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2012年4月27日金曜日

気持ちと論理の交差点 (oka01-acxtvjveecuyajhf)

日頃、人と付き合っていれば、人と意見が食い違うことはよくあることだ。意見が食い違った時、自分の意見を強く主張し過ぎると「それは独善的だ」などと言われる事もある。だが明らかに相手が間違っていたら…? 果たして「独善的」とは一体何なのであろうか。


僕は、人から独善と言われる事がしばしばあるのだが、この「独善」という言葉は非常に曖昧な言葉である、と僕は思う。僕は自ら他人を評して独善という言葉を使う事はない。果たして、独善とはどういう意味なのだろうか。

ここでいう独善とは、他人の考え方を受け入れず、自分の考え方によってのみ行動する事を指して使う表現ではないだろうか。例えば独善とはこういう行動ではないか。

「社長!お客さんが、リンゴ牛乳はおいしくないと言っています! 元通りイチゴ牛乳のデザートにしてくれと、大騒ぎですよ!」「いや、これで良いのだ、平野くん。リンゴ牛乳の方がおいしいから。」「でも社長!お客さん怒ってますよ。」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」 

この様に、自分の好みを絶対視し、それを他人に押し付け、そこに他人が異論を挟むことを許さず、他人の意見を一切聞くつもりがない状態を、独善と呼ぶ。

だが果たしてここでいうところの「独善」は本当に悪なのだろうか。独善が悪いことなのかを結論づける前に、独善の定義についてもう少し掘り下げてみたいと思う。先ほどの独善の例の内容を色々と入れ替えることで、数学的に起こり得る全てのパターンを予想して列挙してみよう。

例1)
「社長!この資料を見て下さい! 1+1は5ではありませんよ! 1+1は2じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に5だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

例2)
「社長!この資料を見て下さい! 1+1は2ではありませんよ! 1+1は100じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に2だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

例1と例2を見た時、それぞれ、平野くんと社長のどちらが独善的と感じるだろうか。 誰もが知っての通り1+1は2である。これはひとつの絶対的な事実であり、人の好みや意見の持ち方に影響を受けず、絶対に変わらない事実である。例1では、正しいことを言っているのは平野くんの方であるにも関わらず、社長は「独善的」に1+1を5と決めつけている。 一方、例2では正しいことを言っているのは社長であり、平野くんの間違った主張を退けている。

更に考えてみよう。

例1・ケース1)
「社長!この資料を見て下さい! 1+1は5ではありませんよ! 1+1は2じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に5だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

「社長!食い下がる様ですが、僕の意見を聞いて下さい! この"+”という記号は、『加える』という意味なのです。 見て下さい。田中くんがリンゴが1つ持って来ました。そこに佐藤くんがやって来てリンゴをひとつ加えました。田中くんと佐藤くんが持っているリンゴはあわせて何個でしょう、社長!」「それは2個に決まっとるだろう。平野くん」「それなんです! この"+”というのは、そういう意味なのです。」「...ほほぅ…それは知らんかった。でかした。わしは大変な過ちを犯していた様じゃ。」


例1・ケース2)

「社長!この資料を見て下さい! 1+1は5ではありませんよ! 1+1は2じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に5だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

「社長!食い下がる様ですが、僕の話を聞いて下さい! この"+”という記号は、加えるという意味なのです。 見て下さい。田中くんがリンゴが1つ持って来ました。そこに佐藤くんがやって来てリンゴをひとつ加えました。田中くんと佐藤くんが持っているリンゴはあわせて何個でしょう。社長。」「それは2個に決まっとるだろう。平野くん」「それなんです! この"+”というのは、そういう意味なのです。」「...えぇい黙れ黙れ!ダメなものはダメなんじゃ!1+1は何が何でも5なのじゃ!下がれ下がれ!者共コヤツをひっとらえぃ!」「は!」


