「言語」と「方言」の違いは、曖昧だ。どこから言語で、どこから方言なのか。島国として閉塞している日本と異なり、大陸はある地点から距離を経るごとに徐々に方言による違いが大きくなるものだ。そして方言の違いが大きくなりすぎた事により意思疎通が出来なくなる地点が来る。その地点が言語と方言の境目だ。その地点から方言ではなく、新しい違う言語となる。だがその意思疎通が出来なくなる限界点は人によって違う。ならばどこが本当の方言と言語の境目なのか。
方言が大きくなることで意思疎通が出来なくなる限界点は、人によって違う。人によって方言の許容力が広く、「酷く訛って」いても、同じ言語として同定できて意味が理解出来る人も居る。人によっては方言の許容力が狭く、「少しでも訛って」いたら、同じ言語として同定出来ず、意味がわからなくなってしまう人も居る。この様に「意思疎通が出来なくなる限界点」は人によって違う。「方言」がどこから「違う言語」に変化するのか、誰にも判別出来ない。
「訛り」という言葉の意味合いは相対的な物だ。まず「訛り」が成立するためには、何か基準となる方言が必要だ。そしてその基準と違う部分を「訛り」と呼ぶ。
「訛り」という物の本質を考える時、イサーン語は良い例だ。イサーン語は、一般的にはタイ語の方言と考えられている。だからイサーン語が持っている標準タイ語と違う部分に関して「訛り」という表現が使われる。タイ標準語が使われるバンコクから遠ざかれば遠ざかる程「訛り」は激しくなっていく。こうしてタイ語は徐々にラオス語に近くなっていく。ところがタイの隣のラオスに入ると、そこではラオス語が標準語だ。国境を超えた途端、基準とされる言語自体が変わり、その地点まで「訛り」とされていた言い方は、全て標準語として認識される。そこでは逆にタイ的な言い回しは「タイ訛り」として認識される。この様に、言語とは本来、グラデーションの様に徐々に変化していく物だ。どこからが標準でどこからが方言なのかは、誰にも特定できない。
タイ中央部・タイ北部・タイ東北部・ラオス中央部では、様々な方言が使われている。ここで「〜ですか」を表す言い方に軸を設定して考えてみると、面白いことがわかる。 タイの首都・バンコクでは「チャイマイ ใช่ไหม」という言い方をする。 ラオスの首都・ビエンチャンでは「メンボー แม่นบ่」という言い方をする。タイ北部には「メンコー แม่นก่อ」という言い方がある。
その他「チャイコー」「チャイボー」「サイボー」と様々なバージョンが存在する。これらのバージョンは全て、タイ北部・タイ中央部・ラオス中央部の部分組み合わせになっている。
ラオ語話者の一般的な認識では、上記の様々な「〜ですか」の表現の中でも、特に「メンボー」を使う方言はラオ語として考えられている。 この認識上に立つと、イサーン語は「メンボー」を使う以上、イサーン語はタイ語の方言ではなくラオ語だ。
この認識を、タイ中央から見ると異なる様相を帯びてくる。数百年前、現在ラオスの領土は、タイの領土だった。つまり「メンボー」「メンコー」「チャイコー」「チャイボー」「サイボー」の全てが、タイ首都バンコクでの表現「チャイマイ」の方言という認識も出来る。この認識上に立つとラオ語もイサーン語もタイ語の方言だ。
文字を含めて考えると、更に興味深いことがわかる。タイ語で「理解する」の事を「カウチャイ=เข้าใจ」という。ここで ใ という字は「アイ」という二重母音を表すが、タイ語にはアイという二重母音を表すもうひとつの字 ไ がある。タイ標準語では ไ ใ 共にアイと読む。発音は同じだが、単語によってどちらを使うかはっきり決まっている。
だがラオス北部方言を見ると面白いことがわかる。ラオス北部では、理解するの「カウチャイ」を「カウチャウ」と読む。これは、タイ標準語では ไ ใは共にアイと読むが、ラオス北部方言では、ไ をアイとして ใ をアウとして読む。
これは、かつて多くのタイ語の方言では「アイ」と「アウ」を区別して発音していた物が、時代を経ることにより、発音上の違いが退化し区別しなくなり併合してしまったものと見ることが出来る。この様にタイの方言を広く見ていくと、タイ標準語は、数あるタイ語の方言でも比較的新しい方言である、と見ることが出来る。
