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2012年4月21日土曜日

空気を読む日本人・空気を読まない日本人 (oka01-owmorhyjovqpifas)

日本人は単一民族であるとよく言われるが、果たして本当に単一民族なのだろうか。 筆者は、タイでタイに来る日本人を観察する中で、とても同じ日本人とは思えないほどの違いを感じている。その違いとは一体何なのか。
が住んでいるタイ東北地方の僻地にあるウドンタニー県は、日本人が殆ど居ない。殆ど居ないのだが、珍し物好きの日本人がしばしば旅行として訪れる。 旅行とはいえ長期間滞在していくことが多いようだ。ウドンタニーは日本人にとって信じられない程生活費が安い。多少贅沢をしても1ヶ月の生活費は2〜3万円である。近年都市化が進んだウドンタニーの生活は思ったよりも不便ではない。都市化の割に物価の上昇はさほどでもない。またウドンタニーには、金にも女にも縁がなかった日本人男性に人気の有名な置屋街がある、ということも人気の要因の一つだろう。彼らはしばしばウドンタニーを気に入って、2〜3ヶ月ブラブラしてから帰る。

僕はそういう日本人と全く疎遠である。何故かというと、彼らと一緒に居るとかなり高い確率で、つまらない無用なトラブルに巻き込まれるからだ。話しかけられても出来るだけ無視するようにしている。 とはいえ、僕も日本人である。日本人同士助けあいではないか、と思っている。 だが、日本人にも色々なタイプが居るのも事実だ。

殊にウドンタニーという街は、何か不思議なサーチライトの様な効果を持っている様だ。ウドンタニーの人々の朴訥な人柄が、日本に居ると見えない日本人の内面を、サーチライトに照らされた脱獄犯の様に、はっきりと浮き上がらせてしまうのである。 朴訥なウドンタニーの人々は、彼らと触れ合う人が隠し持っている下心や虚栄心を、すっかり浮かび上がらせてしまう。そして、本人の真の姿が本人の目前に忽然と姿を表す。

これはまるで、鏡を見たことがない人が初めて鏡を見た時の様な状態である。そして、鏡を見たことがない人が初めて鏡を見た時と同じ様に、混乱を引き起こす。醜悪な自分の姿をまっすぐ受け入れることが出来る強い精神を持った人ばかりではない。彼らが体験する混乱は小さくない。

自分の真の姿を見て混乱した人達が取る行動の典型というものがある。ある人は、自分の姿を見て激怒する。ある人は、自分の姿を見て、嫌悪し攻撃し始める。鏡の存在自体が間違っていると考えて、鏡を壊そうとする人。 鏡を見せる人が悪いと考えて、その時偶然一緒に居た人を責め始める人。鏡の映り具合に難癖をつける人。ひたすら鏡の存在を否認し続ける人。それが自分の姿と気付かず自分の姿に恋をする人。鏡に映る、自分の弱さ、認めがたい劣等感・優越感・下心・虚栄心。それらを見て、叱責したり、許しを乞うたり、暴力を振るったり、泣き叫んだりする。

ウドンタニーに長期滞在する日本人の殆どは、そんな「鏡のある世界」未経験の人達である。彼らは常に混乱している。混乱した彼らと一緒に居るということは、時として危険だ。誰しも完全ではない。 そういう弱い気持ちを持った人を責めることは出来無い。一方、そういう弱い気持ちを持った人と一緒に居ると、往々にして巻き添えを喰らい、致命的なダメージを貰ってしまうことも確かなのだ。

さて、この様な「鏡の存在性」は、タイ東北のウドンタニー県に限ったことではない。視点を変えてみると、この鏡の正体は、多言語環境である。日本人しかいない日本に住む日本人は、日本という文化を比べる対象を持たない。つまり日本人は、自分の姿を見たことがない。日本はつまり鏡がない世界である。一方沢山の民族が混ざり合って住んでおり、同じ地域で複数の言語が話されている「多言語環境」は、自分の文化を比較する対象を沢山持っている。つまり鏡のある世界の事である。

