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2016年8月9日火曜日

地方移住でよくあるトラブルとその原因 (oka01-leybpkiuuoyzulze)

─── 僕を嫌う人間には、ある特徴がある様だ。その特徴について、色々と思うことはある。だがここでは語らないことにする。  ───  僕は「自分自身を駄目人間だと思うなら、腐ってふさぎこんでいないで、むしろ一心不乱にやってしまえ。」と思う ─── 嫌われているのは、僕だって同じだ。

ゴミだって、燃やせば、お湯くらいは沸かすことはできる。

 だがしかし、彼らは、燃えない。

『燃えるゴミ』は、燃やしてお湯を沸かすこともできるが、

『燃えないゴミ』は、せいぜいコンクリートで固めて海に沈めるしかない。

─── プロローグに代えて (岡城敦士)

地方移住でよくあるトラブルとその原因

偶然こういう記事を見つけた。

イケダハヤト氏 ・・・「田舎・地方への移住」で失敗しないための5つのポイント。

(引用)

高知では同じような話を聞いたことないのですが、農業系の移住者ですかね?こういう話があるそうです。

移住した人たちが、つぎつぎに、生活が軌道にのった移住4年めくらいに現地住民によって「出てってください」と、いわれるのです。荒れ果てた田畑を開墾し、ようやく収穫も充実の時期になりそう・・・・ってときに「すみません、たんぼと畑かえしてください」

……えぇ?

とりあえず、ぼくが住んでいる集落ではありえないでしょうねぇ……。


僕は、日本の地方移住の経験はないが、タイの農村地帯への移住経験がある。僕が移住した場所は、標準タイ語が全く通じず、テキスト教本などの全く存在しない訛りの強い方言以外に通じない、非常に敷居の高い地域だった ─── だが、上記の記事を読むと、なんとなく思い当たるふしがある。

何故、追い出されるのか。

以下、思いついたことを書いてみる。


貧富の差が激しすぎる

村の生活は、大抵『エコ』だ。ここでいう『エコ』というのは、電気やガスなどのエネルギーを節約する『エコ』ではなく、お金を節約する、経済的な『エコ』だ。

地方の暮らしは、都市部と違って、土地や時間・食料などの資源が豊富なので、土地や時間・食料に『エコ』である必要がない。だが地域経済の規模が小さく、現金を入手する方法が限られている。どんなに努力しても、まとまったお金を動かすことができない。よって、経済的に『エコ』であることがとても重要になる。

家具や道具を作る際も、近所に生えている竹を組み合わせて作ったり、落ちている小枝を組み合わせて作ったり、多少不具合があっても、可能な限り『経済的コスト』が掛からない様に作る。その分を時間的コスト・労働的コストで埋め合わせようとする。

だが都市部の人間は、その違いが理解できない。都市部の人間は、都市部から農村部ではありえない巨額の資金を持ち込み、都市部から農村部ではありえない経済的高効率を実現してしまう。

すると生活に違いが出る。それは、綺麗な田んぼ、綺麗な家、綺麗な畑といった、地元の人にとっては喉から手が出るほど欲しかった『物資』となって具現化する。 それらは地元の人にとってみれば、30年40年という信じがたい長年の努力の末にも結局手に入らなかった、理想形である場合が多い。

都市部から移住した人間に、そのような状況で起こる独特な心理に理解がなく、傷つきやすい心を理解する繊細さがない場合、これは深刻な問題となる。それは、地元の人の気持ちを傷つけるというだけでなく、人間関係上に亀裂を入れ、無用な報復行為を誘発する。つまり嫌がらせを受けて、様々な手法を使って追い出される。

よって地元の流れを読んで、その地元の視点で『派手すぎない』生活を守ることが、重要になる。

最初から騙されている。

『タワケ』とはバカの代名詞だが、この『タワケ』は、『田分け』という意味だ、という説がある。農家では、田とは最も重要な生活の基盤であり、これを分け与えるというのは、最も愚かな行為だ、という意味だ。この説の真偽の程は不明だが、農家の方々にとって田畑(土地)とは、それほどに重要なものだ、ということだけは言えそうだ。

