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2016年7月25日月曜日

何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界 (oka01-vnlsxxfjsxvkkuel)

はじめに

2016年3月、僕は5年ぶりに日本(東京)に帰国した。僕は、2011年3月に日本を出国して以来、丸5年間を海外で過ごした。

この5年間、僕はインターネットを通じて日本国内の社会を見てきた。2011年以降、スマホの急激な普及によりネットユーザー人口が劇的に増えたが、ネットユーザーのマナーの悪さは年々酷くなる一方だ。マナーの悪さにはできる限り寛容に対応する様に心がけていたが、2016年に入ってそれは、完全に『看過できないレベル』に到達した感がある。

また、この5年間に僕は、タイの日本人コミュニティーを見てきた。2011年以降、僕が主に滞在していたタイ国は、日系企業が多く進出する土地柄、大きな日本人コミュニティーが存在する。タイの日本人コミュニティーの規模は、世界的に見ても最大級だ。だが残念なことに、タイの日本人コミュニティーは、どう控えめに見ても、国内の日本社会に適応できない劣悪日本人の掃き溜めでしかなかった。日本人として当然持っているべきマナーの欠片も感じられない、不真面目で無神経で粗野な言動を見るたびに、とても残念な気持ちになった。

この5年間で、不勉強、且つ不真面目、且つ不誠実、且つ寛容性が低くすぐ怒る、且つ周囲の気配りが全く無い、且つマナーが悪い … そんな日本人ばかりを見てきた結果、僕は日本人とは何と知能レベルの低い民族なのか、と呆れ返った。

タイに住んでいて一番困る問題。それは言葉が通じないことでもない。食べ物が合わないことでもない。気候が合わないことでもない。それは他でもない、日本人との付き合いである。日本人との付き合いは異様に難しく、かつ非常に面倒くさい。 僕は原発事故が起きた2011年以降、日本に帰らない覚悟で過ごしていたので、そんな粗悪な日本人社会になんとか適応しようと、悪戦苦闘していたが、これは全くもって一筋縄でいかない難しい作業だった。

久しぶりに日本に帰って即座に気付いたことは、街中の人々が、僕がタイに来る前と何も変わっていないことだった ─── つまり以前と同じく、礼儀正しく、気配りがあり、勤勉で、真面目で、勉強熱心で、マナーがよいということだった。

そこでは、僕が『日本人として当たり前だ』と思うことは、全て当たり前だった。当たり前過ぎて、衝撃的だった。何故なら、僕がこの5年間過ごしたタイの日本人社会では、この『日本人としての当たり前』が一切通用しなかったからだ。

この衝撃は、僕の考え方の根本を覆した。

この考え方の変化は、大地震による地殻の大規模な変動の如く、僕の考え方の奥深くにある根本的な部分に大きな変化を与え、その上に成り立っていた僕の考え方を大きく破壊した。その破壊の衝撃力は、僕が日本を飛び出した2011年から2015年までにネット上で僕が主張していた見解を180度撤回するのに充分なものであり、僕の政治的な思想や、音楽的な思想、日本人に対する民族的な分析結果を完全に覆した。

以下の文章は、今回の僕自身の思考の変化について、僕自身がよく理解する為に、まとめてみたものだ。

だが恐らく、これを読む方は、炎上(ネットの匿名掲示板などで、特定の人物に関するバッシングや、その人物になりすましての醜悪な書き込みが盛んに行われること)という現象が、起こるその原理に関する考察を読むことになるのではないか、と思う。

この文章は間違いなく、それを読む大多数の人を不愉快にする。 だがもし、一部の、真面目に努力を続ける誠実で勤勉な、にも関わらず大勢から延々と理不尽な嫌がらせを受けて悩んでいる方に、少しでも明かりを届けることができたとしたら、幸いだ。



日本のアナーキズムの現実

僕は元々「無政府主義(アナーキズム)」の信奉者だ。必然的に「反政府主義」だった。その延長上として、近年は「地方分権」「小さい政府」「中央解体」というような政治思想を持っていた。原発事故以降、僕はその傾向を強め、発言も先鋭化していた。

だがこの5年間、ネット上で地方分権について意見を交換した結果として、日本の反政府主義というものは、実は稚拙な現実を知らない若者の戯言なのではないか、と思い始めている。