僕はこうして日本という「鏡のない世界」から出て「鏡のある世界」海外に居る。僕は、海外という白日の元で何人かの日本人を見てきたが、そんななかで僕が気付いた事がある。それは、日本人は決して単一民族でないという事だ。だが大陸のような多民族でもない。いわば多民族が高圧で圧縮され高温で溶け合っている民族の融合炉の様だ。

鏡のない世界に住む日本人にとって、この事を理解することはとても困難だ。今こうして語っている僕自身、かつて日本国内に住んでいる時には全く理解出来なかった程であり、経験が無ければ決してたどり着かなかった結論だと断言する。この事を理解する為には、鏡のある海外に住み、鏡を見る恐怖を乗り越え、鏡を見る驚きも色褪せた頃、過去を思い出して懐かしむように、改めて冷静に、鏡を見て衝撃を受ける日本人を観察する必要があるのではないか。

何故僕が、このことをこれだけ熱心に考えるのかには、理由がある。日本人のコミュニケーションは破綻に具体的な打開策を見つけ出したいからだ。 日本人のコミュニケーションは破綻している。日本人なら、誰もがその事に気がついているのではないか。… 否、コミュニケーションが破綻せずに済んでいる人も居る。 他方、コミュニケーションが破綻している人は着々と増え続けても居る。何がどう破綻しているのか、何が原因で破綻するのか、破綻を防ぐ為にはどうすればよいのか、日本人自体理解できていない。



僕はこのコミュニケーションの破綻は、この日本の多民族性が原因ではないか、と直感している。日本のコミュニケーション破綻は、僕の論によると「空気を読む人」と「空気を読まない人」の終わりのない戦争である。この二者は決して理解し合わない。いや、かつては理解し合えなかった。 筆者おかあつは、日本のこの「空気読む人」と「空気読まない人」の架け橋となり、終わりなき戦争に終止符を打ちたいのである。


何故僕がこう思うに至ったのか。それは恐らく見れば誰もが納得する様な実に簡単な事実である。だが、それを肉眼で見て理解する為には、残念ながら様々な学術的な知識や、技術的な訓練が必要ではないかと思う。

だが僕はここで試みとして、僕が多言語環境で目にした現象を、敢えて日本語だけで説明してみたい。 外国文化に全く明るくない人───子供・お年寄り───にも解かるように説明することが出来れば、説明自体が、日本人の真の姿を浮かび上がらせる鏡の様な役割をするのではないだろうか。成功するかどうかは、わからない。だが敢えて書いてみよう。


※ 以下で述べるストーリーは、おかあつが出会った人をモデルにした完全なフィクションである事をお断りする。



1)

がタイ東北イサーン地方の僻地ウドンタニー県で出会った日本人のオッサン・Oさんは関西人だ。バイク乗りで日本では大きなバイクに乗っているらしい。洪水の中バンコクからウドンタニーまで125ccカブを運転して来たという根性派。ノリの良い関西弁が心地よいこのオッサンといつのまにか仲良くなった。折しも僕が丁度ボロバイクを購入したばかりの頃で、オッサンの渋い地味チューンが行き届いたカブと、僕のボロバイクで、ウドン市内のあちこちを走りまわった。
   
ある日行きつけのゲストハウスでブラブラしていたらおっさんがやってきた。「やァ!おかあつさん!元気ですか?」「あぁ先日はどうもどうも…おやバイクに乗って何してらっしゃるんですか?」「いやねぇボク今、アパート探してるんですよ。」「あれOさんタイ語話せたんですか?」「話せません。だけどほら『指差し会話帳』ていうやつありますやろ? ああいうやつなんかを使ってまぁなんとか会話するわけですわ。」「へー、そうなんですか。」「でもねぇまぁ何かたまに具体的な話になると自信なくてね。おかあつさん、今忙しいですか? これから行くアパートで通訳したってくださいよ。」「あぁいいですよ。」…「前もね一度行ったんですが、おばはん英語もへたくそやし、まぁ大体意味わかったんですが、でもおかあつさんにちゃんと通訳してもろたらええやろおもて。」「そうですか。」
   
