可能になる。よって上手に方便を駆使するスキルは、必須だ。

やたらに食事に誘う、やたらに飲みに誘う等々も、食事代・お酒代の『出資のお願い』である場合が多いので、注意が必要だ。
 
これらは、田舎暮らしソーシャル・スキルの『序の口』の部類に入る。田舎での生活が長くなれば、もっと解決が難しい人間関係上の問題が、たくさん起こる。

不条理な理由であっても、敢えて反論せず怒られてあげたり、村の知り合いのミスであることが明らかな損害について、黙って責任をとってあげたり、見え透いた騙し話に黙って騙されてあげたり…。


タイよりも日本の方が田舎な部分

だが一方で、「無理に晩酌に誘われる」などは、あまりタイにはなさそうだ。

タイ人は非常に遠慮深い人らでもあり、相手の状況を見て、いたわりを示す傾向がある。相手が苦痛に思っている(タイ人はこういう相手の苦痛を見抜くことに長けている)ことを無視して、節操無く晩酌に誘うことなどは、タイ人があまりやらないことの一つだ。

相手の文化の違いなどを配慮して、相手に期待する気遣い(飲み食いの付き合い等々)に、手心を加える繊細さがあるのも、タイ人の特徴の一つではないか。 「お前は俺の酒が飲めないというのか!?」的な強制を、案外としない。

パット見、声が大きく豪快な印象のおじさんも、実はかなり遠慮がちで、内心「実は一緒に飲みに行きたい」と思っているのだが、遠慮してしまって言えない、ということも多い。 むしろ、こちらから積極的に誘った方が良い場合もある。(こっちのタイプの人は、日本にも多いかも知れない。)

タイ人は、日本人の様に他人に執着しない。これはタイ人に限らず、中国人・タイ人・欧米人もそうだ。他人に執着する気質は、日本人独特のものだ。

他人に執着しない気質は、大陸での異民族間とのコミュニケーションが死活問題になる状況下で、培われた習慣でもあるのではないだろうか。逆に、他人に執着する気質は、日本という『民族的ガラパゴス島』で培われた、独特な気質なのではないだろうか。

日本の僻みイビリ


「地域おこしというけど、ソレ、意味あんの? あんた、税金で食べてるんだよね」


この辺に至っては、『秘境日本』の最高峰と言って良い言動ではないか。タイには絶対にない。 田舎の人は、世界中どこに行っても僻みっぽいのが常だが、上記のような露骨なイビリを含んだ僻みは、世界中どこを探しても、日本にしかない。

 ─── いや、話によるとイギリスの奥地にはあるとか。ただイギリスではこういう僻みっぽいおじさんの典型がはっきりと存在する為、「こういうおじさん」の扱い方というものが、一般常識として定着している…様でもある  ─── 日本では、どうしてもなかなか典型が定まらず、扱いが難しい場合が多いのではないか。

この行為をここでは『僻みイビリ』と呼ぶことにする。『僻みイビリ』とは、よそ者にこういう『軽いジャブ(怪我にならない程度の軽度の攻撃)』を打つことによって、相手の出方を伺うことだ。 どれ位まで攻撃したら怒るか、どれ位まで攻撃しても怒らないかを探る。これにより、相手にどこまで「地元に本気で適応するつもり」があるのかを探る。 自分がどこまでよそ者に勝てるか、探っているのだ。

「僻みイビリ」への対応が難しいところは、相手に土下座的な絶対服従を見せ過ぎても良くないし(勿論場合によっては土下座してみせることも重要だが)、相手が調子に乗らない様にある程度意地悪を仕返しておかないと、後で大変なインチキをふっかけてくることがあることや、一方、ある程度相手の意地悪に「引っかかって」あげない限り、嫌がらせが止まらないので、適度に騙されてあげる必要がある、等々、注意事項が多いことではないか。

『僻みイビリ』が始まった原因が、大抵、その僻みイビリのなかで言及されるストーリとは全く無関係な点にあるところなども、対応が難しくなってしまう理由のひとつといえるだろう。

タイ人との付き合いも面倒臭いことが多いが、しかし一般的に、相手の失敗を寛容に許すことができる人こそが良い人だ、と考えられており、上記の様に他人に執着的に攻撃する人は稀だ。