地方の田舎者は、地方分権を本気で考えていない。考えるつもりもない。ただ格好が良いから賛同しているだけだ。それが面倒になれば、即座に看板を下ろす。常に、楽な方へ、楽な方へと流されていく。地方の田舎者は、正直にならない。正直になるつもりもない。むしろ騙すことしか考えていない。騙さない、という発想自体を知らない。自分が騙されている、という可能性を疑わない。騙されたことが明らかになっても、そこから教訓を学ばない。真面目にやらない。真面目にできない。真面目にやるつもりがない。地方の田舎者は、自分と向き合うつもりもない。自分の欠点と直面し、それを克服するつもりもない。自分のことは棚に上げ、他者の欠点や失敗を糾弾し、妬む、嫉む。自分の協力者を、恨み、欺き騙すことしか考えない。

2016年に入って僕が漠然と感じ始めたのは『日本政府の見苦しさは、日本国民の見苦しさの裏返しなのではないか』ということだった。日本政府のプロパガンダ戦略を分析していると、呆れるほどバカバカしい子供だまし的な手法のオンパレードだ。その露骨に透けて見える政府の下心は、見ているだけで吐き気を催してくる。日本の政治ニュースは、他人の誇大妄想を刺激しつつ、劣等感をくすぐることで意図的に怒りを煽り、人々を政府の扱いやすい方へと誘導する、えげつない騙し手法の博覧会だ。 ───  他方、その政治ニュースを見る国民は、そんな子供だましにおお喜びでひっかかる、バカの展覧会である。 ─── 日本政府のプロパガンダ戦略は、実に下劣だが、それはひょっとしたら、国民が下劣だからこそ、それに合わせ必然的に下劣になってしまっているだけではないか ─── 。

僕は、反政府であるということに一種の「ストイックさ」を持っている。何故なら僕は、東京在住だからだ。日本政府が中央集権を強めれば強める程、労せず我が家の近所は、発展する。反政府主義は、僕自身の利益につながらない。日本社会の地方分権が進めば、地方在住の価値が高まり、東京在住の価値は下がる。すなわち僕の『東京在住』という利権の価値を減らすことになる。それでも敢えて、僕は反政府という立場を取ることに決めていた。それでも敢えて、地方の発展と利権拡大を支持する覚悟で居たのだ。

だが地方の田舎者は、自分たちの利権を守ることにすら、真剣さがない。日本政府の発するチャチな虚構パフォーマンスに、簡単に乗ってしまう。 腐敗臭の漂うシールズの安っぽいパフォーマンスや、ネット右翼の負け犬の遠吠えの様に見苦しい暴力的言動に、あっさりと乗ってしまう。そして大喜びで、自分たちの利権を放り出してしまう。

日本政府は、案外と『よくやって』いた ─── そういう様なことを思うようになってきた。 日本政府は、日本人の腐った気質を知り抜いている。日本人は、真面目に日本人を愛して日本人を良くする為に努力を惜しまない人に、何故か嫌がらせをして追いだそうとする、妙な癖がある。

日本政府は、そんな自滅的な国民に対して、一枚上手に出ているのではないか ─── ニワトリを追い立てて小屋に入れる様に、下劣なプロパガンダ戦略を展開している ───  結果的に見ると、国民はそれに『騙され』て、結果的に『正解』を選んでいる。国民は、冷酷な現実を受け止めるだけの精神力がない。現実は、国民の薄弱な精神力を破壊し、狂気に走らせるだけだ。狂気に走った国民は、国家を破滅させる。 そうならないよう、国家は、偽の英雄をでっちあげ、国民の劣等感を刺激し、優越感をくすぐる。激情に走らせて判断を誤らせる。

東京ではない場所

タイ・ラオスで過ごしたこの5年間で、ひとつだけはっきりした事がある。それは、タイ・ラオスのどんな酷い田舎よりも、日本の方がずっと田舎だということだ。

僕にとって、5年間という長い期間を『日本外で過ごす』という事自体が初めてだったが、日本外で過ごすという以前に、これほど長い期間を『東京外で過ごす』ということ自体が初めてだった。僕は、東京以外(特に西日本)の日本社会を、何もわかっていなかった。