(アパート到着)

「ここがアパートですわ。いやぁ!おばはん、こないだはどーも。」「(おばはん・ラオ語で)あーこないだの日本人また来たわ。」「(おかあつ・ラオ語で)どうも今日は。僕は日本人でして、この日本人のオッサンに通訳頼まれて一緒に来ました。」「(おばはん・ラオ語で)あぁそうですか。でもこないだもまぁひと通り説明したんですよ。」「(おかあつ・ラオ語)オッサンもなんかそんなこと言ってました。でも何か自信ないから通訳してくれいうんで、一応付いて来ました。」「(おばはん)はい、この部屋が3500バーツの部屋ね。契約は3ヶ月からね。」「(おかあつ・日本語)あぁOさん、この部屋3500バーツで、契約は3ヶ月からですって。」「(おっさん)あぁそーですか。あぁこないだそんなことよーゆうてはりましたわ。」「あれOさん、なんで知ってるんですか?」「いや、なんや指さしてワーワー言うてるから、何かそうゆうことかなおもて。」…「(おばはん・ラオ語)で、この階の部屋はみんなエアコン無しだから2500バーツ。」「(おかあつ・日本語)Oさん、この階はエアコン無しだから2500バーツですって。」「あぁ知ってますわ。」「あれ何で知ってるんですか?」「だって、なんやエアコン指さしてワーワーいうてるから、なんかそないなことやろな思ってましたわ。」
   
「(おかあつ・ラオ語)さて、今日はどうもありがとうございました。」「(おばはん・ラオ語)あぁ気に入ったら来てちょうだい。」「(おっさん日本語)ほな、はら減ったから、向こうのレストランいきましょか。あそこなかなかうまいから、僕がおごったりますわ。」「(おばはん・ラオ語)あぁこれから食事に行くなら、このアパートの客だって言えば割引になるよ。」「(おかあつ・ラオ語)あれ、何でオッサンの言ったことわかったんですか?」「(おばはん・ラオ語)あぁだって指さしてワーワー言うてるから、食事行く言うてるのかなおもて。」
   

「(おばはん・ラオ語)いや実は裏にね、日本人とラオ人のあいのこが居るのよ。」「(おかあつ・ラオ語)へー!そうなんですか!何語話すんですか?」「(おばはん・ラオ語)タイ語とラオ語と、日本語も少し話せるのよ!」「(おかあつ・ラオ語)へー!凄いですね! (日本語)Oさん、ここの裏に日本人とラオ人のあいのこの子が住んでるんですって!」 「あー知ってますよ。 今日はおらんねん。あいつ。」「何で知ってるんですか?」「いやこないだ来た時もおばはんがそんなこと言うとったから。 そないなことより、おばはん、この3500バーツの部屋、3000バーツに負けたってや。」「(おかあつ無言)えーと」「(おばはん・ラオ語)あ〜 ダメダメ、もうこれでギリギリなんだから、3500バーツ以上負からん。このオッサンに説明したってや。」「(おかあつ無言)えーと」「(オッサン関西弁)は? なんて? ダメなの? そないなこといわんて、たのんますわ。」「(おかあつ無言)えーと」「(オバハン・ラオ語)ダメダメ!」「(おかあつ無言)えーと」「(オッサン関西弁)・もう頼む!」 … 「(おかあつ・心の声) いい加減にしろ! おまぇら!通訳必要ないやろ!」

この様な感じで、片方猛烈な勢いで関西弁を話すわ、他方猛烈な勢いでラオ語を話すわで、お互い何も理解出来ない筈なのに、どういうめぐり合わせか、意思疎通に成功して会話が進む。このおっさんに限らず、そういう理屈を超えてコミュニケーションを遂行する関西人は非常に多い。そういうコミュニケーション力が高い日本人を何度も目撃した。



2)