この様に、タイ語の各方言を見てみると、発音上は大きく異なっていても綴り上は同じ表記を共有している場合が多い。
この認識に立って考えると、タイ標準語は、広い意味でのタイ語の中でも比較的新しい方言という事がわかる。タイ標準語も広義にはタイ語の方言だと見る事も可能だ。
※ 単純な方が新しいという見方は「言語は文化衝突を超えるごとに必ず単純化するという法則がある」という見解に基づいているらしい。文化衝突後、更に複雑になることはないという。これは筆者の感覚と一致する為、筆者は大きな疑問を感じていない。だが何故そうなるのか厳密に証明しようとすると、恐らくとても難しいのではないかと思う。
イサーン語は、タイ語とラオ語の中間にある。 広義に見れば、タイで一般常識的に言われている事と同様、イサーン語もラオス語もタイ語の方言だ。だがこれは飽くまでも中央タイから見た時の認識だ。イサーン語話者は往々にして、一般的に自分たちが話す言葉を「イサーン語」と呼ばず「ラオ語」と呼ぶ。ラオ語話者から見ると、イサーン語はその9割はラオス語と共通だからだ。
だが、ラオス標準語とイサーン語だけに注目して比較すると、少なくない違いがある。ラオスの首都に住む人は、この発音の違いを差してイサーン語を敢えてラオ語と呼ばずにイサーン語と呼ぶこともある。
人口で見ると更に興味深いことがわかる。ウィキペディアによると、ラオス国内でラオ語を話す(ラオス標準語としてのラオス語)人口は300万人程度という。タイ国内でラオ語を話す人口(タイ語方言としてのイサーン語)は2000万人以上居ると言われている。人口だけから考えれば、イサーン語の方がラオ語の標準と言っても差し支えない。
更にタイ国の人口の半数近くが実はイサーン語話者である、という資料がある。タイの人口とラオスの人口を足しあわせてラオ語話者の人口比率を考えてみると、実に半数以上がラオ語話者である、と見ることも出来る。(やや恐ろしい結論ではあるが)最も人口が多い方言を標準という視点に立地して考えればイサーン語がタイとラオの標準語であると見ることも可能である。
更に細かく見てみると、更に違う様相が見えてくる。 イサーン語話者の一般的な認識として、イサーン語には2種類存在する。それはラオ語話者の間で「タンタン」と「ヌーヌー」と言われる事が多い。「タンタン」は早口で短く区切って発音する人の事を言う。「ヌーヌー」はゆっくり長めに発音する人の事を言う。「タンタン」と「ヌーヌー」は、人によってはっきり分かれている事もあるが、人によっては両方話す人も居る。地域によって「タンタン」しか居ない地域もあれば、「タンタン」と「ヌーヌー」が両方混ざっている地域もある。ラオ語話者の一般的な認識としては、「タンタン」はラオ南部から来たと「ヌーヌー」はラオス北部やタイ北部から来たと考えられている。真相ははっきりしない。
※1 なお「タンタン」とは「音が立っている」という意味「ヌーヌー」は「ゆっくりしている」という意味で、特定の民族や地域を表す言葉ではない。これは学術的な用語ではなく、飽くまでも庶民的な言い方だ。
※2 具体的に言うと「ヌーヌー」は、第三声調と第六声調を変化させずにゆっくり話す人のことを指し、「タンタン」は、第三声調を第五声調に、第六声調を第一声調に変化させて話す「アグレッシブオヤヂ方言」の事を指す。参照 おかあつ日記 : 『ラオ語の方言の声調について』
更に細かく見てみると、方言は、村ごとに違う。村ごとに異なる言い方がある。村ごとに異なる声調の変化や発音の変化がある。小さな違いかも知れないが、初めて聞くと「おや」と感じる違いがある。
更に細かく見てみると、方言は、家族ごとに違う。家族ごとに異なる言い方があり、村ごとに異なる声調変化や発音の変化がある。
これらの違いは、大半が意思疎通に困る程ではない。だが稀にこの違いが元で誤解を招くこともある。
大きな街に行くと、様々な村の人、様々な家族の人が入り乱れ、様々な方言が乱れ飛ぶ事になる。人によっては聞き取りやすいこともある。 人によっては聞き取りづらい事もある。 そもそも全員の話し方が異なる中では、致し方のないことだ。皆が異なる発音で話すなかでは、どちらが普通の言い方かなどと争っていては会話が出来無い。お互いに発音の違いに寛容になる事が大切だ。