( ─── というのも、タイに住む日本人の9割は西日本人だからだ。特にバンコクは『リトル名古屋』である。タイに住んでいて、関東人・東北人と出会う可能性は、ほぼゼロと断言して良く、日本人コミュニティーだけに注目して考えると、タイに住むことは、西日本に住むこととほぼ等しい。)

僕は、タイ・ラオスの奥地で生活しながら、その地方の方言を研究するチャンスに恵まれ、様々な少数民族の方々の暮らしをよく知ることができた。ちょうど同時期に、タイの日本人コミュニティーと、インターネット上のコミュニティーで、様々な日本人と交流する機会を持った。この両者を比べて感じたことは、日本人はしばしば、タイ・ラオスの奥地よりもずっと酷い奥地から来ている、ということだ。

タイ・ラオスの奥地は、如何に奥地といえども、そこは大陸の常で、 必ず外部の人の出入りがある。行商人・旅行者・公共事業の労働者等々が、常に出入りしている。だからか、タイ・ラオスの奥地に住む人らは、よそ者の扱い方がこなれている。よそ者に丁寧に地元の習慣を教えたり、方便を使って上手に誘導してトラブルを回避したり、若干騙してお金を払わせて生活費を稼いだりと、器用によそ者をコントロールする。

だが日本人は、国が海に隔てられ、平野は山に隔てられており、人の行き来が少なく、自分らの文化と異なる文化を持つ他人とふれあう機会が少ない。よって自分らの文化と、他人の文化にどれくらいの違いがあるのか、経験的な実感を持っている人が少なく、自分の意志を他人に伝える時、どうしても自分たちの思い込みだけで語ろうとしてしまい、相手に上手に伝わらない。結果として、トラブルをよく起こし、駆け引きが苦手で、騙されやすい。

陸続きで人を隔てるものが何もなく人の行き来が多いタイでは、ラオ人を生で見たことがないタイ人も、タイ人を生で見たことがないラオ人も、まずいない。 だが日本では、関西人を生で見たことがない関東人も、関東人を生で見たことがない関西人も、珍しくない。関西人と関東人にどれ位の差があるのかすら、知らないという人が大半だ  ─── そういう閉鎖した社会のなかで、様々な「民族的・天然記念物」が育っていく日本という土地柄がある。

タイ・ラオスよりも、日本のほうが*遥かに* 奥地なのだ。

※ タイ人とラオ人は、ほぼ同一の文化圏に住んでいる。 タイ国人口の5割強は、タイ東北・タイ北部に住むラオ系タイ人だ。特にバンコクの繁華街で見掛けるタイ人の9割はラオ系タイ人だ。

※ ラオ語・タイ語は、お互いに方言の関係だ。多くは共通だが、発音と基礎単語に大きな違いがあり、実際に話すにあたっては、関西弁・関東弁以上に大きな違いに直面することになる、タイ語話者とラオ語話者の間の会話は、しばしば困難だ。 ラオ系タイ人にとってタイ語は、第一言語ではない。

※ ラオは伝統的な民族の名称だが、タイ国内では『ラオ』という固有名称は使われない。タイ国内で『イサーン人(東北人)』と呼ばれ、ラオ語も『イサーン語(東北弁)』と呼ばれる。その理由には、歴史的な背景がある。

※ ラオ語は、タイ国内で『方言』とされている。だが、タイ国内の人口を比較すると、タイ語ネイティブ話者よりも、ラオ語ネイティブ話者の方が人口が多く、一部の人たちだけが話すローカル言語である『方言』を超えた存在意義がある。

※ ラオ文化は、生粋の農耕文化であり、都市部では『田舎者』と認識されている。土木作業や重機の運転に並外れた能力を発揮する一方、計算や事務作業は苦手だ。

僕は、日本人の多いタイに住み、且つタイ語の方言を話すことができる為、タイの田舎者と日本の田舎者を同時に目撃する機会が多い。それでしばしば感じることは、日本の田舎者と比べると、タイの田舎者の方がずっとコミュニケーション力が高いことだ。

タイ最奥地の農村地帯からバンコクに来た田舎のタイ人(ラオ系タイ人)は、大都会バンコクの慣れない街暮らしのなかでも、それなりに、よそ者(外人や潮州系タイ人・中部タイ人)とコミュニケーションを取りながら生活している。