が出会ったPさんは、関東人。僕が入り浸っているゲストハウスに居る時に出会った。

「あぁおかあつさん、元気?」「やぁ久しぶり。何やってんの?」「いや実はアパート探ししてんだけど。まぁ俺、タイ語話せるから契約とかは問題ないんだけど、まぁ散歩がてら一緒に来てくんない?」「あぁいいよ。別にヒマだし。」

(アパート到着)

「で、このアパートなんだけど。この間も来たんだけど、ここにしようかなと思って。」「あぁそう。家賃も安いしいいんじゃない?」「でも、何か1階の人あまり信用できない気がするんだよね。」「そう?僕あのおばさんと喋ったことあるよ。結構気のいい人だけどね。酒おごってくれたりして。」「だって、あの人すごい見え透いたウソ付くんだもの。この間も◯◯ちゃん帰ってきたか聞いたら、帰ってないとか言って。俺実は◯◯ちゃんが帰ってくるの見かけたんだけど、いわねーの。」「Pさんがしつこくしてたから、合わせたくなかったんじゃないの? 確かあの子おばさんの姪じゃなかったっけ? おばさん、そんなこと言ってなかったっけか。」「うーん、それはそうかも知れないけど、ウソ言うのはよくないよね。」
   
Pさん「…まぁそれはさておき、散歩行かない?」 おかあつ「今から?(PM11:00位)ウドンって夜散歩すると危ないからバイクで行こうよ。」「いや、でも僕にとって散歩って凄く大切な習慣で。」「でも夜中にぶらぶらしていると、怪しまれるから。」「じゃぁ僕独りで行くから、おかあつさん独りでバイクで行ってよ。」 そういう事で、バイクで走って居たら、軒先のおばさんが、先行のPさんに話しかけて居るのを発見。「(道のおばさん・ラオ語)どこのどいつだ?見かけない顔がブラブラしてるな。」「(おかあつ・ラオ語)すみません、すみません、実は向こうの飲み屋まで散歩したいってツレがゆうんで、これから連れていくんです。スンマヘン。」「(おばさんラオ語)あぁそうなの。夜は飲酒運転とか多いから危ないよ。」「 (おかあつ・ラオ語)そうですよね、わかってます。(おかあつ・日本語)ねぇ凄く怪しまれてるから、バイク乗ってくんない?」「そんなの気にしすぎだよ! 僕に取って散歩は大切な習慣だし、それに僕だけじゃないよ! この辺夜中変な怪しいオッサンがしょっちゅう歩いてるじゃん。」「あのオッサン達は近所の人と顔見知りだから決して怪しいオッサンではないんだよ。」「そんなの関係ねーじゃん。」

(飲み屋到着)

Pさん「何でそうやって人に意見を押し付けるの?」おかあつ「いや決して意見を押し付けてる訳ではないんだけど、周りの人に怪しまれてるしさ…。」「ウドンタニーだって近代化で標準化しているのだから、色々な人が色々な考え方していてもいい筈だよね。」「東京とかバンコクみたいな大都会ならそれでもいいんだけどね。ここウドンタニーだから。」「おかあつさん、考え方偏ってるよね。」「うーむ、それは飽くまでも場所に依るわけであって…。」…と丁度そこに酔っ払いが通り掛かる。僕、避ける。彼は気付かずぶつかりそうになる。Pさんを、横目で睨む酔っぱらい。舌打ちして通りすぎる。「後ろ見て!」「おっと!」「…ここ飲み屋で色々な人いるから、気をつけた方がいいよ。今僕が声かけたからぶつからなかったけど、あれぶつかったらケンカになってもおかしくないよ。」「大丈夫だよ、気にしすぎだって。」

