でも何故そうなってしまうのかは誰もわからない。
そんな日本の息苦しさの理由について少し考えてみた。
僕は、ジャムセッションでギターを演奏するといろいろな人(プレーヤー)から苦情を受けることが多い。その苦情の9割くらいは「音が大きすぎる」ということだ。だけど僕は音を小さくしない。
それが何故なのかについては説明が必要だ。
もちろん僕は、その意見を受けいれないとわがままだ、勝手だと文句を言われてしまうということは知っている。だがにも関わらず僕は音を小さくしない。
実をいうと僕もできれば音を小さくしたいのだ。そもそもギターアンプというものは音量を上げれば上げるほど音が濁りやすくなるもので、できるだけ音量を小さくして演奏したほうが演奏の美しさは向上する。だから僕自身も音はできるだけ小さくしたいと思っている。僕自身も音を大きくしたくない、と思っている。
にも関わらず僕が音を上げるのは、何故か。
何故なら、そうしないとどうやっても正しいリズムにならないからだ。
効果的で人に高揚感を与えるリズムにははっきりしたパターンがある。
例えば『8分音符アフタービート』はそのパターンのひとつだ。このパターンを実現するためには次のようにしなければならない。1小節に8分音符が8つあるうちの8個目の音符にアクセントを付けて演奏しなければいけない。そのためにメロディーの終端をその8つ目にあわせて解決してその最後の音をバンド全体でピタッとあわせなければいけない。
ところが、日本人にはこれができる人がいない。ごく一部の例外を除いてほぼ全員できないと言い切ってよい。その地点でアクセントを付けなければいけない、ということ自体を理解している人がいないので、当然そのアクセントを協力して同時に鳴らせない。
この状態でメロディー尻端あわせのメロディーを弾くと間の抜けた感じになってしまう。
これではリズムセクションに『そこでアクセントをつけたいのだ』という意志すら伝わらない。つまりリズム・セクションの人達の「え?え?何? 何? 一体何がしたいのこの人?ひょっとしてバカ?」という熱い視線を受けながら演奏することになる。
この問題を避ける為に、その場所でバンド全体と匹敵する程度の大きな音を出すことによって「アクセント位置はここです!」という意思伝達をしなければいけない。
メロディー後端を4拍目裏であわせる ─── 本来ならギター独りで爆音を発することなく、何も言わずともわかっていなければいけない常識なのだが、日本人のミュージシャンに世界的な常識を求めても無駄だ。
その苦肉の策が迷惑爆音ギターというわけである。そこにあるべきアクセントを作り出すためにリズム・セクションの音の上から大音量のギターの音をかぶせることによってカバーするひとつの妥協策だ。
通という幻想
通というものは実際には何もわかっていないものだ。僕もタイに滞在している時にタイ通と自称する日本人を多く見かけたが、彼らのタイのことをわかっていない度合いは看過しがたいものがあった。いくら寿司通が寿司に詳しかろうが、寿司に一番詳しいのは飽くまでも寿司職人であり寿司通ではない。寿司通はただ受動的に食べているだけだ。
同じようにタイ通がいくらタイに詳しいといっても、タイ通はタイで遊んでいるだけであってタイに詳しいわけではない。タイに最も詳しいのは飽くまでもタイ人である。そこを外してはいけない。
これと同じ要素がジャズ通にもある。ジャズ通はジャズに詳しいと思っているが、米国が本場である以上、ジャズに一番詳しいのは米国のジャズマンの筈だ。ジャズ通は、実際にはジャズをビデオ・音楽CD・YouTubeなどで視聴しただけで、それを実際に自分の体で体験したことがあるわけではない。ジャズ通はジャズを知識として持っているだけでそこには理解がない。
しかもそれは実際は必ずしも『米国だけが唯一のオリジナル』というわけではない。それは日本の外では音楽を演奏する人なら誰でも知っている一種の常識なのだが、それがどういう理由によってかは不明なのだが日本だけその常識が普及しなかったようだ。
醤油を入れろと怒鳴る蕎麦通のジレンマ
日本人ジャズファンは日本人ジャズマンに色々な苦情をいう ─── 「音が大きすぎる」「リズムがおかしい」そしてその意見を聞き入れないと「傲慢だ」「孤高すぎる」「エゴが強すぎる」と返す刀で切り返される。だが彼らの意見を聞いたら、彼らは満足するだろうか・・・答えは否だ。
蕎麦通はいう。「この汁は香りが足りない」「この蕎麦は硬すぎる」云々。 そして「この汁は不味いからもっと醤油を足したほうがいい」 とのたまう。
