筆者は、タイの多民族環境で方言を学ぶ中で、この地方の人が当たり前の様に行う民族当てを練習する様になった。民族当てとは顔つきや風貌・話し方のクセなどから出身民族を当てるスキルである。そのスキルを練習して以降、日本人を見た時に日本の不思議な民族模様を感じる様になった。日本人は一体どこから来たのだろうか。
僕はとあるジャズギターの師匠に弟子入りしてジャズギターを習っている。前回日本に帰った時、311地震の前だったが、兄弟子の家に遊びに行った。兄弟子は実は奄美大島出身だ。一緒にビールを飲みながらこういう事を言われた。
「おかあつもタイに居るから判るでしょ? 奄美大島も同じ。もうね。気持ちが一番大切なのよ。」
何かこの言葉が全てを言い表している様な気がする。
日本人には二種類居る。「気持ちを重視する人」と「気持ちを重視しない人」だ。地域によってこの「気持ちが大切」という感覚を強く持っている人が多い場所があったり、あまり持っていない人が多い場所があったりする様だが、僕の周辺には殊更にこの「気持ち重視人」が多い様だ。
やはり仲の良い友達が居る。僕は以前短い期間ではあったがアイスホッケーをやっていたことがあったのだが、当時彼は、僕が在籍したチームのキャプテンだった。体育会系が苦手だと感じていた当時の僕は、キャプテンと出会った時「僕とは違う世界の人だ」と思っていた。だが彼は語学が上手で研究熱心、かつコミュニケーション能力が極めて高い人だったので、僕は彼に強い興味を持った。彼の色々な技や、その技にまつわる習慣を見て真似をしたり、実際に色々教えてもらっている内に、いつの間にかものすごく仲良くなった。気がついたらもうすぐ付き合い始めて10年近くたつ。
近年僕はラオ語の方言を学ぶ中で漠然と人の出身と人の能力に相関性があることに気付いてきた関係上、僕は人の出身に興味を持つようになった。それ以降、知人友人に両親の出身地を訊ねる様になった。そこで彼に出身を聞いてみたら、ビックリした。お父さんが種子島の人だと言うことだった。それを知って、頭をガンと殴られた様なショックを受けた。彼もまた島出身だったのだ。そして気持ち重視人だったのだ。
島出身の人に顕著に感じるのは「気持ち重視」だということだ。そして、この傾向は九州の人にも強く感じる。大阪以西の人にも感じる。東北の人にもこういう気持ち重視のタイプを感じるが、九州や関西と違って確率が低いように感じる。
人には色々な傾向がある。気持ち重視の傾向・理屈っぽい傾向・脳天気な傾向・空気を読む傾向・読まない傾向・人によって違うのだが、地域によって現れる確率が違う。特に日本の面白いところは、相反する傾向を両方同時に持っている人が居ることだ。 僕みたいに、空気を読む傾向と、空気を読まない傾向の両方を同時に持っている人間が、日本には居る。タイや中国にはあまり居ない。居るにはいるが、非常に少ない。
僕はまだ、何故こういう傾向がうまれるのか、何がこうした違いを生み出すのか、理解しきれていない。
最近漠然と思うようになった事は、日本はタイや中国やアメリカと同じように多民族国家ではないか、という事だ。日本がタイ・中国・アメリカなどの他の多民族国家と違う点は、日本語という極めて独特な言語を話していることと、島国という特殊な狭い領域に住んでいる事により、文化と人が高圧力で圧縮され融解して混ざりあっている事だ。混ざり合っているとはどういうことか。それを理解するためには混ざり合っていない状況というものを理解する必要があるだろう。
普通、人間の要素が被らない人は、お互い一緒にいて気分がよくなくて仲があまりよくないもので、争いを避ける為に自然と分かれて住む様になる。つまり住み分けが出来る。 だが、日本の場合、色々な種類の人が同じ地域に混ざって住んでいる。何故だろうか。
住み分けを成功させる為には、はっきり目に見える違いが必要だ。肌の色が違う、言葉が違う、着ている服が違う、食べ物が違うといった、違いを判別する為の目印があるからこそ、人の種類に対する区別が可能になり、住み分けることが可能になる。ところが、日本の場合、住み分けが可能になるようなはっきりした目印がない。
日本人には、肌の色が違うとか顔つきが違うとか言葉が違うといったはっきりとした違いが見えないにも関わらず、人の持っている傾向にははっきりとした「ばらつき」がある。本物の単一民族を見てみるとわかるが、本物の単一民族は、日本人よりもずっと均一だ。日本人が考えているよりも、ずっと個性がない。ある民族の中では、食べ物の好みも音楽の好みも異性の好みも服装の好みも、みな同じなのだ。「朝昇龍の故郷は、みーんな顔が朝昇龍。子供も朝昇龍・おばあちゃんも朝昇龍・女子高生も朝昇龍。」と言っていた知人が居たが、これは言い得て妙である。これが本物の単一民族だ。ラオ人も同じだ。日本人は、朝昇龍の故郷と比べてもわかる様に、一般的な「単一民族」と比較してずっと大きい「ばらつき」を持っている。否、日本人は単一民族などではない。実は沢山の民族が混ざっているのだが「区別が付かないので住み分けに失敗している」だけとも言えないだろうか。