だが、日本人としての常識をきちんと身につけて、それなりに大きな街から来ている(筈の)日本人は、バンコクに来ても全くよそ者とコミュニケーションが取れない ─── 相手を見ておらず、自分の勝手な偏見や思い込みでどんどんと話を進めてしまい、後でトラブルを起こす。劣等感が強く、常にタイ人を馬鹿にしていないと精神が崩壊する。日本でも普通に出くわす程度のトラブルでも、すぐに「タイ人はバカだから」と短絡的に結論づけ、差別感情に走る。東京でも早々は見掛けない極度なスノビズムと高貴なファッション。かなり低い日本語の表現力と、それを棚に上げての相手の理解力不足の叱責。 ─── 海外の常識に馴染む以前の話として、日本人としての常識が欠落している。

日本人の極端な低コミュニケーション力の原因は、タイ語が話せないからでは、決してない。タイ社会の中でタイ語が話せないのは、日本人に限った話ではない。バンコクに多い華僑出身の商人は、しばしばタイ語ネイティブではない。 バンコクで最も人口が多いラオ系タイ人は、しばしばタイ語が話せない。

タイ人よりも日本人の方が、ずっと田舎者なのだ。


日本の多様性について

日本に住む人は、気質・風貌・能力的なバラつきが非常に激しい。大陸では、こんなに人々のバラつきは激しくない。例えば、日本には、優しそうな顔をして凶暴な性格の人もいる、凶暴な顔なのに妙に優しい性格の人もいる…と風貌・気質・能力が一致しない人が多い。 だが大陸では、大抵の場合、顔と気質が一致する。

何故日本に住む人は、これほどに多様なのか。その理由は、日本に住む人が多民族間で激しく混血しているからだ。この様な激しい混血化は、世界的に見て珍しい。

それは例えば、血液型を見てもわかる。日本ではA・B・AB・Oの全ての血液型がまんべんなく存在するが、日本外の大抵の地域では、1地域に1血液型と、地域ごとに血液型に偏りが見られる。A・B・AB・Oが全ての血液型がまんべんなくあるのが当然の日本人からは想像もつかないことだが、A・B・AB・Oが全てまんべんなくいる国というのは、世界的にみて極めて稀だ。

ある説によると、中国沿岸にはB型、東南アジアはO型、中国南部にはA型、中国北部はO型が、それぞれ多いという。詳細ははっきりしない。

この様な現地の細かな民族事情は、部外者からは見えづらい為、研究はなかなか進まないのが常だ。特に、血液型の地域分布・遺伝子型の地域分布の研究は、しばしば、こういう現地の民族事情を無視しがちなところがある。特に日本の民族研究者にこの傾向は顕著だ。 研究者は、地域ごとに分かれて複数住んでいる民族を混同したまま調査して、地域ごとに平均値を取るという方法をとる。これだと、モザイク入りのビデオを見ているのと同じで、詳細がわからない。

また黒人は、大抵O型だ。欧州人はA型が多い。ちなみに日本は、アジア中で最もA型の比率が高い国だ。更に日本は、世界で最もAB型比率が高い国でもある。日本は、民族学的に見ると極めて特異だ。

何故血液型に偏りがあるのか。それは、民族によって血液型が異なるからだ。日本外では、異なる民族は大抵、違う地域に住み分けている。この『違う民族に住み分けがある』という感覚は、日本人には極めて理解が難しいものがある。日本人は、住み分けを作らないのが普通だからだ。

大陸では、各地域にそれぞれ複数の民族が住んでいる。だが、同じ地域に住んでいても、気質が共通な人同士(=民族)で集まって住み分けるのが普通だ。 民族毎に、はっきりとした言語文化・生活文化の違いがある。例え狭い地域に複数の民族が居ても、はっきりと住み分けて住んでいる。大陸人は常に同類同士で固まっている。 そして、大抵の場合、民族毎に血液型は異なる。

日本では、全く違う気質の人間同士が、共存して混血している。これは、日本外と比較すると、恐ろしく奇妙なことだ。日本は、海で大陸から隔てられている上、山がちでの各平野がお互いに隔離されている。狭い平野で、多様な民族が住み分けずに、共生している。

