まえがき
僕はジャズが好きだ。理論的な白人ジャズも好きだし、躍動感のある黒人のジャズも好きだ。大陸的で人間同士の激しい衝突が起こるジャズという音楽の存在自体が好きなのだ ─── だが僕は、日本人が演奏するジャズを聴くと、気持ち悪くて気持ち悪くて、仕方がなくなる。僕は僕なりに何故、日本人のジャズが気持ち悪いのか考察してみた。
音声学的な視点からリズムの違いを分析したもの
何故、日本人は縦乗りなのか ─── 縦乗りを克服しようシリーズその1
縦乗りの起源・日本語のリズム ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
縦乗りをよく知る・縦乗りと裏縦乗り ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
日本語のイントロ ─── 縦乗りを克服しようシリーズその4
社会学的な視点から日本ジャズを批判したもの
『 東京は大好きだが、東京者は大嫌い 〜 ジャズと権力1』
『縦乗りと横乗りの本質 〜 ジャズと権力2』
『ジャズの武道性・ジャズと権力3』
日本語がもつ特殊なリズムと、ジャズとの関係を説明したもの
『ジャズと揉み手』
だが、どうしてもしっくりくる説明が得られなかった。だが僕は、あるきっかけによって、僕が日本のジャズが嫌いな理由に対して根本的な大きな勘違いをしていることに気付いた。
日本の心
昨日、南方系の友達と話していて気付いたのだが、僕は、僕が思っている以上に、『北国/山奥の暮らしのイメージ』を持っているようだ。何故そう思ったかというと、僕は北国にも山奥にも住んだことがないのに、その暮らしに対する比較的はっきりとしたイメージを持っているからだ。
僕はその友達に対して、思いつくまま面白半分に雪国の暮らしを説明してみたのだが、その友達は「よくそうやって次々にイメージが湧いてきますね!」と言った。そこではたと気付いたのは、その友達がそういう雪国の暮らしについて何のイメージも持っていないことだった。 そこ初めて僕は気付いた。僕は雪国に住んだことがないのに、雪国の暮らしのイメージを持っている様だった。その理由は、恐らく僕に北国の血筋が混ざっているからだ。僕の先祖の4分の1程度は雪国出身なのだ。
また僕はそこで同時に、今までは自分でも全く気付かなかったが、ほとんど民謡を聞いたことがないのに、その民謡をある程度模倣して歌うことができることにも気付いた。当然だが、その南方系の友達はそれを歌うことが出来ない。恐らくその友達が歌うと、全く違う民謡になるだろう。
何故僕が民謡を模倣することができるのか。それはひょっとしたら、僕が遺伝的に持っている何かがそうさせているのではないだろうか。
そう思った。 ─── もっとも、その見解が本当に正しいかどうかは、誰にもわからない。
だがそこで僕は、絶対に正しいといえる2つのことに気付いた。ひとつは、僕は自分が思っている以上に、民謡や音頭が好きだったということだ。もうひとつは、僕が日本人ジャズが嫌いな理由は、僕が『本場リアル・ジャズ』が好きだからではなく、むしろ『本場リアル音頭』が好きだからだ…ということだ。 この2つの考えがほぼ同時に、衝撃的に閃いた。
僕は、何故僕が「インチキ臭い日本のジャズ」が嫌いなのか、少し勘違いしていたようだ。民謡が好きな方の僕は、『ジャズなどという敵性音楽は、やめてしまえ!』的な非常に強い感覚を持っているのだ。
貴様は、敵国の音楽など演奏しおって!— 𝘼𝙩𝙨(おかあつし) (@ats4u) September 8, 2018
日本人として恥ずかしくないのか!
何がR&Bじゃ!
何がジャズじゃ!
何がヒップホップじゃ!
哀歌は日本人の心じゃ!
