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2018年9月6日木曜日

和製ジャズへの違和感(oka01-qfxbeagipibhvqty)

日本のジャズは、気持ちが悪い。その理由を説明してみたい。

僕が感じている和製ジャズに対する違和感は、次のようなものだ。明らかに訛っていっるのは自分のほうなのに、それを棚に上げて相手に文句ばかり言っている ─── この様な感じで。

「おめ何言ってんだ?! これが標準語だべー? 」
「確かにそういう標準語もあるかも知れませんが、だけどその『だべー』というのは、多分方言なのかな…と。」
「何いってんだあんた、間違ってんの、おめぇだっぺ?!何だおめぇのそのしょうじゅん語は!?」
 「いや、それ『しょうじゅん』じゃなくて『ひょうじゅん』です!」
「おめぇこのやろう! ホントに頑固なヤロウだな!これがしょうじゅん語だべ〜!?」
「だから違います!」
「お前は何で独りでそうやって強情はってんだべ?!」

僕はいつも「強情だ」「頑固だ」「人の話を聞かない」と言われる。別に人の話を聞いていない訳ではないのだが、それが明らかに方言なのに、方言を喋っていると認識出来ずに、それを否認しつづける人と喋る時の違和感というのは、どうやっても受け入れがたいものがある。

その気持ちについて書いてみたい。

気持ちを大切にする自由

『不条理』と出くわしたとき、どう対処するのがいいのか…。大昔にこういう記事を書いた。 「わからずや」…これは、僕がタイ東北にいて色々な不条理を見て書いた記事だ。

タイに住んでいると、連日のように、色々な不条理とでくわす。

  • 「何故、こんな巨大なコンクリートの塊が歩道のどまんなかに落ちているのか。」
  • 「何故、誰も交通標識を守っていないのか」
  • 「何故、赤字が出ているのに、赤字の原因を排除できないのか」
  • 「何故、赤字の補填を俺にやらせるのか」

だが、タイではそういう風習なので、仕方がない。 タイに住む以上、不条理は受け入れなければいけない。1+1は2だ。それは誰がどう考えても2なのだが、3という人もいれば5という人もいる。それが間違っている…と指摘しても、それは決して受け入れてもらえない。間違いは人の自由だから受け入れなければいけない。

さて、だが次に、こういう疑問が起こってくる。 ─── なるほど、間違うのも個人の自由だというのなら、それもいいだろう ─── だが間違った結果、損害が出ている。その責任は誰が取るのか。

タイで仕事をしていてよく見かける話に「在庫がなくなったけど、店長が心配するといけないので、黙っていよう」という話がある。結果、在庫がなくなってるのに、誰も補充せず、機会ロスだらけになる。不条理極まりないが、僕がタイで10年過ごしたなかで、わりとよく見かけた。

こういう時に、問題を起こす店員を乱暴に扱う(例えば解雇するとか)と、地元の人達の心象を著しく害してしまい、商売を続けることも難しくなっていく。

そういう国で生活するとき、どうすれば一番いいのか ───  地元の人と一切仲良くしないで、徹底的に金の亡者的に生活するのもひとつの方法だ。華僑の人達はしばしば、そういう商売の仕方をしている。仲良くすることを最初から諦めている。そうしないと商売にならないからだ。だが地元の人の心象を悪くし、トラブルを起こして犯罪に巻き込まれ、大怪我することになる人もたくさんいる。

理屈は一切通じない ─── そういう状況下で僕がとった行動は、「商売などやらず、ひたすら貧乏人の真似をする」ということだった。こうしない限り、責任を押し付けられるばかりだからだ。

だが結果として、僕の生活はどんどん落ちぶれていった。

合理性を重視する自由

日本はタイよりずっと発展している。その大きな理由のひとつは、日本人が気持ちよりも合理性を重視することに慣れているからではないか、と思う。 在庫切れになっているのに、いつまでたっても仕入れしない。日本では、そういう店員を解雇しても、「地元の人々が結託して店長に仕返しする…」ということには、あまりならない。 日本では、正当な理由がある限り、人の気持に配慮せずに、遠慮無く店員を解雇してもよい。

社員を縁故で雇ったりすることも、(全く無いわけではないが)日本ではあまりない  ─── いやあるが、タイほど酷くない。縁故でやとった無能な親類ばかりが重役を固めていたら、会社は右肩下がりだ。

タイは気持ちをばっさりと切り捨ててしまうことがないので、一緒に過ごしていてとても気分良く過ごせる  ───  だがもしも、仕事を一緒にしようとすると、大変に気分の悪いことを我慢しなければならなくなる。

仕事をするという視点にたつと、日本はとても楽だ。 気に入らない店員は、きちんと正当な理由さえ提示すれば、合法的に解雇できる。

気持ちを傷つけることを怖れることなく、合理的な理由で行動してよいからこそ、発展することができる。もちろん気持ちを無視してばかりいたら、人は不幸になってしまう。だがそれでも流石に「仕事をちゃんとやらない人」をクビにしても、逆恨みする人はいない…。