日本では『血液型』は『占い』でしかない ─── つまり、血液型と気質は、『占い程度』にしか一致しない。これは正に、日本人の混血度の高さを表している。

だが日本外では、『血液型』は差別問題だ。血液型と気質=民族は、ほぼ一致している。相手の血液型を聞くことは、差別と等しい。更に踏み込んで言うと、大抵の場合、顔や気質を見れば血液型がわかるので、聞くまでもない場合が多い。 日本外では『血液型』は、占いになりえない。当たりすぎてしまうので『当たるも八卦』的な面白さが全く無い。 血液型占いは、むしろ差別になる。

混血化が進んだ日本には、様々な特徴を持った、変わった人が生まれる。日本古来人の良い所、大陸人の良い所を併せ持った強い人も生まれる。一方、日本古来人の悪いところと大陸人の悪いところを併せ持った救いようのない人も生まれる。大陸人の様に大局を眺め、日本人のように粘り強い人も生まれるが、日本人の様に浅はかで、大陸人の様に飽きっぽい人も生まれる。

歴史的な略奪者としてのアイデンティティーと、歴史的な被略奪者としてのアイデンティティーが交錯する、日本という土地の特殊性が存在する。 略奪され虐殺されたという民族的な恨みを持つ人。略奪者としての優越感を持つ人。古来から続く民族の誇りを持ち続ける人。根無し草の略奪者としての劣等感 を持つ人。

優越感を持とうとする人。優越感を持てない人。優越感を必要としない人。被略奪者としての劣等感を持つ人。劣等感を持ちたい人。劣等感を持てない人。劣等感を必要とする人。劣等感を必要としない人。

歴史的に見た日本の多様性

何故日本は、これほどまでに民族的に多様なのか。それは日本が、歴史的に見て、世界最古の移民国だからだ。

極めて冷酷な見解ではあるが、日本はこの二千年間、 常に外部の為政者によって支配され続けてきた。民族的な自立を保ったことは、一度もない。 日本人の属国負け犬根性は、第二次世界大戦の敗戦に始まった話ではない。日本は大昔から、中国に支配され続けてきた。第二次世界大戦の敗戦により中国支配が米国支配に入れ替わったに過ぎない。

日本はそもそも「土人」の国だ。土人という単語は、もともと中国語で「現地人(アボリジニ)」という意味合いがある。中国語では今でも「土人」は、現地人という意味のままだ。だが日本ではその後、「土人」の意味合いが変わり、原始的生活を続ける野蛮な人々、という差別語としての意味が加わった。

もともと、日本の旧来の名称=倭(和)という名称は、中国語で「素直な人々」という意味合いがある。(<倭>は、人に委ねると書く。) 大和(やまと)の語源も諸説あるが、山の東や、山の戸(戸=入り口)など、中国から日本に入る時の情景を彷彿させるものが多い。その後、日本は「日出る国」という意味の日本という名称に変更されたが、「日本」という名称も中国語だ。日本列島に住む日本人は、日本から日が出るところを目撃することは、一生ない。 日本から日が出るところを見ることができるのは、中国人だけだ。更に、日本は、自国を「中国」と名乗っていた時期すらある。日本の中部を「中国地方」と呼ぶのは、その名残だ。

日本には数千年前から中国からの移民が何度も何度も、様々なかたちで押し寄せている。為政者として、行商人として、技術者として、屯田兵として、兵士として、奴隷として…。数千年前、中国は進んだ技術を持った大きな文化圏だった。強大な軍を従えた大陸の侵略軍は、征夷大将軍などと呼ばれて正当化され、日本の古来から受け継がれてきた土地を、堂々と蹂躙した。 日本現地民は、虐殺される。男性は全員殺され、女性は、性奴隷として利用される。こうして土人と大陸人との混血化が促進され、植民地化が進む。言語も、中国語を導入して、旧来の大和言葉は異民族の勝手な意図によって大きく改造され、現在の「漢字かな混じり」を強制された。

日本というガラパゴス島

日本は、民族の『落とし穴』だ。日本に来る人は多いが、日本から出て行く人は少ない。

日本は、歴史的に『黄金の国・ジパング』として世界中の憧れを集めた。テレビやネットのない時代、日本の存在は、『豊かな国・ジャパン』という伝説と化し、世界中の人をかき集めた。世界中の人が『黄金の国・ジパング』を目指す。船に乗り大海原に乗り出す。大冒険に掻き立てる。世界中の人が、移民として日本に押し寄せる。

