だがこのリズムは、日本人としての一般的な感覚からはかけ離れており、しばしば聴きとることが難しいようだ。 ─── これが何かひとつの大きな問題のトリガーを引いてしまう。
本物の黒人が来て演奏して、それが聴き取れないなら、何も問題はないのだが、日本人がそれを演奏して、それが聴き取れないと、 大抵「お前の演奏は間違っている!」「何故そんな嫌がらせばかりするのだ」と罵倒されてしまう。そこで何か口答えでもすれば「お前に何がわかる!」と怒鳴られてしまう。独りで強情を張る奇人という烙印を押されてしまう。
日本のセッションで演奏していると、みんな1拍目と3拍目に強拍が置かれる。しつこいほどに置かれる。 ─── どうやら東京のジャムセッションで演奏する時は、演歌・浪花節・音頭・民謡にもある程度の嗜みが必要なのだと思う。
では東京のジャムセッションで演歌ハイブリッドジャズを演奏すればいいのだろうか。それにも僕は、一抹の違和感を覚えるのだ。問題の本質は、もっと複雑な要素をはらんでいる。
横乗りの本質
これは米国・黒人教会音楽(通称ゴスペル音楽)で有名な「ウィリアム・シスターズ」というグループの演奏だ。僕はこのグループが大好きだ。
彼女らの演奏は、2拍目4拍目に強拍が置かれている。また8分音符の 4分音符と重ならない部分=8分音符 2・4・6・8つめに強拍が置かれている。これがいわゆる「アフタービート」と呼ばれるリズムだ。 米国の黒人が好む音楽は、ほぼ例外なくこの特徴を持っている。
ジャズは米国の黒人音楽に起源を持つ音楽だが、日本のジャズマンは、これがアマ・プロ・一流と呼ばれるようなプロミュージシャンも含め、全く出来ない。
───
僕は、このウィリアムズ・シスターズの演奏が好きで何度も聴いたのだが、この演奏は単純なようでいて実に奥が深い。
今日も聞いていた。彼女らの演奏は激しい裏乗りだが、表の音を全く出していないかといえば、そうではないらしいことに気付いた。彼女らの動きをみていると、全員ステップは1拍と3拍(オンビート)で踏んでおり、それを更に2小節パターンに拡張して踊っている。 ─── これがサビに入ると1拍と3拍に強弱を置いたまま1小節パターンに縮小する。
これがあの独特な高揚した雰囲気を醸し出すようだ。
───
更にこれを見ていて思ったのだが、日本人のいわゆる『縦乗り』というのは、本質的に「体の1つの部分でしかリズムを取っていない」ということであり、黒人の『横乗り』というのは、つまり体の2つ以上の部分でリズムを取っている、ということではないだろうか。
彼女らの演奏は、歌として歌っている部分は、すべて「オフビート(4分音符2拍目・4拍目・ 8分音符で2468つめ)」で構成されている。 すべてのオフビートを足し合わせると、4分音符1拍目・3拍目だけが空白になる。 その部分でステップを踏んでいる。
縦乗りの本質
この事に気付いて更に僕は、ハッとした ─── 日本人のリズムの本質は、『間』なのかも知れない。外国の人が「1234」のすべての位置で音を出すのに対して、日本人は1と3の位置で音をだし、2と4は空ける。そこに音があることを「察する」。
この「間を空ける。そこに音があることを察する。」という文化は、アジアのなかでも日本だけが持っている文化ではないだろうか。
多分本来は、祭りの儀式でしか歌わない神聖な歌なのだと思うが、こうやって観光客の前で見世物として披露しても全く色褪せることがない強烈な存在感 ─── ケチャ。
これも所謂「横乗り=体の2つ以上の複数の部分でリズムを取る」だ。ケチャの場合、R&Bのバンドと同じように、3つ4つのグループに別れて違う音価の音符を歌うことで、全体のパルスを表現している。
「縦乗り」というのは、アジアで普遍的なリズムですらない。
日本人の持っているブルース
日本人という民族が持っている本物のブルース。軍歌(哀歌)はかつて、日本人のブルースとして一般的だった。
「貴様は、敵国の音楽など演奏しおって! 日本人として恥ずかしくないのか! 何がR&Bだ! 何がジャズだ! 何がヒップホップだ! 軍歌は日本人の心じゃ!」 ─── という感覚は、僕はむしろ持っている。 ジャズもヒップホップも大好きだが、日本人の演奏するジャズやヒップホップは、どうしても好きになれない。人間の心の上辺だけをかすったような浅い音楽としか聞こえない。僕はどうしても好きになれない。日本の音楽が嫌いな訳ではない。だが日本人の演奏するジャズは、何かが気持ち悪い。