例1・ケース1)では、社長は結末で自分の非を認めている。 例1・ケース2)では、間違いが明らかになったにも関わらず、自分の非を認めなかった。

更に考察を進めてみよう。



例2・ケース1)

「社長!この資料を見て下さい! 1+1は2ではありませんよ! 1+1は100じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に2だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

「社長!食い下がる様ですが、僕の意見を聞いて下さい! この"+”という記号は、『加える』という意味なのです。 見て下さい。田中くんがリンゴが1つ持って来ました。そこに佐藤くんがやって来てリンゴをひとつ加えました。田中くんと佐藤くんが持っているリンゴはあわせて何個でしょう、社長!」「それは2個に決まっとるだろう。平野くん」「そうではないんです! 初心者の人はよくそういう間違いをするのですが、本当は100なのです! この"+”というのは、そういう意味なのです。」「...ほほぅ?…それは知らんかった。でかした。わしは大変な過ちを犯していた様じゃな。」



例2・ケース2)

「社長!この資料を見て下さい! 1+1は2ではありませんよ! 1+1は100じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に2だと決まっているだろう。」「社長!それは間違っていますよ!」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」

「社長!食い下がる様ですが、僕の意見を聞いて下さい! この"+”という記号は、『加える』という意味なのです。 見て下さい。田中くんがリンゴが1つ持って来ました。そこに佐藤くんがやって来てリンゴをひとつ加えました。田中くんと佐藤くんが持っているリンゴはあわせて何個でしょう、社長!」「それは2個に決まっとるだろう。平野くん」「そうではないんです! 初心者の人はよくそういう間違いをするのですが、本当は100なのです! この"+”というのは、そういう意味なのです。」「...えぇい黙れ黙れ!ダメなものはダメじゃ!1+1は何が何でも2なのじゃ!下がれ下がれ!者共コヤツをひっとらえぃ!」「は!」


例2・ケース1)では、間違っているのは平野くんだが、社長が非を認めた。 一方 例2・ケース2) では、間違っているのは平野くんであり、社長は間違った意見は飽くまでも間違った意見として、断固拒否した。


上記の4つの例をまとめると、次のようになる。

平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …1
平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …2
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …3
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …4

単純だが、世の中の「言った言わないのすったもんだ」は、全てこの数学的なパターンの中に含まれているのではないだろうか。

このうちのどれが「独善」であり、どれが「独善」でないのだろうか。僕は、この判断基準に、人間の非常に根源的な種類の分岐が表出するのではないか、と感じる。人間関係よりも絶対的な事実を重視する人も居る。絶対的な事実よりも人間関係を重視する人も居る。

更に考察を進めてみよう。

人間関係よりも絶対的な事実を重視する人に於ける独善的な人の定義:

平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …1
    → 人間出来てる (間違いは素直に認めた社長はあっぱれ)
平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …2
    → 独善的 (間違いを認めない社長は、社長失格だね。)
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …3
    → 独善的 (間違いは間違いとして、きちんと分別をつけるべき)
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …4
    → 人間出来てる (間違いを間違いとして断罪した社長の勇気に乾杯。)


絶対的な事実よりも人間関係を重視する人に於ける独善的な人の定義:

平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …1
    → 人間出来てる (間違いを素直に認めた社長はあっぱれ)
平野くん(正)・社長(誤) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …2
    → 独善的 (間違いを認めない社長は、社長失格だね)
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を受け入れる。 …3
    → 人間出来てる (部下の間違いをおおらかに受け止める社長はあっぱれ。)
平野くん(誤)・社長(正) ・ 社長が平野くんの意見を突っぱねる。 …4
    → 独善的 (部下の間違いを殊更に取り正す社長の間口は狭い。)