Pさん「ウドンタニーの人って、何でウソばかり言うの?」 おかあつ「違うよ、外人の周りにウソつきが集まってくるんだよ。現に僕の周りにウソつき一人も居ないし。」「そうかなぁ。」「目立ってるから、カモだと思われて嘘つきが集まってくるんだよ。」「何だよ、僕が凄く困ってるみたいな言い方するのやめてよ、これでもウドンタニーライフを楽しんでいるんだよ。」「別に、困っているとは言っていないし、何をどう感じるかも人それぞれ、人の好き好きで、僕はどうでもいいと思うんだよ。だけど、目立ったり周りの人に怪しまれたりすると、不要なトラブルを招くからさ。」「それは、何か考え方が偏っているよね。」「別に僕の考え方っていう訳ではないんだけど、外国に居る訳だからさ…『郷に入ったら郷に従え』っていう位だし。」「僕は別に、外人としてここに来ている訳だから、お互い違う文化の人同士としてコミュニケーションしたい。」「だけどここタイで一番田舎って言われてるウドンタニーだから。」「僕はウドンタニーの文化に興味が持てない。」「興味を持てとは言ってない。だけどウドンタニーに居るならウドンタニーの文化に興味を持っていないと、適応出来無いから。」「適応したくない。」「それはそれで人それぞれ人の好き好きだから…だけど周りの人が凄く怪訝な目で見ている状態が、僕は心地よくないと思うだけで。」「別に怪訝な目で見てないじゃん。気にしすぎだよ。 おかあつさんは、ウドンの人は人をよく見ているっていうけど、奴ら全然見てないよ。実際僕が思ってる事とか全然解ってくれないし。」「いやそれは、外人扱いされて、とぼけてわかっていないフリをされてるだけで、実際にはみんなわかってるんだよ。」「そんなことないよ!」

タイ文字も読める・タイ語も話せるで、ずば抜けて高いリテラシー能力を発揮していたPさん。だけど周囲で起こっている事象の文脈をつかむ能力が低いところがある。もっとも、論理能力が高い人は往々にして周囲で起こっている事に興味を示さない自閉症的な面も持っているもので、文脈をつかむ能力が低いこと自体は普通な事だ。文脈をつかむ能力が低い人が社会に入って周囲の人と協調して社会的行動を取ることは、何も珍しいことではない。

彼の場合、彼の能力の高さと粘り強さから言って訓練して適応する事は能力的に充分可能なことと思えた。しかし彼の場合、そこに「ベキ論」的な視点の偏りが加わり、適応しようとすらしなくなってしまう所が特徴的ではないかと思った。

ウドンタニーが嫌いなのにウドンタニーに長居するPさん。僕は彼が何故ウドンタニーに長居するのか漠然と見抜いていた。それは、手軽に女が入手できる長屋の存在もあっただろうし、外人狙いのウドン女子の存在もあっただろう。だが本音と建前がはっきり分かれているウドンタニーで、本音が見抜けない(あるいは恐らく、見抜きたくない)Pさんは、コミュニケーションに失敗し、フラストレーションを溜めていた。



3)

がベトナム空港の乗り換えロビーで出会った彼女・Aさんは、九州から来たという。エラい英語が上手いのでビビった。空港のロビーでしばし雑談…。

おかあつ「…そんなわけで僕はタイの奥地でラオ語を勉強してるんですよ。」 Aさん「へーそうなんですか!あたしは旅行で来ているだけで… あ!ちょっと待ってくださいね。」 不安げな顔でウロウロ迷っている中国人おばさん団体登場。 Aさん・日本語で「おばさーんどこ行くんですか? (ジェスチャーや指差しまざり)ロビー? トイレ? あ、ロビーなの? じゃ、こっちじゃないですよ! (肩つかんで)こっちの方ですよ!はいはい!」 笑顔で感謝の中国人のおばさん。何か中国語でお礼を言いつつ去る。 Aさん「…そんなわけで、タイに2〜3週間滞在して…」 そこに水が出ない給水器と悪戦苦闘するおじさん登場。 Aさん「…おじさーん! 水飲みたいの? ボタンそこじゃないですよ! ここ! こうやって押すの。ポチ。」 水が出てくる。おじさん笑顔。

…そんな感じで常に周りの人ばかり見ている彼女。黒人の彼氏が居ると言っていた。しかし、東京人にありがちな「あたしの彼氏、黒人でー。でもまぁ英語わからないと付き合うのとかムリじゃん?あたし英語得意だから。」的なひけらかしが、全くない。