 ─── 筈なのだ。

不条理を受け容れる

外国語を学ぶというのは、理不尽そのものだ。

『何故、電話番号を2桁ずつ前後を入れ替えて読まなければならないのか!』これは僕がドイツ語留学した時に、どうしても耐え難かったことだった。電話番号を読むだけなのに、ものすごくややこしく、ものすごくよみにくい。

『何故、中国人のくせに漢字が読めないのか』これは僕が生まれて初めてラオス〜中国南部の国境を渡った時に思ったことだった。 中国深南部は、少数民族出身の人がとても多く、漢字が読めない人も稀でない。

『何故、中国人のくせに中国語が話せないのか』これは僕が中国語学校に入った時に感じた理不尽だった。地元の人は雲南方言という方言を話すので、北京語はあまり話さない。だから標準語を学べば学ぶほど、どんどん通じなくなっていく。そういうジレンマ。

『何で標準語すら喋れないのか!』方言で訛って、標準表現とは似ても似つかない発音になってしまっているのに、外人がそれを聴き取れないと怒る地元人。

真面目な僕は、方言を聴き取れないと怒る地元人に敬意を表明し、10年近く掛けて外国語の方言を話せるようになった。だが、外人が方言を話せば話したで、怒る地元人。

2005年から2016年まで約11年、外国を放浪したなかで、無数の不条理を乗り越えてきた。「俺の話を聞いてくれ」などと喚いても、誰も聞いてくれない。外国の地に住んでいれば、そんなことは当然だ。

世界一理不尽な国

僕は、こうして黙って人の話ばかり聞いてきた。 だがそんな僕に、「お前は人の話を聞かない」と怒る国が、世界にたったひとつだけある ─── 日本だ。

僕は以前、とても真面目だったので、「お前は人の話を聞かない」といわれ、人の話を聞くために最大限の努力を払っていた。どんなに人の話を聞いているつもりでも、「人の話を聞いていない」と言われる。人の話を聞けるようになりたい ─── それは、僕の語学放浪の最大目的の一つでもあった。

僕は世界中に行き、色々な話を聞いてきた。不条理なことも黙って聞いてきたし、その不条理を身につけるまで、長い間訓練を続け、実際にその不条理を模倣することすらできるようになった。それで、日本に帰ってきたが、未だに「お前は人の話を聞かない」といわれる。

今では僕も少しは利口になった。

まるで自分は人の話をよく聞いているかのよう言い方だ…と僕は思う。そういう自分は、実際には他人の話を全く聞いてないし、聞くつもりもないのに、他人には「人の話を聞け」という。みんな、よもや自分の言っていることが間違っているなんて、思わない。 それで思い余って『お前は人の話を聞いていない!』と怒鳴る。

僕は、人の話を聞いていないらしいが、僕は相手がどんなに人の話を聞かない人でも、「お前は人の話を聞いていない」とは絶対に言わない。その人が勘違いしていることを、粘り強く指摘し、反例を示し続けるだけだ。

『話を聞けよ!』というなら、まず自分が率先して人の話を聞くべきではないのか。

『空気読めよ!』というなら、まず自分が率先して空気を読んで見せるべきではないのか。

僕は自分からトラブルを起こすことは絶対にないのだが、相手から不条理な裁定をつきつけられたら、毅然とした態度を示すことはある。だが結果として「人間関係でよくトラブルを起こす」と言われる。

「お前は頑固で絶対に折れない」とも言われる。 だがその人が明らかに一般常識と照らしあわせて不条理なことを言っているなら、毅然とした態度を示すことはある。だが結果として「お前は頑固で絶対に折れない」と言われる。

「僕が頑固で絶対に折れない」 としたら、それは本質的に、僕という人間に映しだされた彼自身の頑固な姿だ。 僕の力ではどうすることも出来ない。


「お前は人の話を聞かない」・・・この言葉の本当の意味を翻訳すれば「僕の面子を立ててください」と言うことなのだ。

僕は彼の面子を保つ為にどうすればいいのか。難しいところは、1+1は3です! と言っている彼に対して「わかる! 僕もそう思う! 1+1は2なんて酷いこと言って悪かった!」という様な反応を示しても、結局納得せず、結局火に油を注ぐ結果になることが多い…ということだ。


面子を立てる

僕は16歳で社会に出てから、人の面子を立てることばかり考えてきた。バイト先の上司はもちろんのこと、会社で働いている時も、上司の面子を立てることを考えてばかりいた。僕が望まないおどけたピエロばかりを演じていることに、自己嫌悪があったが、周りの人の面子を立てることは、生活上必須だった。