海に囲まれた日本は、来るのも大変だが、出て行くのはもっと大変だ。外人好きな人が多い日本は、なまじ居心地が良い。「帰らなければ」「帰らなければ」…と思いつつ、つい長居をする。外敵が少なく、食料が豊富で、異性もたやすく手に入る  ───  そういう『日本的ぬるま湯』のなかで、再度危険な大海原に乗り出すのに必要な気合と活力を失っていく。

海で大陸から隔離され、それぞれの平野が山によって隔離されているので、人の行き来が少ない ─── だが船で移動する様になると、この状況が真逆になる。日本は島国で周囲が海に囲まれている、ということが逆にメリットになる。そして、日本列島の周囲には、北上する海流と南下する海流の両方が存在する。動力がなくても海流の流れにのって日本を一周できる。 これは、世界の他の島国と比べても非常に珍しいロケーションといえる。

大陸では、1000kmという距離を、膨大な費用と膨大な年月を掛けてを移動する。だが日本では、1000kmという距離でも、船を使うことで数週間で移動することができる。これは大陸では夢のようなことだ。しかも、膨大な物資と共に移動できる。多数の馬を使って乾燥した砂漠を少しづつ旅するのが当然の大陸人にとっては、夢のような話だ。

日本列島は、世界中から様々な民族をかき集め、孤島に閉じ込めた上で、海流によって激しくかき回す。こうして様々な民族が混血していく ─── 日本列島は、さながら巨大な『民族ミキサー』だ。

混血社会での人間関係スキル

混血化が進んだ日本には、大陸では考えられない様な有能な人間もいる。だが同時に、日本には、大陸では考えられない様な無能な人間もいる。

今回僕は、これまで非常に恵まれた人間関係のなかにいたことを思わざるを得なかった。僕の周辺には、優秀な人が多く、かつ僕の考え方に理解を示してくれる先達や仲間が多く居た。僕は、それが当たり前だと思っていた ─── 実際には、日本の世の中は、僕が想像していたよりもずっと大きかった。僕が「これ位の知能を持っていることは当たり前だろう」と思っていた知能レベルを大きく下回る人間など、無数にいる。

日本には、日本外と比べると極端に知能レベルが低い人が住んでいる。それは日本が、民族的な「ガラパゴス島」としての役割を果たしているからだ。 日本は、島国という特殊な環境にあり、日本に住む人間は、外敵に晒されない。外的がなく淘汰が進まない為、脆弱な人間も生き残る。珍しい能力を持つ天才的な人が生き残ることもある反面、能力が極端に低い人も生き残る。

能力が低い人 ─── 人に迷惑ばかりかける人。彼は、能力が高い人が羨ましい。妬む。嫉む。僻む。恨む。だが努力などまっぴら。 他人の妨害に限りない快楽を見出す。底知れぬ情熱を燃やす。その情熱のほんの1割を、努力することに使ったならば、とうの昔に成功していたであろう ─── それほどの激しい情熱を、他人の邪魔をするという、ただそれだけの為に燃やす。あらゆる創造性、知性、経験、勘、インスピレーションを全て働かせる ─── 他人の邪魔をするというだけの為に。

日本には、どうやっても建設的に行動できない人がいる。彼らは、建設的に行動できないだけでなく、建設的に行動する人自体が許せない。執拗につきまとい陰湿な嫌がらせを繰り返す。 もし大陸でそういうことをしたなら、即座に叩きのめされて殺されるだろう。だが、日本という寛容性の高い環境の中で、彼の腐敗した劣等感は、温存される。

もし日本で建設的な行動(会社を作るとか、作物を育てるとか、作品を作るとか、技工を磨くとか、何かを習得するとか、そういう知的に建設的な行動)をとろうとするなら、そういう建設的な行動自体が許せない人がいる、という事を念頭に置かなければいけない。