島国でしか許されない気質

「僻みイビリ」は、日本外では許されない気質だ。 多民族が混合して住んでいる地域では、他人に執着的につきまとう行為は危険だ。 異なる民族同士では、絶対に分かり合えない領域がある。譲り合いができないと、人間関係上の衝突が先鋭化しやすく、危険だ。

「僻みイビリ」タイプの人は、こういう多民族が混合している地域に入ると、『即死』と言っていい程の確実さで、大きなトラブルに遭遇する。島国外では、民族衝突が激しい。そこでは日本人の様な人間関係に対する寛容性の低さは、許されない。

日本には他にも「日本でしか許されない」気質がある。『真面目』『執着質』『神経質』『素直(騙されやすい)』『不寛容』 ・・・ 日本人の気質は、良い意味でも、悪い意味でも、島国だからこそ許される気質である場合が多い。

なお、人間関係トラブルの何が危険なのか、と思う向きもあるかも知れない。だがその考え方は、海外では危険だ。日本では 警察が絶大な権力を持ち、酔っぱらいのケンカのような些細な人間関係トラブルにも警察が介入し暴力を阻止してくれる。そんな親切な警察に慣れ切った日本人は、人間関係トラブルの発生に無頓着な面がある。日本外では警察はそこまで機敏に動いてくれない。一度トラブルが起きてしまえば、大抵殺人事件にまで発展する。警察が動くのは大抵『事後』だ。いくら警察が来ても、死んでしまった人は帰らない。 海外では、絶対に人間関係トラブルを起こしてはいけない。

また、日本人は、アジアの中では比較的、瞬発力が低く視力が弱い人が多い、という点に注意が必要だ。特にタイは、視力・瞬発力共に高い人が多く、その辺の子供や老婆ですら、平均的な日本人よりも鋭い動作を見せる場合が多い。(その事実は、ボクシングやサッカーの日タイ試合などでも、観察される筈だ。) 日本人は、外国人とまともに衝突したら、まず勝ち目はない、という事を心する必要がある。


村社会は閉鎖的という誤解

タイ社会は、生粋の『村社会』 だ。だが日本で言われる、所謂『ムラ社会』的なものとは、かなり趣が異なる。日本でムラ社会と言えば、陰湿・執着質・閉鎖的・不条理・排他的などという印象があるが、タイのムラ社会は、少なくとも陰湿ではない。往々にして閉鎖的でもない。

日本では、日本社会がよくならない原因は、日本社会が『ムラ社会』だからだ、という説が有力だ。だがこの説は、村社会の本質を見ていくにつれ、正しくないことが解る。日本の村社会は、非常に独特で、日本外の村社会と比べると、異なる部分がとても多い。

日本外の村社会は、日本の村社会ほど閉鎖的ではない。例えばタイでは、最奥地の村でも常に部外者が出入りしており、コミュニケーションが活発だ。山が少なく海がない陸続きなので、人の行き来が多い。

だが日本は、山が多く、海で外地から隔離され、陸続きではない。村の人の出入りは、非常に少ない。外部の人間との衝突がほとんどなく、人間関係上しばしば問題となる気質を持った人間の淘汰が進まない。こういう寛容な島国の環境のなかで、『民族的・天然記念物』が育まれていく。良い意味でも悪い意味でも、珍しい気質・文化を持った人が育まれていく。

遠慮を知らない日本人

先日、偶然こういう書き込みを見つけ、若干思うところがあった。

タイ人はプライドが高いと言うよりも、日本とは違う手法で「和」を実現しようとする。「おまえのわがままを飲み込んでやるから、こっちのわがままにもできるだけ口出ししないでくれ」の精神。これは和とは何かに対する感覚の違いだろう。  ─── chakuriki.net / タイの噂

この発言は、ある意味では、非常に鋭い点をついている。だがしかし、『ある視点』が完全に欠落している。僕は、その欠落の仕方が、とても日本人的だと感じた。

「お前のワガママに寛容になるから、お前も俺のワガママに寛容になれよ。」

・・・これは確かにその通りなのだが、実は、これには続きがある。

「(とはいえ、我慢にも限度があるから、その辺は察して遠慮しろよ。)」

これは言葉として発言されることはないが、タイ人の間でごく一般的な『暗黙の了解』だ。

ここまで含めて考えた場合、タイ人の常識も、日本人としての常識とほぼ大差がない、と言えるのではないか。発想は違えど、出てくる行動はほぼ同じだ。「相手に気遣うあまり、結局言えずに我慢する。」「あまり気遣いがなさすぎると、我慢が限界に到達してキレる。」というのは、日本人にありがちな行動だが、タイ人もほぼ同等な行動をとる。