むしろ彼女自身が黒人という感じだった。黒人というとラップやダンスなどの攻撃的な文化をイメージする人が多いが、実際には日本人以上に村人的だ。丁度、この彼女のような感じだ。



4)

は、タイのとあるレストランで、イギリス人の料理人のおじさんと少しの間一緒に働いていたことがある。

ある日、一緒に働いていた仲間が起こした問題について、おじさんと色々と話し合ったのだった。 「... 奴は、イカルスみたいなモンなんだ。色々な能力がある。色々な言葉も話せるし、料理も出来るし、客も楽しませられるし。だけどそこでイイ気になってイバりだすから、問題なんだよな。 イカルスって知ってるか? ギリシャの神様の事な。蝋を使って自分で作った翼を使って空を飛んだんだが、太陽に近づきすぎて翼が溶けてしまって地上に落ちた神様の事だ。」

─── 僕は当時アイルランド式レストランのマネージャーだった。ある日、珍しい日本人客が訪れた───   

「こんにちは! あ、日本人ですよね?!」「はじめまして。僕はおかあつっていうんですが、色々わけあってここでマネージャーやってまして。」「へー! 凄いですね、おかあつさんって、こんなところで働いているんですか? 言葉とかどうしてるんですか? 実は僕、TOEICで950点取ったんですよ。だから英語には結構自信があるんです。」「じゃ、うちのレストランの客、何言ってるか解かる?ほぼ全員イギリス人ですごい訛ってるけど。」「解りますよ。英語得意だから。」「英単語とか文法とか勉強する事も大切だけど、神話とか音楽とか食文化とか、そういう文化的なことについて学ぶことも大切だよね。」「全く関係ありませんね。初心者の人はそういうことよくいうけど。 あぁ何かハラ減ったな。 何か注文しよう。 あのオッサンが食べてる料理なんだろう。あれ。 あーウェイター!ウェイター! あれ頂戴。」「何ですか?」「あれあれ、あのオッサンが食べてるあれ」「どれですか?」「あの丸い奴。」「あぁーキッシュね。キッシュって言うんですよ。あれ。」「どうでもいいよ。」

───キッシュとは元々フランス料理だったパイで、イギリス料理では非常にポピュラーなのだが、彼は一部始終この様に相手の文化的バックグラウンドに全く興味を示さなかった。彼は結局スパゲティーを注文した。───

「お待たせしました。スパゲティーで御座います。」
「どれどれ… ズズーーーーーーーーーズバビッ!(スパゲティーを爆音ですする) お! このスパゲティーなかなかいけてますね!」 周囲のイギリス人「オゥノゥ…」おかあつ「っ .......(無言)...と、そうでしょ、ここのコックさん料理上手なんだよ。」

と、必死で平静を装った僕。周りの人に見られて恥ずかしいのだが、見られている事に気が付かない彼。僕は、無知が原因だとは思わない。そもそもマナーというのは、国によって違う、街によっても違う、民族によっても違う、ヘタをすると家族によっても、人によっても違う。全ての人が持っているマナーの類型を全て知り尽くすことなど、そもそも不可能である。

知り尽くすことが不可能だからこそ、知識によらず、自分の行動が相手の目にどう映っているのかに興味を持って観察するべきなのだ。ところが彼は他人を全く見ていない。だから周りの人が「オゥノゥ」と思っていても、全く気が付かない。「スパゲティーを食べるときに音を立ててはいけない」という事を知らないことは、問題ではない。むしろ他人の視線に興味を持っていないことが、問題の核心である。

TOEICで950点を取るというのは、並大抵の努力ではない。頭の悪い人間には出来無い試練を軽々と乗り越えている。彼は、極めて高い論理能力と情報処理能力の持ち主である。 一方、見れば明らかなように、彼の英語コミュニケーション力は0である。