上記の記事を読むと、土地を買ったのではなく、借りた土地で農業をやっていた様に見受ける。だがこれは、農村地帯でもっとも避けるべき行為のひとつだ。

土地を開梱するというのは、並大抵の労力では済まされず、その土地に自分の命を削って注ぐような様相がある。つまり、借りた土地を開梱するというのは、貸した人間の土地に命を注ぐ様な様相を持っている。

だが都市部の人間は、こういう状況を理解する判断力を持たない場合が多いようだ。

よって都市部の人間に土地を貸してそこに投資してもらい、適度に開梱して貰ったら、その土地を返してもらう、というのは、地方民にしてみれば非常に手軽な、土地を開くやりかたといえる。これは、都市部の人から見ると『詐欺』に近い行為だが、地元の人から見ると、余所者は出て行くのが当然という認識があることによって、全く罪悪感もない。

これは、(農村部の人は、それを騙しとは思っていないが)都市部の人間を騙す手法のひとつと言える。残酷な様に見えるが、農民にとっては非常にポピュラーな手法だ。タイ政府は、これを国を挙げて実施している。

地元の人とコミュニケーションをとってない。

地元に住んだら、そこの食文化・服装・住まい・方言・等々を学んで、馴染むのは当然であり、そこの人と酒を酌み交わし、そこの文化に敬意を払うというのは、当然のことだ。それをしないなら、嫌がらせを受けるのは、むしろ当然といえる。

よそ者に合わせる能力を持たない人が多い。

都市部に住んでいると、よそ者に合わせることが常態化している。考え方が違う人と仲良くしたり、食の好み・音楽の好み等々が異なる人と、譲り合いながら生活するのが当然と考える人が多い。

だが農村部では、その「少しの違い」すら合わせられない、むしろ、合わせるつもりすらない、というのが当たり前だ。都市部から農村部に移住した人にとって、相手の寛容性のなさを寛容に受け入れることは、最低限必須といえる。

そもそも、よそ者が嫌い、という人がいる。

どんなに地元の風習に慣れて、地元の方言に慣れて、地元の風習に染まって生活していても、そもそも『余所者と話すこと自体が嫌い』という超保守的な人というものが、この世に存在する。この人たちは、村の中の人と話すことすら嫌いで、それどころか家族以外の人と話すこと自体が嫌い ─── 場合によっては家族ですらも話すことが嫌いなことも多い。

僕は、特定の村の方言にターゲットを絞って研究した為、その地域で生活していると「お前は◯◯村から来ただろう」と指摘される程度の非常に強い訛りがある言語を話すことができる。 一言でもタイ語を話せば、特定の地域出身のタイ人だと認識される。

だがそれでも、話すと嫌な顔をするタイプの人は(少ないが)いる。 彼らはそもそも、他人が嫌いなので、地元の方言を話そうが、地元の習慣に馴染んでいようが、嫌われる。挨拶すらしない。話しかけても返答しない。

恐らく、この「超保守」的な人間は、タイよりも日本に多い。

日本は、タイの最奥地よりもずっと『奥地』度が高い。

タイは多民族社会だ。だが住んでいる民族数自体はさほど多くなく、日常的によく見掛ける民族は、3〜4種類しかない。

僕が学んだ方言は、タイの最奥地で使われている方言だが、にも関わらず、そこから数百キロと遠く離れた奥地で、全く同じ方言の人たちと出会うことは稀ではない。 方言なのに、非常に広い範囲で通用する。方言であるにも関わらず、タイの首都・バンコク市内で生活するにあたって、タイ語よりもずっと通じやすい場合も多い。 方言であるにも関わらず、話者数が標準タイ語よりも多い。

タイは多民族社会だが、混血化があまり進んでいないので、はっきりとした住み分けがある。よって特定の民族の方言・風習を習得してしまえば、タイ全土のどこにいっても、生活上、困ることがない。(自分が馴染んでいる民族が集まる場所を探せば、大抵見つかる。食べ慣れた食料などが簡単に手に入る。)


この経験を踏まえて日本を振り返って考えると、日本は『超多民族・混血社会』だといえる。もし日本の地元文化を、生活風習などで分類したら、民族数は数千はくだらないだろう。また各文化毎の敷居が曖昧で、線引きが難しい。

歴史的に日本は、『民族』という言葉を使わず『氏』『苗』『家柄』などという違う呼び名を使い、数十人・場合によっては数人単位で集落を作って生活している。 こういう無数の『超少数民族』が、小さな列島の中で混血してきた数千年の歴史がある。いわば『民族的ガラパゴス島』 といった環境のなかで、様々な民族的『天然記念物』が生み出されている。