日本は住み分けが難しい国だ。島国という特殊な環境に住む日本人は、嫌いな人を避けて住むことが出来無い。狭い地域に住んでいるので同じ人に何度も何度も出会う日本人は、嫌いな人とも仲良くしなければいけない。広大な大陸に住む人は気楽だ。大陸では一度会った人と再び出会うことは絶対にない。嫌いな人は放っておいて、好きな人とだけ一緒にいれば良い。日本ではこうはいかない。日本人は、嫌いな人とも仲良くしなければいけない。だから日本人は混在して住んでいる。
住み分けの難しさは、言語にまで影響を及ぼす。日本の方言の差異が小さい事は、日本の特徴のひとつだ。日本の方言の生まれづらさは、恐らく日本が島国である事と無縁ではない。日本にも方言はあるにはあるが、タイ・ラオ・中国の様に言葉の違いが大きくなり過ぎて、意思疎通が不可能になってしまう程ではない。タイ・ラオ・中国の様な大陸の文化では、面積が制約された島国である日本と異なり、距離が離れていくに従い言葉の違いも大きくなり、しまいには違う言語として分かれてしまう。
この様に均一に為りやすい環境下にいる日本人だが、一方地域差もある。空気を読む傾向を持つ人は、関西から九州にかけての人が多い様に感じる。東北の人には少ないが、沿岸部に居る人達には多い。
地域差として考えると、中国はもっと激しい地域差がある。まるで違う国の様だ。日本人はしばしば「中国の人は空気を読まない」と思いがちだが、果たして本当にそうだろうか。これは人に依る。全員が全員、空気を読んでいない訳ではない。人によっては非常に人をよく見ている。だが全く読まない人も混ざっている。これは出身地域に依る様だ。北京〜東北部の人は、空気を読む傾向が極端に少ない人が多い様だ。一方、沿岸部の人は空気を読む人が多い様だ。例えば、僕が知っているあるおじさんは、中国・温州から来たと言っていたのだが、彼は、空気読み傾向が強く気持ち重視の人でまるでラオ人・タイ人のようだった。昆明まで下と、更に空気を読む人が多くなる。雲南省は民族史的に見ると、かつてタイの領土だったからだ。但し中国全体で見ると、空気読み傾向が低い人が多い感はある。
こういう事を遺伝子分析を使って研究したら面白いだろうと思う。だが遺伝子分析の様な学術的な研究をする人は大抵の場合「空気読まない系」の人なのが残念なところだ。彼ら「空気読まない系」出身の学者は、他人を観察するという習慣を全く持たないか、殆ど持っていないことが多い事により、そもそも民族の違いを見ぬく能力を持っていない。
こういう学者は、多民族居住地域で誰もが常識として知っている事柄について全く無頓着だ。例えば、多民族居住地域では人々の出身地と居住地が違うことが珍しいことでない。複数の民族が混ざって暮らしていても、それぞれの民族は自分たちを他の民族と完全に区別している。この様な事は、多民族居住地域に住む人ならば誰もが一般常識として知っている事だ。だがこういう学者は、その様な一般常識や文化的背景を全く勘案せず、完全に無視した上で、国家別に統計を取ったりする。国境とは政治的な理由によって便宜的に置かれたものであって、民族の配置とは何の関係も無いものだ。国家別に統計を取ることは、まるで画像にモザイクをかけている様な物だ。全てが混ざってしまって何も理解できなくなる。(学問の世界では、実験の基礎的心構えとして、極値がどこにあるのかをはっきりと突き止めることが大切だなどという。国家別に遺伝調査をするなど、正に極値を曖昧にする行為そのもので、学者の風上にも置けない。)
僕が疑問に思って止まないことは、何故日本人だけが「空気読み傾向」が強い人が多いのか、という事だ。韓国人や中国人と比べると日本人はとても周囲に対する気配りが高い。これは一体何故だろうか。最近の僕の仮説は、朱印船貿易の影響ではないかということだ要するに、中国・朝鮮・日本を比べると、日本だけがタイっぽいという事だ。この仮説に関しては、また稿を改めたい。
(初出 2012年02月09日11:15 ミクシ日記 を元に加筆訂正。)
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2022年5月29日更新: 末子音がない日本語 ─── 縦乗りを克服しようシリーズその22
2022年5月15日更新: 裏拍が先か表拍が先か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
2022年5月11日更新: 頭合わせと尻合わせとは何か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
著者オカアツシについて
小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。
特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々
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