東京は、基本的に建設的な行動を取れる人が建設的に行動しやすい様にできている。建設的に行動できない人は、隠然と追い出される様な機構が備わっている。

だが東京外の地域では、必ずしもそうではない。建設的に行動できない人が、建設的に行動する人を好きなように妨害できる。

恐らく2016年現在、東京外で最大の地域は、大阪でも神戸でも福岡でもない。それは、インターネットだ。


混血社会での常識

こうして書いているだけで、自分の書く文章の見苦しさに吐き気を催してくる ─── 『世の中、馬鹿ばかり』だなんて、実に人を喰った嫌な見解だ。こういう他者を見下す人間が、僕は嫌いだ。

だがそこを敢えて、言ってみる ─── 自分の中に「むくむく」と沸き上がってくる嫌らしい優越感は、自分の心に巣食う醜い劣等感をあっさりと打ち消してしまうほどに強烈な快感である ─── 歯を食いしばってその快感を抑えこみ、その快感によって麻痺する理性に鞭を打ち付け、敢えて、その先を考えてみる。

自分の知人・友人に意見を求めてみたところ、『バカは、相手にしない』 という人を喰った見解は、僕以外の多くの人らには、実は当たり前であるらしい、ことが徐々にわかってきた。それは僕にとっては、意外なことだった。

僕の知人・友人は、多く地方出身(特に西日本)だ。彼らに僕の考え方の変化について話してみると、大半が「ハハハ」と笑う。僕は、こうやっていつも、馬鹿の言うことを真に受けて、馬鹿に振り回され、独り相撲を取っている。だが彼らに言わせれば、「僻みっぽいバカが多いのは当然だよ!」という。「僻みっぽいバカをいちいち相手にしていたらキリがない!」と笑う。彼らは、僕よりもずっと「馬鹿」の扱い方を心得ている様だった。

東京では、人の考え方はそれぞれ、としか言いようがない。同じ地元に住んでいても、皆、違う方言を話す ─── そういう異質な人間関係が日常であり、人間の考え方の違いをいちいち批判しあっていたら切りがない。 違いを受け入れて付き合っていく以外にない。バカの本質は考え方の違いそのものであり、相手をバカと罵ることは、考え方の違いを埋め合わせる努力の放棄にほかならない。例え、誰かがバカなことを言っている様に見えたとしても、彼がそう言う以上、彼の言うことを尊重する以外ない。

だが地方ではそうではないようだ ─── 人間の同士の違いを受け入れるつもりがない。考え方の違う人間は、単なるバカであり、まともに相手にするつもりもない。人間同士の違いを尊重するつもりもない。 違う人間は、暴力的に追い出しても構わない。

そういう中では、都会とは違った人間関係の対処法が必要ではないか。

対立せずに協調しなければいけない本当の意味

『意見の異なる人を尊重する』という『平等』の概念は、博物館のガラスケースの中にあるナフタリン臭い標本の様な理念ではない。実践社会において破滅的な敗北を回避する為の優れた処世術だ。

相手が自分の気に入らない人間だとしても、対立するより、お互いに譲り合い、お互い利用させてもらう方が、お互いにとってずっとメリットがある。その人の何らかの能力が自分にとってメリットがあるならば、尚更だ。協調すれば、相手の優れた能力は自分を守る刃と化すが、対立してしまえば、自分を殺す刃と化す。

喋り方が気に入らないから、顔が気に入らないから、殴り飛ばしてよい ───  これでは建設的な行動など取れる筈がない。何故かというと、自分が相手を気に入らないというだけのことで殴ってもよいならば、相手も自分が気に入らないというだけの理由で、自分を殴ってもよいことになるからだ。この考え方はいずれ、自分を破滅に導く。

自分の気に入らない人間を、暴力によって排除してもよい、というならこれほど簡単な話はない。もし体が大きく力があれば、話し合いという面倒くさいプロトコルを通じて人とコミュニケーションをするよりは、暴力の方がずっと短時間かつ少ない労力でトラブルを解決することができるだろう。だが暴力の果てにあるものは、混沌と破滅でしかない。

『暴力を振るってはいけない』というのは、決して『良い子の為の理想論』ではない。これは実践社会において、破滅的な敗北を回避する為の優れた処世術だ。広い世の中を見渡せば、自分よりも強い他人は無数にいる。自分が暴力を振るえば、他人は自分に暴力を振るうだろう。つまり、遅かれ早かれ、自分よりも強い他人と衝突することになる。これは自分の破滅を意味する。