だが何故か、このことに気付かない日本人が、バンコクには非常に多い。 

タイ語には「遠慮」という言葉がある。「気遣い」という言葉もある。「空気が読めない」と同義の表現もある。だがタイに住んでいる日本人を観察していると、どうもこういう日本でも一般的な配慮に気が回らない人が多いように見える。

本来、日本人は「遠慮」の文化であり、「気遣い」の文化であり、「空気コミュニケーション」の文化である筈だ。だが実に奇妙なことに、この日本人の特徴である「遠慮」「気遣い」「空気」という3つの要素を比較した場合、日本人は皮肉なことに、これらを持っていない場合が多い。特にバンコクに滞在する日本人に顕著だ。


自分が見えない日本人

偶然にこういう漫画を見つけた。これは「タイ人と日本人の気質の違い」を表した漫画という。

引用:https://curazy.com/archives/132301


これもある意味では、非常に鋭い点をついている、と僕は思う。だが一方で、完全に欠落している視点がここにはある。僕は、その欠落の仕方がとても日本的だと思う。

「タイ人は人前で怒られるとキレる。」

確かにそれは事実なのだが、それは実は、タイ人に限ったことではない。中国人もそうだ。ロシア人もそうだ。朝鮮人もそうだ。アメリカ人もこの傾向は強い。怒られるとそれを真に受けてしまい、自殺まで追い込まれてしまうのは、日本人だけが持つ特徴だ。「キレる」というのは、日本と国境を接する5カ国の全てが持っている特徴なのに、何故かその事に気付かない日本人。

自分の特殊さに気付かない。それが、日本人の特徴ともいえる。

話によると、ハンガリーやフィンランドは、日本人に近い気質を持っており、自殺に走りやすいという。だがこの様な国は、世界的に見た時むしろ少数派だ。 インド・フランス・イタリア・インドネシア・マレーシア・メキシコ・ブラジル… その他ほとんど全ての国は、上記の左側のキレ系の気質を持っている。

むしろ、日本のほうが特殊だ。

※ ちなみに、タイ人でも、キレやすいのは南部・中部の人(マレー系)に限られる。人間関係上の衝突を極度に嫌う北部・東北部の人(ラオ系)は、キレる前にその場を立ち去る。マレー系・ラオ系は、それぞれ話す言語も文化も顔つきも全く違う別々な民族だ。 そういう民族差が理解できず、一緒くたにした「タイ人」というステレオタイプに陥りがちな点も日本人の特徴のひとつだ。

日本人は日本的か

さて、前述の漫画について、加えて疑問に思うことは、人前で怒られ責任感を感じて自殺をしてしまうほど責任感が強い日本的な日本人が、果たして在タイ日本人にいただろうか? という点だ。

僕が知っている在タイの日本人を思い起こせば、自分が怒られたが最後、逆ギレするわ、責任転嫁するわ、嘘は吐くわ、騙すわ、脅すわ、隠すわ、とても『日本的』とは思えない、タイ人よりも性質の悪い方々の数々 ─── などを見掛けたことは、全くなかったが。

往々にして、日本人は、しばしば日本人が『日本的』だと思っている典型には全く当てはまらない。むしろ、当てはまる方が稀だ。

『僻みイビリ』は、日本的な行為だろうか。もし彼が日本人として典型的な『和』の概念を持って『礼儀』『遠慮』『気遣い』『空気』などを重んじる性格として生まれついていたならば、恐らく『僻みイビリ』は、絶対にしない行為の一つだろう。

箸は、日本的な道具だろうか。日本は、箸の国だが、箸を正しく持つことができない日本人は決して稀ではない。タイは、箸の国ではないが、大半の人が誰から教わらなくとも正しく箸を持つことができる。握り箸で汚く食べるタイ人を見掛けることはまずない。

タイには日本の様に効率の良い教育機関がある訳ではない。学校で厳しい道徳の授業を受けることもない。だが、にも関わらずず、タイ人は非常に画一的な『和』の概念を持っている。