だが軍歌には嘘がない。軍歌には、現代の日本人が持っている本質的な悲しみが宿っている。
恐らく、軍歌のように古くからある日本の心が戦争によってすべて破壊され、進駐軍によってジャズに置き換えられたのが、今の日本なのだ。それが日本のジャズというものが持っている本質的な欺瞞なのではないか。
日本人のジャズ好きという欺瞞
僕がジャズ好きな日本人を見ていて、非常に強い違和感を感じる点がある。それは彼らがジャズしか聞かず、黒人教会音楽(ゴスペル)を一切聞かないことだ。ジャズとゴスペルの関係
ゴスペルとジャズは表裏一体の存在だ。かつて黎明期のジャズミュージシャンの多くは、ゴスペルミュージシャン出身であり、そうでなかったとしても、ジャズミュージシャンの多くはアメリカ南部(テネシー州等々)の出身、つまり所謂黒人教会(南部プロテスタント系)の教会に馴染みがある。 彼ら黒人のジャズミュージシャンが、怒ったり驚いた時などに Gee!(ジー! …ジーザス=キリストの略) と叫ぶのは、その名残だ。かつて米国の黒人は、その大半(90%)が 南部に住んでいた。だが1915年から1970年代にかけてよりよい仕事を求めて北部に移住し、最終的に黒人の南部在住率は20%程度まで落ちた。この黒人の移動がジャズ誕生のきっかけとなった。このことを英語で The Great Migration (『かの大移動』)と呼ぶ。
ジャズとゴスペルの主な違いは、経済モデルの違いだ。ジャズは資本主義の商業主義から生まれてきた音楽だが、ゴスペルは全く逆で、教会のボランティア精神から生まれてきた音楽であり、本質的に非商業音楽だ。ゴスペルの演奏機材は大抵粗末で、聴者も貧しい地元の住民ばかりだ。南部の非商業音楽だったゴスペルに親しみのある黒人が、北部に移住することで、資本主義的な商業主義と出会うことによって生まれた音楽が、ジャズだと言える。
ゴスペルで使われる色々なリズムトリックは、ジャズの複雑なリズムトリックをすべて含んでいる。いわゆる「ジャズのリズム」とは、いわゆる「黒人のリズム」のことであり、いわゆる「黒人のリズム」というのは、いわゆる「ゴスペルのリズム」のことだ。
ゴスペルは現在でも発展を続けており、ジャズ・R&B・ファンク・モータウンなどで生まれた新しい音楽を取り込み、また新しい形に変化したものを生み出し、それがまた商業音楽に取り込まれる…というように、ゴスペルと商業音楽のどちらがオリジナルなのか、境がはっきりしなくなっている。だがジャズ/R&B/ファンク/モータウンなどの、黒人音楽の発展の母体となっているものがゴスペルであることは、異論の余地がない。
ゴスペルの普及と日本人の反応
かつてアメリカ国外に住んでいる者がゴスペルという非商業音楽を聴くことは不可能だった。だが2010年ごろから YouTubeが発達することにより、南部の地元リスナーがゴスペルをYouTubeにアップロードし始めた。これにより現在では日本にいながらして最新のゴスペルをチェックすることが可能になった。日本では、現代ゴスペルは、全く知られていない存在と言ってよい。かろうじて クリス・コールマンが知られている程度で、ほかのゴスペルミュージシャンは、その存在すら知られていない。
そこで僕は、ネット上で様々なゴスペルミュージシャンを日本語で紹介してみた。だが僕が往年のゴスペル・ミュージシャンをネットで紹介しても、ほとんど誰も興味を持たない。
恐らくだが、ゴスペルミュージシャンは、お世辞にも豪華な服を着ている…とはいいがたいからだろう。見窄らしい格好をしてどなり散らす下品なおじさん・おばさんというような印象しか持たれていない様に思う。その音楽を聞けば、日本人が大好きなジャズとその本質を共有していることが即座にわかる ─── わかる筈なのだが、ヴィジュアル的に訴えかけるものがないので、それが伝わらない。
つまり─── 音楽の内容は同じだが、ジャズには権威があり、ゴスペルには権威がない。
権威のないものに日本人は興味を持たない。
権威主義的な日本ジャズのいやらしさ