この時、醤油を足したら蕎麦通は満足するだろうか ─── 否。結果はむしろ全く逆だ。蕎麦通のいうがままに蕎麦の汁にたんまりと醤油を継ぎ足せば、次に蕎麦通は「この汁はしょっぱすぎる」「味に繊細さがない」云々、結局食べなくなる。 蕎麦通の言いなりになればなるほど、蕎麦通は満足せず更なる不満を募らせる。
蕎麦屋の店主はその意見が間違っていることを知っている。だがそれをいえばやれ「この店主は傲慢だ」やれ「エゴが強すぎる」と文句を言い始める。だがだからといって、蕎麦通の言う寝言を聞き入れても蕎麦通は決して満足しない。何故なら蕎麦通は、自分が満足するために必要な条件を知らないからだ。蕎麦通の言いなりになっても、蕎麦通は決して満足しない。
誰も聞かない国産ジャズのジレンマ
「音がでかすぎるから音を下げろ!」これを言われて音を下げると大抵の場合の結果は良くない。だが下げないと気分を害して『勝手な奴だ』と怒り始める。僕としても音を上げるのは不本意なのだ。だが善後策として仕方ない行動だとも思っている。ここで妥協して音量を下げてしまえばクオリティは下がる。ここで安易に妥協すべきでない。何故なら日本人自身がそれを望んでいないからだ。日本人が他者に『○○すべきでない』と苦情を言うのは、実は大抵の場合それが彼のやりたいことだからだ。
あまり目立つ演奏をすると仲間のジャズマンから妬まれて仕事を減らされる。だから常に自制心を持ち続けることを暗黙のうちに強制される。その抑圧が気づかないうちに内面化し、自分自身も気が付かないうちにそれを他人に強制するようになる。こうして精神的抑圧の負の連鎖が続いていく。
実は日本は世界最大のジャズ消費国だ。日本人は滅多に浪費しないが、何かをひとたび気に入るとそれに惜しみなく膨大なお金を注ぎ込む。『本当にいいものを少しだけ、金に糸目を付けずに豪快に買う。』それが日本人のスタイルだ。そういう超優良ジャズファンが日本にはひしめいている。
ところがジャズミュージシャンは、全く真逆の視点で音楽活動をしている。ジャズはほとんど儲からない商売だ。だから日本人ジャズミュージシャンは、多少クオリティーを妥協してでも仕事の本数を増やして生活を安定させようとする。
ここに『ジャズ世界最大の不幸』があるのではないか。
クオリティの高いものに目がない日本人ジャズファン。
→ クオリティの低いものに全く興味を示さない。
クオリティを高くすることに興味がない日本人ジャズマン。
→ 多少クオリティが下げてでも量を増やそうとする。
この二者の視点の乖離によって『誰も聞かない国産ジャズ』という惨状が生まれているのではないだろうか。
いい音楽に必要なこと
いい音楽に必要なことは『欲望に直行する』ことだ。ところが日本には2種類の呪縛が存在することにより、欲望に直行することが非常に難しい。
そのひとつは本能的な欲望に直行しようとすると「そんないい加減なことで許されると思っているのか」といわれてしまう精神的な圧力だ。
もうひとつは全く逆のものだ。日本人は人によって孤独理に知的な活動をすることを好む知的な欲望を持った人がいる。彼が欲望に直行しようとすると「そんなノリの悪い奴が社会的に許されると思っているのか」と言われてしまう精神的圧力だ。
本能的に行動しても怒られる ─── 知的に行動しても怒られる ─── 全く真逆の呪縛によって二重拘束を受けることによって、日本人はみな面白い音楽を生み出す力を失う。
つまり端的に、日本には良い音楽を作る社会環境がない。
だからこそ日本では、いい音楽が非常に貴重なものとして大変な高い値段で取引される。
そういう社会環境にいる日本人が、日本人が納得できるような良い音楽を作ろうとすると、大きな社会的な反発を受けることは不可避だ。
だがここで社会的に受け入れられるような妥協をすれば『誰も聞かない国産ジャズ』のジレンマに引き戻されてしまう。或いは『醤油を入れろと怒鳴る蕎麦通のジレンマ』に引きこまれてしまう。
日本はジャズ不毛の地だ。だが同時にジャズを高い値段で買い取ってくれることで世界中のジャズマンから熱い視線を受けている地でもある。
日本人は日本に染まってしまったら日本のメリットを享受することができない。
日本人とはどこまで日本に染まらずに居つづけられるかの絶え間ないチャレンジだ。
更新記録:
(Mon, 03 Feb 2020 23:54:00 +0900) 加筆訂正した。題名を『日本のいい音楽に必要なこと』から『いい音楽に必要なこと』に変更した。