日本にはタイから見れば夢のように素晴らしい充実した教育機関が揃っている。学校には楽器・運動器具などがふんだんに取り揃えられ、無料で教科書の配布も行っている。にも関わらず、日本人が持っている『和』の概念には、これほどまでに大きなバラつきがある。

果たして日本の『和』の概念は、一体どこから来たのだろうか ───  和製なのに全く和的でない不思議な人々の数々を見ていると、そう思う。


タイ人は日本的でないか

タイで「タイ人はバカだ」と言ってはばからない在タイ日本人は、非常に多い。 そういう彼らを僕が見て思うことは、タイ人の様な気質の日本人は、日本にもたくさんいるということだ。在タイ日本人の彼らは、都市部での生活に不慣れで『よそ者』と接した経験がほとんどないのではないか。

都市部で社会人として生活していれば、他府県から来た『よそ者』と仲良くしなければいけない機会は多い。そういう中には、タイ人と似た気質の人もたくさんいる。

街には色々な気質の人が共存している。社会人として生活する上で、自分の気質と全く異なる人とも、前向きに協調して作業することは、常識だ。

そもそも常識的に考えて、自分と気質の違う人間を見つけては、いちいち、◯◯人はバカだ、アホだ、と差別発言を繰り返している人間は、社会人として不適格だ。

部下に対して、何でも頭ごなしに上から目線で命令していれば、組織内に不満が鬱積して徐々に統制が取れなくなるのは、タイでも日本でも同じだ。 相手の立場に立って相手に気遣いながら発言しなければならないということは、洋の東西を問わず世界共通ではないか。

タイ人は、声が小さく控えめで非常に丁寧だ。そんなタイ人とすら上手くやっていけないなら、恐らく世界中の誰とも上手くやっていけない。

声が大きく乱暴で無責任なのは、中国人の専売特許ではない。アメリカ人など中国人以上だ。横柄で差別的で態度は山の様に大きいが案外と無責任なフランス人。几帳面だが、狡猾で人を騙すことに長けているイギリス人。世界中に、あらゆる悪癖を持った国がひしめいている  ─── タイ人など、まだましな方だ。

にも関わらず、タイ人をバカにして止まらない在タイ日本人は、そのことに気付かない。

─── どうやっても自分の特殊性に気付かない島国気質。

更に踏み込んで言えば、中国人・アメリカ人なみにタチの悪い人間は、日本にもたくさんいる。

タイ人くらいで文句を言っているようでは、日本社会にすら適応できない。


タイで「タイ人はバカだ」といって止まらない日本人は、タイ最奥地よりも更にもっと奥地にある『日本の秘境』から来ている。


『全国区ルール』とは

ここまで、『日本人の気質』という言葉を何度も使った。 だが日本人の気質は、地域によって激しい違いがある。

責任感が強すぎて自殺してしまう日本人。そして、日本人は怒られるとすぐ自殺するからなぁ・・・と言いつつ、そういう自分は忍耐力が低く怒られるとすぐ逆ギレする日本人。 空気を読む日本人。空気を読まない日本人。

日本人同士を比較してすら、気質に共通な点など、何もない。

一方、『日本人の常識』という言葉も使ってきた。

     『敬意』『遠慮』『察し』『責任』『礼儀』『空気』『配慮』『平等』『公平』


この様に考えていくと、『日本人の気質』『日本人の常識』は、実は別のものだ、ということがわかる。気質とは、その人が生まれつき持っている性質だが、常識とは、生まれつきではなく、生まれた後に学習することで獲得する性質だ。 つまり、気質は、誰もが持っている。だが常識は、人によって持っている場合と持っていない場合がある。


さて、これらの『日本人としての常識』をきちんと守れる日本人が、日本国内にどれ位いるだろうか。

少なくとも、僕が東京で見ている限り、東京には非常に多い。

─── 少なくとも、その『日本人としての常識』を守っている『ふり』くらいはできる。

だが東京外は、どうだろうか。

 ─── 実は、守っている人は、ほとんどいないのではないか。

では、守っている人がいない、この『日本人としての常識』は、一体どこから来たのか。

 ─── 恐らくこれは、所謂『全国区ルール』として、何者かによって人為的に作られたのではないだろうか。

日本人はそれぞれ、気質も文化もバラバラ過ぎる。そこに一定のルールがなければ、コミュニケーションが全く成立しない

みんなそれぞれが、それぞれの郷里にいて部外者との接触が断たれているならば、問題はない。だがみんなが同じ場所に来て、一緒に暮らす様になると、それは大きな問題となる。