… という感覚は、僕はむしろ持っている。 ジャズもヒップホップも大好きだが。
また「どうせ敵性音楽をやるなら、敵性音楽を徹底的に模倣しろ、徹底的に真似て敵国で一番になるくらいやれ」的にも思っている。自分でも戦前の頑固親父みたいだと思うが、そう感じている自分がいることは否定できない。
日本人が演奏するジャズは、日本歌謡ともつかない、米国ジャズともつかない中途半端で歯切れの悪い音楽だ。それは米国ジャズに対する冒涜である以上に、日本歌謡に対する冒涜でもある。
日本の心を捨てなかった戦後歌謡
僕は日本のジャズだから全て否定している…ということでは決してない。むしろ日本のジャズに好きな演奏はある。この演奏は、演歌歌手・八代亜紀の演奏するジャズだ。全く日本ジャズ的ないやらしさを感じさせない。日本的なわびさびの味わいを見事にジャズのリズムの上で美しく再現している…と僕は感じる。
この曲宇多田ヒカルの「オートマティック」が美しいところは、「とんとんとん・とんとことん」の繰り返しで構成される日本の1拍3拍目を強調する和のリズムとメロディーの美しさをベースにしながら、16ビートのリズムに変化させた上でジャズ的なリズムを載せ、美しくまとめているところではないか、と僕は思う。 その音楽の精神が、飽くまでも日本に置かれているところが、潔い。
最後に僕は、この曲『らき☆すたOP・もってけ!セーラーふく』を挙げたい ─── 僕はこの音楽を、都内のジャズマンが演奏するジャズよりも遥かにジャズな音楽だと考えている。
実際この曲のリズムを分析してみると、アフタービート(2拍目4拍目の4分音符と、2468つ目の八分音符を同時に強調する)のリズムが多用されていることがわかる。 そんなトリッキーで不安定なリズムが、サビにはいると一転、日本の心を象徴する「どーんどーんどーん・どどんがどーん」をベースにした音頭ビートに突入し、強い安定感を与えている。
この構成が、これほどまでに複雑なリズム変化を取り入れ強い刺激を与えているにも関わらず、極めて日本的な強い安定感をもたらしている。背反する要素を併せ持った秀作だ。
日本の心を捨てた音楽=ジャズ
「オーイェー! ユーはなかなかいい演奏をするねぇ! カモーン、エブリボデー!」というまるで戦後のパンパンボーイのような、日本の精神を鬼畜米英に売り渡した売国奴のようなしゃべり方をする妙なジャズマンを見ると、僕は精神的に全く許しがたい。或いは
よぉ… じゃぁ俺様のクール・ジャズの演奏を始めるぜ…
用意はいいか? クックックッ… まぁびびるんじゃねぇぜ…。
ま、俺の強烈なビートが始まる前は、みんなそうなっちまうんだ…。
仕方ないってぇもんさ…俺のリズムは罪だな…。
じゃ行くぜッ!
どーんどーんどーん!
どっどーんがどーん!
どーんどーんどーん!
どっどーんがどーん!
僕にはもう、冗談なのか本気なのか、判別がつかない。 ─── だがこの様なコンテクストを地で出している和製ジャズマンは無数にいる。もし本気でジャズを志すなら、ジャズという音楽がもっているリズムに対してもっと客観的になり、もっと完璧な形で模倣すべきだ。
僕という1人の人間が持つジャズに対する姿勢
僕は、邦楽が嫌いではないし、むしろ好きだ。 だが国際社会で世界の人々と対等にコミュニケーション取りながら音楽を演奏するためには、それを一旦、脇に置く必要があると考えている。僕は、ジャズはむしろ語学(言語)だと思っている。外国語を学ぶ学問、それが語学だ。ジャズは外国語だから、それを学習する心構えは語学と何ら変わりはない。
─── 外国で、自分の気持ちを相手に伝える為には、まず自分の履物を脱いで、相手の土俵に自ら登って行って、相手の言葉だけを使って、自分の気持ちを説明しなければいけない。 自分の言葉だけで自分の思いを語っても、自分の思いは伝わらない。
形上の言語という型は完全に模倣しなければいけないが、だからといって、自分の精神を捨ててしまったら、言語を学ぶ意味がない。
言語を上っ面に考え雰囲気だけを模倣することに併走、自らの精神性を捨ててしまうなど、言語道断だ。ましてや単に仲間内を威嚇する手段として言語を使うなど問題外といえる。
言語(ジャズ)とは飽くまでも自分の思いを伝えるツールでなければいけない。
更新記録:
タイトルに『ジャズと権力4』を追加した。(Fri, 16 Aug 2019 12:50:07 +0900)
文言『ジャズと権力』をタイトル後に移動した(Fri, 16 Aug 2019 12:51:25 +0900)
関連記事を追加した。(Fri, 16 Aug 2019 13:04:07 +0900) 表題を『ジャズという敵性音楽 〜 ジャズと権力4』から『ジャズと権力4…ジャズという敵性音楽』へ変更した。(Sun, 08 May 2022 02:18:14 +0900)