彼の発音は、明らかに悪かった。発音の良い悪いというものは、音感などの肉体的な能力が原因していると考えられることが多いが、実際には、むしろそんな能力とは全く別なところにある。発音が良い人は、相手の顔を見ている。自分の発音が、相手の表情をにこやかに変えたか怪訝な表情に変えたのか、よく観察している。だから発音を修正出来るのだ。一方、相手の顔を見ていない人は、自分の発音が相手の顔を怪訝な表情に変えた事に気が付かないので、発音を修正することが出来無い。発音の良し悪しは、そのままコミュニケーション力と直結しているのである。

発音を直そうとしても発音は決してよくならない。発音を直そうと思うなら、相手の顔をよく見ることである。



本当はもっと沢山の例があるのだが、ここでひとまず筆を置こうと思う。

思うことは多い。

論理的な人間は空気が読めない。一方、コミュニケーション重視の人間は論理が読めない。 これは仕方がない事だ。コミュニケーションが得意な人間は、往々にして語学が苦手だ。語学が苦手なのに、何故か会話は進む。一方、論理的な人間はしばしば語学にも高い能力を発揮するにも関わらず、コミュニケーションが苦手で、会話が噛み合わずコミュニケーションが破綻する。

だが筆者おかあつは、コミュニケーション破綻が発生する原因は、能力の高さ低さとは無関係である事を強調したい。

筆者おかあつは、プログラマという職業柄、知人に極端に論理能力が高い人間が多い。何十時間も連続して複雑な問題に取り組み続ける高い集中力を見せる彼ら。 彼らは決してコミュニケーションが得意ではない。いつも謎めいたことをブツブツつぶやいている人も居る。酔っ払ってホワイトボード一面に意味不明な謎の記号を書き散らすプログラマも居る。空気が読めない人間である。 だが、彼らはコミュニケーションが不可能という訳ではない。彼らはコミュニケーションが苦手なだけで、コミュニケーション自体は否定していない。いつもコミュニケーションを取ろうとしている。わかりづらい概念を謎めいたマンガで表現したり、おかしなつぶやきで書き散らしたりして、なんとか他人にそれを伝えようとしている。

一方、僕の周辺には、コミュニケーション能力が高い人間も多い。いつも酒ばかり飲んでおり、カラオケに通い、いつもおしゃべりばかりしている彼ら。営業上の駆け引きで無敵な勝負強さを見せる。だが一方で論理能力はお世辞にも高くない。 だが彼らは決して論理的な判断が出来無いという訳ではない。しばしば彼らはコミュニケーション能力を生かして、論理能力が高い人間の意見を仰ぐ。論理的な概念を理解する事は得意ではないが、耳を傾けている。


破綻するコミュニケーションの原因は、しばしばコミュニケーションの放棄そのものだ。論理的な能力が高い人はしばしば、コミュニケーション型の人間を頭が悪いと言って馬鹿にして、説明を止めてしまう。一方コミュニケーション型の人間は、しばしば論理的な人間を空気が読めないと言って馬鹿にして、説明を止めてしまう。 この様に、破綻するコミュニケーションのある場所には、必ずコミュニケーションを放棄してしまっている人がいる。

人の考えは同じではない。人の考えている事は、全て説明しなければ伝わらない。説明しなければわからないと言って馬鹿にしてはいけない。説明してもわからないと言って馬鹿にしてはいけない。

これは民族衝突と同じ事だ。 だがこれは決して悪いことではない。単一民族は実は弱い。多民族がゴチャマゼに働いている社会の方が、社会の変化に柔軟に対応できるものだ。日本のように対立する民族が同じ社会で働いているということは、世界的に見て類稀なしなやかさを生み出している。それが日本の強さの源の一つでもあるだろう。


広大な大陸ではこうはいかない。一緒に居て気分が悪いなら、無理して一緒に居る必要は無い。違う民族は、違う場所に分かれて住むことで気分良く過ごすことが出来る。

こういう複雑な異文化コミュニケーションに対して前向きさを失わないことが、日本人の非常に良い特質の一つではないか。「空気が読めない」「頭が悪い」と言って他人を罵りコミュニケーションを放棄する行為は、日本的でないとも言えないか。


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