ラオ語は方言の塊だ。ラオ語には標準の存在しない。ラオ語とは飽くまでも全部の方言をひっくるめた総称だ。どれかひとつを特別に標準と呼ぶ事は出来無い。
ラオ語の方言は、ネイティブの人ですら聞きとることが難しい事もある。これを非ネイティブの外国人が聞きとるという事は、大変に難しいことだ。しかもバンコクやウドンタニーなどの都市部に居れば、色々な人が集まってくる。話す人によって全く発音が違う。目にも止まらぬ早口な人も居る。ゆっくり話す人も居る。人によって臨機応変に自分の耳を調整し、発音の違いを修正しながら聞きとるという、高度な聞きとり能力が必要になる。
イサーン地方(特に深イサーン・ラオ国境地帯)で生活するに当たって、発音の違いにはいつも惑わされる。発音の違いが生活上最も大きな関心事と言って良い。ラオ語の学習は、方言の学習が全てと言っても過言ではない。方言の違いは本などで網羅的に説明される事はまずない。発音の違いに対応するスキルは、実戦上で悪戦苦闘する以外に、獲得する方法がない。
問題は発音だけではない。イサーン語話者は、大抵の場合、方言であるラオ語と標準であるタイ語をめまぐるしく切り替えながら話す。非ネイティブには、どこからどこまでがラオ語で、どこからどこまでがタイ語なのか、判別が付かない。
タイ語は、国(王室)によってはっきりと標準語が定義されている言語だが、一方でバンコクの多くの人は、必ずしも常に標準語を話す訳ではない。(東京生まれの人が必ずしも標準語を話す訳ではないのと同じだ。キムタクの話し方は標準語ではなく飽くまでも関東方言だ。) 一方ラオ語は、標準化されていない。ラオ語の方言によっては、部分的に標準タイ語と同じ事もある。違うこともある。ラオ語の方言によっては、バンコク方言と同じ事もある。違うこともある。これらをめまぐるしく切り替えながら話すイサーン人。
人によって「正調イサーン語」という用語を使う人がいる。この用語の使い方は誤りだ。こういう臨機応変な対応がとても大切となるイサーン語を学ぶに当たり、「正調イサーン語」という先入観を持つと、この複雑なイサーン語を学習する上で、大きな遠回りをする恐れがある、と筆者は思う。
タイ語研究者の間でも、ラオ語研究者の間でも「正調イサーン語」という用語は存在しない。「正調イサーン語」という言葉に相当する英語もタイ語もラオ語も存在しない。そもそもイサーン語には「正調」という物は存在しない。にも関わらず多くの日本人が「正調イサーン語」という言葉を使う。この用語は、イサーン語という言葉の奥ゆかしさに対して、正しくない認識を与える。
そもそもである。「正調イサーン語」という用語は「正調関西弁」という用語と同じくらい、おかしな用語だ。日本で「正調関西弁」などといおうものなら、やれ京都弁が正調だの、これ船場言葉が正調だの、いやいや大阪ミナミが正調だの、おいこら京都でも北と南は違うだの、喧々囂々の凄まじい論争が巻き起こり、収集つかなくなるのが、目に見えているではないか。イサーン語も同じである。
更新記録:
・更新 (Sun, 02 Dec 2012 02:22:04 +0700)
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 01:35:55 +0700)
FLAGS
NOTICE
■■■ 現在縦乗りを克服しようシリーズを大規模再構成/加筆訂正中です ■■■
2022年5月29日更新: 末子音がない日本語 ─── 縦乗りを克服しようシリーズその22
2022年5月15日更新: 裏拍が先か表拍が先か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
2022年5月11日更新: 頭合わせと尻合わせとは何か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
2012年12月1日土曜日
著者オカアツシについて
小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。
特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々
おかあつ日記メニューバーをリセット
©2022 オカアツシ ALL RIGHT RESERVED