参照:何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界

そんな日本では、ある特定の方言と、全く同じ特徴を持った方言に、遠く離れた場所で出会う、ということは稀だ。( ─── 出会うチャンスは『稀』であっても、恐らく多く存在する筈だ。 この特定の方言の分布を調べることで、現代の日本人がどの様な経路で大陸から渡来してきたのか、調査できる筈だ。その調査は、まるで『方言の神経衰弱』の様な作業になる筈だ。)

超少数民族=『とうきょうもん』

イケダハヤト氏は、紛いもない東京者に見える。東京の生活に飽きている。東京の生活を『馬鹿らしい物』と認識している。『東京』を良いものと思っていない。 東京から脱出することを『おしゃれで格好良いもの』とすら認識している  ─── これらは、『真の東京者』の特徴だ。偽物の『東京者』は、東京の生活を『良い物』だと思っている。

そういう氏のブログからは、東京から脱出するという『良いこと』をみんなに教えよう、という善意が感じられる ─── この点、東京者である僕自身、非常に近い動機を持っているので、気持ち的に非常によくわかる。

だがこういう『脱東京』を語る、東京で生まれ育った『ネイティブ東京者』は、超少数民族であることを指摘しなければならない。 東京在住者のざっくり8割程度は、地方から上京し、地方上京であることを隠しながら生活する『エセ東京者』だ。

彼らに『脱東京』を語っても理解しない。笑顔で耳を傾けつつ、内心「ケッ!」と舌打ちしている。

『エセ東京者』は、自分がどこから来たか知っており、彼らが何者なのかよくわかっており、それがどれ位『真の東京者』と違いがあるのか、理解している。よって、東京者のフリをすることができる。

『真の東京者』は、東京で生まれ育った為、自分がどこから来たのか知らない。自分が何者なのかよくわからず、自分の文化や気質の上に、どれほど『エセ東京者(地方出身者)』との違いがあるのか、理解できない。よって、田舎者のフリをすることは、できない。

彼ら『エセ東京者』は、笑顔で東京者の『戯言』に理解を示したふりをするが、内心では怒りに打ち震え『あぁあぁ!東京者(とうきょうもん)はいいなぁ!』 と不満を鬱積させていく  ─── こうして『真の東京者』は、『裸の王様』と化して行く。

移住30年目の壁

僕がよく見掛ける『究極の都会者騙し』は、殺人だ。

僕から見ると、地方移住者には、通過すべき2つの壁がある。 ひとつ目が5年の壁。次が30年目の壁だ。

その地元に入って地元の風習に溶け込んで、ようやく形になったかな、という頃に、追い出されるのが5年目の壁だ。 自分自身は『地元に溶け込んだ』と感じているのだが、実際には周囲の人間は必死に笑顔を繕いつつ、彼の無礼を許している ─── 周囲の人間は徐々に不満を蓄積させ、その蓄積した不満が爆発するのが、5年目ではないか、と思う。

そして、その5年目の壁を乗り越え、本当の意味で地元の風習に溶け込んで、地元に根を下ろすことに成功し、資産や家族を持った末の30年目頃、突然大きなトラブル(しばしば殺人事件)に遭遇する。それが30年目の壁ではないか、と思う。

地元の人の気質をよく理解し、 短期的な不満を回避するソーシャル・スキルも身につけた。日常的なトラブルは、きちんと回避できる様になった ───  するとその上に、もっと根本的な人間の価値観の違いというものが顕れてくる ... 絶対に不可避な価値観の衝突として ─── それが『30年目の壁』なのではないだろうか。

家族のありかたはどうなのか  ─── 子供の育て方の常識はどうなのか ─── 資産の管理の仕方=男性が資産管理するのか・女性が資産管理するのか ─── 男が上なのか・女が上なのか ─── 土地は、いつ誰が相続するのか  ───  恥を感じるポイントにどういう違いがあるのか ─── 村の生活では、恥は生死を掛けて避けるべきものでもある  ───  世間体の感じ方の違い ─── 郷土信仰の違いによる 罪悪感の生まれ方の違い ───