そこは既に島国の秘境ではなく、全く違う世界=『全国区』だ。そこでは全く違う掟が適用される。

地方でもあり全国区でもあるネット

前回の記事で、ネットは『地方』なのだ、という事を論じた。ネットが『地方』だということはつまり、ネット上でも『地方移住』の際に起こる問題と、同じ問題が起こるという事だ。

ネットは、『全国区』ではない。『地方』である  ─── 『地方』とは、東京など、全国の人が集まる大都市で常識と考えられている『全国区』のルールが、通用しない場所のことだ。

『全国区』のルールとは、よそ者同士がスムーズに交流する為に考えられた常識だ。『礼儀』『配慮』『遠慮』『責任』『平等』『公平』『敬意』『対話』などが『全国区』のルールの代表といえる。

その『全国区』のルールが通用しない『地方』では、その地域の人がその地域の人によって醸造された合意によって思い思い好き好きに過ごして構わない。これが『地方』ルールだ。『地方』ルールは、しばしば地方によって全く違う定義がなされ、しばしば『差別』『偏見』『排他』『暴力』等々も寛容に認められる。 よそ者と交流することが念頭に置かれていない場所が『地方』だ。

現在ネットでは、『全国区』のルールが通用しないケースが増えている ─── つまりネットは、『地方』だ。

近年しばしば語られるネットを使った在宅勤務は、いわば『ネット移住』=リアル社会からネット社会への移住であり、よって、『ネット移住』には地方移住と同様な問題が起こる

参照1:何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界
参照2:地方移住でよくあるトラブルとその原因

─── だがしかしネットは、地方であると同時に、様々な地方から来た人が、同じ空間で共存し激突するという意味では、『全国区』でもある。ネットは、『地方』でもあり『全国区』でもあるという、相反する性質を同時に持った奇妙なコミュニティーになっている。

このことを以下でもう少し考えてみる。

お手軽な全国区としてのネット

2011年のスマホの普及によって爆発的に利用者が拡大したネットは、日本人にとって『最も手軽にアクセスできる全国区コミュニケーション』になりつつある。

これまで『全国区コミュニケーション』というものは、東京にしか存在しなかった。これがネットの出現によって状況が変化した。ネットは、全国区だからだ。

全国区・東京に進出するには、様々な障壁がある。

距離・時間・進出に掛かる経済的コスト・リスクなどを考えると、上京は敷居が高い。

だが全国区・ネットは、スマホさえあれば、お茶の間にいながら即座に参入できる。

スマホは、これまでのパソコンと異なり、マウスやキーボードを操作する必要がない。直接画面に触れて操作することができる。これまで、マニアなどの特殊スキルを持った人しかアクセスすることができなかったネットが、スマホにより、お年寄りから子供まで誰でもアクセスすることができるようになった。



スマホの出現により、『全国区コミュニケーション』とは一切無縁だった、平和な『地方』に住む方々が、一斉に、魑魅魍魎があふれる『全国区コミュニケーション』の世界に流入する結果となった。

ネット移住に失敗した人が語る、ネット暮らしの『影の部分』

日本人はそれぞれ、気質も文化もバラバラ過ぎる以上、そこに一定のルールがなければ、コミュニケーションが全く成立しないことを先に指摘した。これは、全国区であるネットも例外ではない。

ネットに移住する人は、誰もが必ず『地方移住失敗』と同じ拒絶反応を受ける。 日本のどこかの人がネットに参入すれば、必ず日本のどこかの人から拒絶反応を受ける。何故ならネットは、『地方』であると同時に『全国区』でもあるからだ。

これが正に『炎上(モラルに欠けた成り済ましや罵倒妨害行為)』が起こる理由だ。

つまり、炎上という現象の本質は、実際のところ(冒頭で紹介した記事) 地方移住に失敗した人たちが語る、田舎暮らしの“影の部分”  で書かれていることと大差ない。

地元のローカルルールしか知らない、全国区のグローバル・ルールとは無縁だった地方人が、ネットの登場により、突如グローバルな世界に放り込まれる ─── そこは、気に入らないよそ者は追い出してもよい地元の世界とは全く違う、他者との共存を求められる厳しい『全国区』の世界だ。