─── ユネスコの活動方針ではないですが、ユネスコは国際ジャズデーについて、虐げられている人に対する自由の象徴としてのジャズを、実施する根拠として挙げている様なところがあるようです。ですがテイラーさんの日本のジャズに関する本では、それについての話が出てきませんね。
出てきません。
─── では何についての話なんでしょうか。
実にいい質問ですね。
えーと僕が思うにですが、その質問に出てきたように「ジャズは全ての人の自由の象徴だ」という話それ自体がインチキだと僕は思っているのです。その供述は、アメリカの起源と強く結び付けられた考えで、そしてアメリカの権力に結び付けられていると思うんです。
僕は実際ジャズが大好きで大好きで仕方がないのですが、でもこうも思っています ─── もしポルトガルが世界の覇権を握っていたら、ファド が『世界のジャズ』になっていたのではないか…と。
確かに、世の中の大勢のアメリカ人は、僕らのアメリカの文化をみんなが欲しがっているからだ…と考えている。それはアメリカ人が口に出さずとも心の奥底で思っていることな訳ですが、僕はそういう考え方を支持しませんね。
(中略)多くの人は、ジャズを自由の象徴としてよりも、むしろ権力・強さ・能力の象徴として考えているんじゃないですかね。
【どうして日本はジャズを愛するようになったか】(アジア歴史学者・テイラー・アトキンスのインタービュー)
これは、『米公共ラジオ(NPR)』の記事からの引用だ。この記事は、英語で「日本ジャズ」と検索するとトップに表示される。米国人が日本のジャズをどうみているか、垣間見えてくる記事ではないか、と思う。
僕は、どうしても日本人ジャズマンの音楽の聴き方が好きになれない。僕は、中国南部〜ラオ〜タイの奥地で方言を勉強しながら、いろいろな民族音楽を生で聞いてきたし、それらはどれも『本物の音楽』だった。それには必ず、地元のミュージシャンがおり、地元のリスナがおり、地元の演奏場所がある。 そこには、何の嘘もない。 その後に聴くようになったゴスペルも同じだ。地元の牧師(ミュージシャン)がおり、地元の信徒(リスナ)がおり、地元の教会があってそこで演奏する。そこには何の嘘もない。
だが 日本のジャズ関係者を見ていると、『音楽』ではない何かの存在がそこに見え隠れしている。人々は純粋に音楽を聴くだけでなく、そこに『強さ』『権力』などの音楽ではない要素を求めており、例え、どんなにその音楽が素晴らしくとも、『強さ』『権力』がない限り、それを認めない。
僕は、それがどうしても、浅ましく見えてしまう。
日本ジャズの不完全な権威主義
更に踏み込んで言えば、僕は権威主義も僕は否定しない。もしも権威主義を目指すなら、もっと徹底的に権威主義を目指すべきだ。マイルスの真似をするなら、マイルスの真似を完璧にする。ウェスの真似をするなら完璧に模倣する。コルトレーンの真似をするなら完璧なまでにコルトレーンの真似をする。それもまた、ひとつの潔さではないか。
だが日本人ジャズマンの演奏は、誰もがみな独特な日本語訛りを残しており、日本語としても聞き苦しく、英語としてみても聞き苦しい不格好な発音に終止している。この日本人ジャズマンが持っている日本語訛りについては言語と音楽『ジャズと揉み手』で詳しく説明した。
もしも本当に権威的なジャズを目指すなら、もっと徹底的に模倣すべきだ。ジャズは、演奏者の個性が激しくぶつかり合う音楽でなければいけない。ジャズはアメリカの『国技』だ。だが日本人のジャズの演奏には、衝突がない。日本の国技『相撲』が持っているような激しい衝突すらもっていない。
ジャズはアメリカの文化ではあるが、人間同士の個性の衝突を芸術まで高めたという意味からみると、実は日本の武道とも類似点がある。
『ジャズの武道性 〜 ジャズと権力3』に続く。
更新記録:
文言『ジャズと権力』をタイトル後に移動した(Fri, 16 Aug 2019 12:51:25 +0900)
関連記事を追加した。(Fri, 16 Aug 2019 13:04:07 +0900) 表題を『縦乗りと横乗りの本質 〜 ジャズと権力2』から 『ジャズと権力2…縦乗りと横乗りの本質 』に変更した。(Sun, 08 May 2022 02:14:27 +0900) 公開時間を Sep 10, 2018 9:06 PM から Sep 10, 2018 9:05 PM へ変更した。 (Sun, 08 May 2022 03:13:26 +0900)