これも表にしてみよう。


人間関係よりも絶対的な事実を重視する人に於ける独善的な人の定義:
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる人間出来てる 間違いは素直に認めた社長はあっぱれ
突っぱねる独善的 間違いを認めない社長は、社長失格だね。
受け入れる独善的 間違いは間違いとして、きちんと分別をつけるべき
突っぱねる人間出来てる 間違いを間違いとして断罪した社長の勇気に乾杯。
絶対的な事実よりも人間関係を重視する人に於ける独善的な人の定義:
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる人間出来てる 間違いを素直に認めた社長はあっぱれ
突っぱねる独善的 間違いを認めない社長は、社長失格だね
受け入れる人間出来てる 部下の間違いをおおらかに受け止める社長はあっぱれ。
突っぱねる独善的 部下の間違いを殊更に取り正す社長の間口は狭い。


ここまでを読んで、読者の方々はどうお考えになられたであろうか。



もちろんこの解答は、問題の質にもよる筈である。その事について考えてみよう。一番最初の例に戻って考えてみる。

「社長!お客さんが、リンゴ牛乳はおいしくないと言っています! 元通りイチゴ牛乳のデザートにしてくれと、大騒ぎですよ!」「いや、これで良いのだ、平野くん。リンゴ牛乳の方がおいしいから。」「でも社長!お客さん怒ってますよ。」「うるさいね。そんなにしつこく言うなら、他の店に行ってもらっても、構わないんだがね。」
... この例は、好みの問題である。好みという物は人によって違って当たり前だ。

「社長!この資料を見て下さい! 1+1は2ではありませんよ! 1+1は100じゃないですか! 間違っていますよ!」「何を言っとるんだね、平野くん。1+1は、絶対に2だと決まっているだろう。」
... この例は、絶対に結果が変化しない問題の例だ。

「社長!この資料を見て下さいジョージリンチよりもスティーブヴァイの方が優れたギタリストだと言っています!間違っていますよ!」
... この例は、往々にして好みの問題である。

「社長!この資料を見て下さい! 巨人よりも阪神の方が優れたチームだと言っています!これは間違っていますよ!」
... この例は、微妙だが往々にして好みの問題である。

「ソーシャルネットミクシに足あとは必要ない。そんなものは廃止してしまえ。」「社長!利用者が大ブーイングです!」「構わない。大きな声に惑わされない様に経営することが大切だ。」
... この例は、明らかに好みの問題だ。どんなに不合理で見苦しい機能だろうが、それを使いたいと思うのは、利用者の自由である。

「(アンプ屋で)このセラミックコンデンサーよりもペーパーコンデンサーの方が音が良い」
... この例は、完全に好みの問題である。

「(あるアンプ工房で)セラミックコンデンサーよりもペーパーコンデンサーの方が音が良い」
... この例は、一瞬好みの問題であるように見えるが、その良い悪いが、アンプ工房の職人たちが考えるこだわりの定義によって決まり、工房の文化として定着している時に限り、それは結果が変化しない問題だ。

「2008年に於いて、巨人よりも阪神の方が強いチームだ。」
... ある時点に着目すると、チームの強弱は、トーナメント戦などを行うことによって、はっきりとした結果によって比較できる「絶対に変化しない問題」だ。



この様に考えてみると、世の中の問題には、常に固定的な結論が出るわけではない問題と、状況によらず常に固定的に同じ結論が出る問題とある。この要素をパターンに含めて表を作ってみる。

人間関係よりも絶対的な事実を重視する人・固定的な結論を持つ問題
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる

突っぱねる

受け入れる

突っぱねる

絶対的な事実よりも人間関係を重視する人・流動的な結論を持つ問題
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる

突っぱねる

受け入れる

突っぱねる

人間関係よりも絶対的な事実を重視する人・固定的な結論を持つ問題
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる

突っぱねる

受け入れる

突っぱねる

絶対的な事実よりも人間関係を重視する人・流動的な結論を持つ問題
平野くん 社長 社長・平野くんの意見を...判定コメント
受け入れる

突っぱねる

受け入れる

突っぱねる


全部で16パターンのマトリックスが出来上がった。この16パターンの質問に対して独善かどうかを回答し、色々な人で比べたら、独善の定義がはっきりする筈である。だが、しかし...