ネットに触れ、突然視界内に現れた大勢のよそ者に対して、地元から部外者を追い出すのと同じ様な拒絶反応を示している。そこは既に全国区なのに、全国区だと気が付かず、地元と同じようによそ者を追いだそうとする  ───  それが炎上だ。

『他者』を知らない、『他者』が見えない、『他者』をどう扱って良いかわからない、そんな無数の田舎者が流入して共存しているネットは、人間関係の激突が常態化している。

日本という秘境での正しい姿勢

外国に住んで思うが、日本は、楽園でもあり、かつ拷問でもある。 あらゆる外敵から守られ絶対的な平和を得られる反面、日本外では考えられない程、人間関係が苦痛だ。

その苦痛を僕は、「手を上げても怒られる。手を下げても怒られる。」と呼んでいる。

日本では、全く正反対の気質の人が同じ空間で共存していることがしばしばある。 例えば、Aさんが、音楽を掛けるとする。Aさんが自分の好みの音楽をかければ、Aさんは必ず誰かから「勝手だ」と怒られる。 そこでBさんの好みに合わせた曲を掛けるとする。すると今度はCさんが怒る。ならばと、Cさんの好みに合わせた曲を掛ける。すると今度はBさんが怒る。

結局テレビでよく掛かっている曲など「一般的に認められている」と、見做されている曲をかけるのが、一番無難だ。結果として、AさんもBさんもCさんも全く楽しくない。─── この様に、日本での生活は、常に他人に合わせ続ける連続だ。しかも合わせ続けた結果として、全員が楽しくない思いをする。人と人の差が激しすぎて、どうやっても共通点を見いだせない。

こんな苦痛が、他にあるだろうか。

日本外では、そういうことはない。同じ音楽が好きな人同士で集まって暮らしている。同じ料理が好きな人同士で集まって暮らしている。同じ考え方の人同士で集まって暮らしている ─── それが民族だ。

日本では、『民族』を語る事は、タブーですらある。 私と貴方は ─── 性格が全然違う、顔つきも全然違う、音楽の好みも全然違う、食事の好みも全然違う、考え方も全然違う ・・・だが『違う』という事に言及することは、厳格にタブーとされており、常に『誰か』と同じふりをしなければいけない ─── そんな『同じふりをした人々』の不気味な集団。

『同じふりをした人々』は、しばしば迷走する。 ─── Aさんは、Bさんの真似をしている。Bさんは、Cさんの真似をしている。Cさんは、Aさんの真似をしている。そんな『中心のない軍団』が、行き先のわからない暗黒の闇の中で『デスマーチ』を奏でる ─── 。



そういう混沌とした状況では、敢えて他人に合わせない、ということも必要ではないだろうか。

他人から好かれる事を諦める。他人から嫌われる事を受け入れる。いや、むしろ、嫌われる事を前提に、自分がやりたいことを徹底的に追求する。嫌われることを前提に、自分のやりたいことを、相手に突き出していく。 むしろ、嫌われていないなら、もっと嫌われなければならない。敢えて、嫌われ者になる。

それは、海外ではむしろ絶対に許されない行為だ。そして、むしろこれこそが、日本でしか許されない『秘境での正しい姿勢』なのだ。日本でも許されない様に感ぜられるが、実はそれはむしろ逆だ。 中心がなく迷走しがちな日本では、むしろ失ってはならない重要な姿勢ですらある。

日本では、あらゆる方向から、あらゆる『同調圧力』がかかる。ああすべき、こうすべき、という暗黙の了解が人を押しつぶそうとする。それらの要求を全て満たすことは、そもそも不可能だ。だからこそ『同調圧力』に一切屈せずに、やりたいことを貫き通す。  ─── そこで少しでも妥協してしまえば、再び『行き先のわからない暗黒の闇の中で奏でるデスマーチ』に逆戻りになる。


合わせない。

それこそが、正しい『日本社会の歩き方』なのではないだろうか。






更新記録:
(Sat, 20 Aug 2016 14:48:25 +0700) 『全国区」と、鉤括弧の対応が間違っていた箇所を修正した。

(Tue, 11 Jul 2017 02:31:24 +0900) 関連記事表示の自動化を行った

(そして、合わせないことは、決して他人を否定することと同義ではない。受け入れながら、合わせない。)

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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