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2012年11月15日木曜日

空気が読めない人とは (oka01-xnmxehsoycsbbmza)

ラオ人(ラオス共和国の半数程度を占める民族)は、KYだろうか。KYとは、インターネット上のスラングで、空気読め=場の雰囲気に気が付かず自己中心的な行動をとりがちな人の事だ。 日本人は、ラオ人と出会うと「なんとKYな人間なのだ」という印象を持つ事が多いらしい。何故だろうか。



ここで「らしい」と書いたのは、筆者は全く逆の印象を持っているからだ。筆者は、ラオ人(ラオス人)を見て、天才空気読み民族だと感じる。お年寄りから子供まで、常に他人の顔色を横目で見て観察しており、相手が期待している事を読み、期待通りの事をしたり期待を裏切ることをしたりと自由自在、電光石火のスピードで機転の効いた反応を返す彼らを見て、心底、自分が太刀打ち出来る敵ではないという事を思い知らされる。まるで民族全員が優れたジャズミュージシャンの様だ。

日本人がラオ人を見てKYだ、という風に断定する現象は、筆者にとって興味深い。筆者は、空気が読めない人間ではない。 筆者は、場の空気を読んでその場の雰囲気を濁さぬように行動する事を好む人間だ。 筆者は、ラオ人の空気も読めるし、日本人の空気も同様にして読める。筆者が、日本人がラオ人をKYと断定する現象について、両方の空気を分析した結果、思うことは多い。



そもそも空気を読む、という事はどういう事だろうか。空気を読むとは、ある特定の他者について、その人物が感じることや考えることについて、その人物がはっきりと言語として表現していないことを、本人の仕草・表情・周辺の状況などから推察する事だ。 人によっては「推察した上で、前もって要求を満たす」という行為も含めて「空気を読む」と言う人も多いかも知れないが、筆者は、要求を満たす事を「空気読み」という作業の一部として見做す事に否定的だ。 何故なら、空気を読んで相手の要求を知ったとしても、相手の要求を満たす件について合意するかどうかは、別問題だからだ。

空気を読む能力は、観察能力に大きく依存した能力だ。 下を向いてうつむき加減で話しをする日本人は、大抵の場合相手の目を見ないで話す。よって相手をほとんど観察していない場合が多い。 一方、ラオ人は相手の目を常に見ながら話をする。目だけでなく、仕草や周囲の状況などを常に見ている。 見ていないように見えるときでも、大抵見ていないふりをしているだけで、横目を使って観察している。

日本人は、あまり横目を使う習慣がない。横目を使わない日本人な我々も、ラオやタイに滞在中に人ごみの中などで「横目」を試してみると、色々な事に気付くものだ。 自分の顔を、さも周囲を見ていないようにまっすぐ前に向けながら、横目を使ってキョロキョロと道ゆく人の顔を観察してみる。 すると、実はタイの人も横目を使ってキョロキョロしている事に気付く。そして、たまに横目で目が合うことがある。まっすぐ顔を向けると、サッと顔を背けてしまうのだが、横目だと目が合う。隠れてみているからだ。 隠れて観察する。これがタイ人・ラオ人の空気読みパワーの原動力だ。

筆者は、日本人には「いわゆる空気が読めない」人が多いかも知れない。 だが筆者は、そんな「いわゆる空気が読めない」人が嫌いではない。むしろ好きだ。筆者は、職業プログラマだが、一緒に仕事をする仲間として、空気を気にしてばかりいる人間は避ける。むしろ空気を読まずに自分の思った方向に直行する様なタイプのプログラマを敢えて選ぶ事が多い。

往々にして彼ら「いわゆる空気が読めない」人間は、本当の意味で「空気が読めない」人間ではない事が多い。観察力が高い彼らは、往々にして相手が何を考えているのか既に気付いている場合が多い。彼らが相手の意向に沿わない行動を取るのは、決して相手の意向に気付いていないからではない。それは、彼らは単に相手の意見に同意していないからだ。彼ら「いわゆる空気が読めない」人間は、往々にして 「彼はこう思っているみたいだけど、僕はそう思わないから、そういうやり方はしない。」というはっきりとした主張を持っている為に、相手の趣向に沿わない行動を取っているだけで、空気を読む能力がない訳では決して無い。

「空気を読む」という言葉の不幸なところは「空気を読む」という言葉が往々にして、他者に対して「お前!空気を読めよ!」という文脈で、他者に自分の意見を強制する暴力として使われていることではないだろうか。 つまり「お前!空気読めよ!」と言っている人間こそが周囲の状況に対する認識が狂っている人間だという場合が多くないか。

さてラオ人は、日本人が言う様にKYだろうか。筆者は、そう思わない。何故か。それは上記の様に、日本人が他国の民族をKYだと見做す時、それは往々にして自分自身がKYであるにも関わらず、自分自身が持つKY性を認識出来ずに、その自分自身の欠点を他者に投影して、自分自身の欠点が、何故か他者の欠点として認識されている場合がほとんどだからだ。

日本人は、他者の文化に対する観察を怠った結果、日本人の他者の文化に対する無理解を棚に上げ、相手に対する自分の意見の押し付けとして「お前はKYだ!」という暴言を吐いているだけではないのか。 和の心を重んずる日本人としてあるまじき暴挙である。

いわゆる「空気が読めない」と言う場合、いくつかのタイプがある。

1. 相手を観察して気付いているが、相手の要求を受け入れていない場合
2. 相手を観察しているが、相手に対する知識が不足している為に理解出来無い場合
3. 相手を観察していないので、相手が何を考えているかわからない場合

 3には更に2つのケースが考えられる。

 3.1 相手を観察する習慣がないが、意識して観察しようとすれば出来る場合
 3.2 相手を観察する習慣がなく、観察しようとする意思も興味もない場合

筆者は思うのだが、他人に「空気読めよ!」と叫んで威圧したがる人は、往々にして最後の3.2の場合ではないだろうか。空気を読む能力を持つ人は、決して他人に対して「空気を読め!」などと暴言を吐いたりする事はない。先ず自分が相手の空気を読むことが肝要だと知っているからだ。

「お前は何で自分のことしか考えていないのだ!」と怒鳴る人間が、一番自分のことしか考えていないということは、実にありがちなことだ。 彼の他人についていう愚痴は、そのまま彼自身の事だ。 つまり「空気読めよ!」と叫ぶ人が、一番空気が読めない人間という事ではないか。

本来「空気読め」と絶叫する人の方が、むしろ協調性が無い「空気嫁」だ。だが本当の意味で空気が読める人は、その空気嫁が言う詭弁を尊重して、自分たちを悪いということにしてしまう。だから、周囲が協調性のない「空気嫁」に振り回される結果につながり、全体が萎縮してしその内部の人の誰も言いたいことが言えなくなってしまうというところがないか。これは日本の不幸だ。



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参照: https://twitter.com/ats4u/status/269000279519817728

更新履歴:
・結論を追加した。(Thu, 15 Nov 2012 16:11:28 +0700)
・リンク切れを修正した。(Sat, 13 Feb 2016 15:54:58 +0700)


著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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