人はしばしば、絶対に変化しない結論を持ったものに対して、柔軟に結論を変化させたりするものではないか。 また、柔軟に変化する結論を持ったものに、強情に結論を決めつけたりもするものではないだろうか。その結果、期待した結果が得られることもあり、期待したものとはてんでかけ離れた結果が得られることもある。

それは、不完全な人間と不完全な人間の間で起こる事である以上、仕方のないことではないだろうか。

論理的に見て「独善」という批判はさほど合理性のある考え方でない。ここで2者の人間の中で起こりうる現象は、4パターンある。彼が1+1=2と同じ様な合理性を見抜いている事もある。彼が1+1=3と同じ様な勘違いをしていることもある。あるいは自分が1+1=3と同じ様な勘違いをしていることもある。自分が1+1と同じ様な事実を見抜いている事もある。今正に起こっている現象がこの4つの中でどれなのか、どの様に判定すれば良いのだろうか。それは論理の力を借りる以外にない。その人の価値観を問うている訳ではないのである。



論理を無視して相手の気持ちを汲み取る事も可能だ。相手の間違いを優しく包み込んで、追求しない包容力を持っていてもいい。それは論理とは別問題の話だ。 だが、それが「お金が1000円ありました、1日100円使いました。あと何日生活出来るでしょう。」といった様な切羽詰まった話であれば、大抵の場合、気持ちを汲み取っているゆとりはないのも、致し方のないことだ。 あるいは、彼が1+1=3と主張している時、1+1は2だと反論したら、彼が「わかった。そうだな。お前が正しいよ。俺が間違っていたよ。」と口では言いつつ、実は解るつもりはからっきしない、のれんに腕押しではストレスがたまるだろう。

万が一、自分が気持ちを汲み取ったある人と自分が気持ちを汲み取ったある人が対立してしまったら、気持ちを汲み取った自分は、どうすればいいのだろうか。

そういう複雑さの中で、人は一貫したポリシーを定義する事が可能なのだろうか。

西洋人は、世の中に確固としたひとつの抽象的な事実が存在すると考え、それは人間の外に存在すると考える。だからこそ、それを討論によってあぶり出そうという習慣を持っている。討論と人格批判は無関係であると考え、歯に衣着せぬはっきりした物言いをするものだ。 だが東洋人は往々にして、事実は個人の中に存在すると考える傾向があるようだ。だからこそ、事実をはっきり指摘する討論のような行為は好まれず、往々にして事実はうやむやにしておくほうが良いと考える。

そんな東洋人も、1+1が人の考え方によって3であったり5であったりするとさすがに困るだろう。100円で30円のガムを買ったら70円のおつりが欲しい。これが50円だったり30円だったりすると困るだろう。だが多くの東洋人は、実際にこれを人と場合によって90円や10円に変えるのである。

日本人の特殊な所は、東洋人的な考え方を捨て、東洋人でありながら抽象的な事実が個人の外に存在すると考える所だ。人情や捨て、飽くまでも事実に基づき責任を持って行動する日本人は、世界的な経済的成功を収めて来た。つまり「考え方は人それぞれ」という見解は、しばしば「日本的」と見られがちであるにも関わらず、実は非日本人的な考え方だ。




…さて、色々考えてみたが、僕が決して独善ではないのだという証明を得るには至らなかった。僕が考えていることには色々な理由があるのだが、それはなかなか理解が困難なこともある。もちろん僕だって説明することは可能なのだが、誰もがそんな込み入った説明に興味を持つとは限らない。もちろん誰もが興味深いと思える様に説明する努力も欠かさないが。僕が実際に独善かどうかはわからないが、少なくとも独善と罵られても黙って笑顔で頷く包容力が必要だという事は、どうも間違いがなさそうだ。