何らかの看過しがたい価値観の違いが、長い年月を掛けて少しずつ衝突し、それが結果的に『殺人』という究極の解決手段に走らせてしまう。しばしば農村部は、都市部と違い、公安による管理が行き届いていない。 殺人事件を揉み消すことは、都市部ほど困難ではない場合が多い ───  あるいは、家族の中の誰かが、家族を守る為、自ら人柱となって殺人罪を一手に引き受ける覚悟であれば、殺人は充分可能だ。

その『看過しがたい価値観の違い』とは、一体何なのか ─── それは曖昧でよくわからず、はっきりしない。これは僕が今でもかなりの熱意を傾けて考え続けているテーマでもある。

東京ではない場所=ネット

先日、何故ネットは炎上するのか───和製アナーキストの限界 という記事を書いた。その時にも書いたが、今一番ポピュラーな地方移住の移住先は、高知でも兵庫でもない。ネットだ。 匿名掲示板・匿名性の強いツイッターなどは、奥地の農村と言ってよい。

在宅勤務は、言い換えれば「ネットへの移住」といえる。ネット ─── そこはもう既に東京ではない。つまり、ネット移住には地方移住と全く同じ問題が発生する。

ネットで起こる『炎上』の原理が、ここに存在する。



人に理解されたり、喜ばれようなんて思うな。むしろ認められないことを前提として、自分を猛烈に突き出すんだ。 ─── 岡本太郎 『壁を破る言葉』




余談:

イケダハヤト氏は、高知への移住をさかんにプッシュしているようだが、後日聞くところによると、実は彼自身が高知出身だ、という噂があるらしい。その真偽はわからないが、だとしたら、つまり彼自身が『エセ東京者』だという可能性がある。もしそうだとしたら、この僕が書いた記事の趣旨をひっくり返すどんでん返しが発生することになる。

飽くまでも仮説だが、もし仮に、この仮説が正しいとすると、彼も東京者を気取り、「ここ(自分の地元)は、トラブルなど起こりませんよ!」とアピールした上で、自分の地元によそ者を誘致し、そこから金を取る狙いがある筈だ。例えば、二束三文の土地を、事情をよく知らないよそ者に通常よりも「若干」高い値段で売りつける… 等々がよくある手法ではないか、と思われる。 ─── しかし、これで高知県に『よそ者』が集まったとして、彼が30年後に、集まった大勢の『よそ者』にどういう対応をするのかには興味がある ─── 集まってきた面倒なよそ者をどうやって体よく追い払うか。

気持ち的には、彼の善良さを信じ、この仮説が正しくないことを祈っている。

だがこの仮説から、色々と興味深い結論を導き出すことができる、ということはある。 例えば、ここでもし仮に、この仮説が正しくなかったとしたら、ここには出てこない何らかのグループの存在を仮定し、それが利益を得ていなければ、彼の言動を合理的に説明できないということは、ひとつ言える。 

また、次の様なこともいえる。 もし仮に、彼がそういう善良さの欠片もない『下衆』だったとしても、それは飽くまでも、そんな見え透いた下衆な嘘を何も疑わずにあっさり信じてしまう、下衆な人々の裏返しでもある。 『嘘吐きのいるところには、必ず嘘吐かせがいる。』・・・僕はそう思う。

あるいは、彼自身まだ若く、地方人の腹黒さの真髄をまだ見ていないだけか。

東日本人は、信じやすく騙しやすいが、騙されたと気付いた時の怨念パワーの破壊力は、凄まじい物がある。その恐ろしさを知っている西日本人は、自分自身が騙すことを避け、誰か事情をよく知らない代理人を立てて、彼に騙しを演じさせるものだ。
 
 ─── 詐欺師には2種類ある。ひとつは、最初から詐欺をやるつもりで商売している詐欺師。もうひとつは、最初は普通に真面目な商売をやろうと思っていたのだが、商売を進めていくうちに、自分が騙されていることに気付いてしまった ─── だが派手なパフォーマンスをしてしまったあとで、もう引っ込みがつかない。 こうして、自分が騙されていることを知っていても沈黙を守り、そのまま商売を続ける。 これもまた、ひとつの詐欺なのだ  ───  これは某詐欺師の談だ。深い。

… 等々、色々と思うところはあるが、これ位にする。人には色々と事情があるものだが、僕としては、関係諸賢の幸福を願い、繁栄と御活躍をお祈りする次第である。