自分よりも強い他人の暴力を呼び込まない為にこそ、暴力行為は控えるべきだ。誰彼かまわず噛みつくのは、狭い世界に住んで世の中を知らない弱い野良犬だけだ。強い敵であるからこそ、衝突を避けて可能な限り協調すべきだ。

 ─── 自分自身の破滅を避ける為にこそ、協調する。

弱い犬ほどよく吠える

だが自分の力が弱く、暴力的な衝突において勝ち目が薄い人=暴力的な衝突を避ける必要性が高い人であればあるほど、自ら暴力的な衝突を好む傾向が、人にはある。人によっては、それを『弱い犬ほどよく吠える』という話になぞらえて説明する。広い人間関係の中では、即座に破滅を招く危険な気質といえるだろう。

そんな気質でも破滅しないのは、何故だろうか。彼が外敵の少ない田舎に住んでいるからだ。

※ 勿論、田舎に住む人が全員『よく吠える犬』という訳ではない。大半の田舎の方々は、勤勉で常識ある方々だ。単に『よく吠える犬』は田舎にしか居ない、というだけのことだ。

自分よりも多く金を持つ者・自分より高い能力を持つ者・自分にない美貌を持つ者等々、自分に劣等感を与えうる全ての人間を、僻み、妬み、嫉み、恨み、罵り、虐め、挫こうとする ─── 決して自分を高める努力をしない。 劣等感を与える人間が、自分の視界から消えれば、それで充分なのである。

彼らにはもとより努力するつもりなどない。 ほんの少しの努力で手に入れられる優越感であろうが、努力などするのはまっぴらであり、するつもりもなく、する能力すら持たない。努力などすることなく自分を騙して気楽に過ごしたい。

共存を目指せば破滅しなかった筈の場面でも、 安易に衝突を選び、自ら破滅する。田舎者は、一定以上の建設的な行動が取れない。



街の厳しい生存条件をクリアしてきた人間は、田舎者を相手にしてもどうにもならない。

『よく吠える犬』とどう付き合えばよいか。

暴力的な『よく吠える犬』とどう付き合えばよいか。 暴力には暴力で応対する以外にない。よく吠える犬は、人語を解さない為、協調できない。例え彼が弱く、反撃を受ければ一撃で即死という状況であっても、彼は執拗に攻撃を続ける。 彼の延々とやまない妨害行為を阻止する為には、暴力的な反撃も止むを得ない。よく吠える犬は、叩き殺す以外ない。

だがそこで暴力を使うことは、モラルの破綻を意味する。相手の暴力に応対すべく、自分も暴力を振るえば、自分自身が他人から暴力を振るわれても止むを得ない。反撃できるから、といって反撃してよい訳ではない。

残念なことだが、『よく吠える犬』からはある程度距離を取る、という以外の解決策はない。

最後に:日本に住むという事を理解する。

日本は、民族的ガラパゴス島だ。野良犬が一匹紛れ込むだけで、島の貴重な天然記念物は全て食い殺されてしまう。逆に見ると、野良犬にとっては、全てが自分の思い通りになる天国だ。天然記念物は、必死に抵抗する。必ず喰い殺される ─── そのことを天然記念物である彼自身が一番よく知っている。

自分が野良犬であることをはっきりと認識した野良犬は、実は非常に強い。




関連資料
おかあつ日記『日本人の盲目性』





(Mon, 18 Jul 2016 02:26:16 +0700) 第一校・完了
(Wed, 20 Jul 2016 01:30:46 +0700) 第二校
(Wed, 20 Jul 2016 03:18:53 +0700) 第二校・完了
(Wed, 20 Jul 2016 17:00:48 +0700) 第三校・完了
(Thu, 21 Jul 2016 13:17:22 +0700) 第四校・完了
(Thu, 21 Jul 2016 14:01:51 +0700) 第五校・完了
(Sat, 23 Jul 2016 02:05:40 +0700) 第六校・完了
(Sat, 23 Jul 2016 02:46:47 +0700) 第七校・完了
(Sat, 23 Jul 2016 12:48:43 +0700) 第八校・完了
(Sun, 24 Jul 2016 12:20:15 +0700) 第九校・完了

(Sun, 24 Jul 2016 17:04:10 +0700) 第十校・完了(分割した)

(Mon, 25 Jul 2016 02:52:27 +0700) 公開