2005年に日本を出てからは、とくにその傾向が強くなった。僕が前にでると、それだけで何かと角がたつ。僕が何もしていないのに、機嫌を悪くして怒る人がいる。それがいやで、可能な限り存在感の薄い人間を演じて、可能な限り主張を減らしてきた。存在感を消す方法で一番よいのは、喋らないことだ。

だがそれでも、僕は怒られる。僕が何もしていなくても、僕の存在自体が、周囲の人間の面子を潰してしまう。

僕は、今年で45歳だ。ニートだ。仕事もない。家族もない。貯金もない。子供もない。僕には、何もない。いちおう、ジャズマンのようなことをやっているが、プロと言えるような活動も何もしていない。

この無名の哀れな「おかあつし」に、何を怒鳴る必要があるのか。

面子を立てない

 ─── だが僕ももうそろそろ、自分の砦(とりで)が欲しい。

他人の面子を潰して、自分の面子を守ることも考えないといけない時期がきている・・・否、自分の面子をたもたないといけない時期は、とっくに過ぎている。もちろん他人の気持ちを恣意的に踏みにじるようなことがあっては、絶対にいけない。だが自分の足で立って、自分の立つ場所をきちんと切り拓いて行かなければいけない。

ジャズ音頭について

日本のジャズは面白くない。どれくらい面白くないかというと、日本のジャズファンが目もくれないくらい面白くない。日本のジャズファンは、耳が肥えている。日本のジャズファンは、日本のジャズマンのなぁなぁで慣れ合っている面白くないジャズなど聴かない。生の人間のぶつかりのある音楽しか聴かない。

僕が個人的に日本のジャズが嫌いなところは、プロ/アマ問わず、誰の演奏を聞いても、リズムが「トントコトンのスットントン」という音頭風になっていることだ。それは一流と言われているようなプロの人でも、ごく一部の例外を除く、全員から感じる。

そこで僕は日本のジャズのリズムと、黒人音楽のリズムをそれぞれ解析して、機械的に演奏するだけで黒人音楽のリズムに近くなるような方法論を考えた。あまり主観的にならず、できるだけ機械的に演奏するようにしている。

具体的にいうと、前小節から先行して始まり1拍目表を弾かずに飛ばす…というただそれだけのことだ。

詳しくは次のページで述べた。

何故、日本人は縦乗りなのか ─── 縦乗りを克服しようシリーズその1
縦乗りの起源・日本語のリズム ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
縦乗りをよく知る・縦乗りと裏縦乗り ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
日本語のイントロ ─── 縦乗りを克服しようシリーズその4
ジャズと揉み手

だが今日僕は演奏して気付いたのだが、セッション中でこのリズムを出すと10人中10人が数えられなくなってしまいロストする。タイミングがずれて、 僕が着地点として想定している4裏の場所が、めくるめく、移動してしまい、僕が着地すべき地点が消えてなくなってしまう。

日本で各地のジャムセッションに顔を出すと、この1拍目表を弾かないといけないという同調圧力の強さは、壮絶なものがある。僕は「日本人は」という言葉を使いたくないのだが、これは明らかに日本だけに特有なものだ。それはアジア人の特徴ですらない。中国人も韓国人もタイ人もベトナム人も、この特徴は持っていない。 僕は10年間アジア放浪するなかで、この特徴を持った人達を日本以外のどこでも見たことがない。

日本人は、この「音頭ノリ」がないかぎり、リズムに乗れない。音頭ノリ以外は全て「普通ではない」リズムであり、迫害の対象となってしまう。

「ジャズ音頭」など、日本のコアなジャズファンが聞くはずもない。この点を和製ジャズマンは謙虚に認め、反省するべきだと僕は思う。

海外のセッション


日本のセッションでは、だいたい2小節に1回くらいは、1拍目頭にジャーンとシンバルが入る。これは僕には「ドドンガドン音頭」にしか聞こえない。上記のビデオは、ニューヨークのスモールズでのセッション演奏の様子だ。

明らかに1拍目表の音を出す頻度が違う。 1裏2裏3裏4裏が平均的に出てくる。1拍目頭も出てくるが、さほど多くない。これと比べると日本のセッションでは、 明らかに1拍目表の音が出てくる頻度が高い。

僕は毎小節毎小節、毎度毎度必ず1拍目表の音を強調することが、気持ち悪くて仕方がない。だから1拍目表を抜かして、裏だけを演奏するのだが、これをやるとみな、どこを演奏しているかわからなくなり、迷子になってしまう。

日本のジャズには、色々な気持ち悪い癖がある。例えば、日本のセッションに行くと必ずでてくる123を叩いて4が抜け、1がものすごく早い位置に突入して4拍裏に聞こえるけど表… というフィルインに、僕はどうやっても馴染めない。


日本人の語学とジャズ

僕は今まで、海外の外国語を學んでいる日本人を見て、僕が思うような語学のレベルに到達している人を(ごく一部の例外を除き)ほとんど見たことがない。耳から聞いたことを体験的に学習していくことができる日本人は、ほとんどいない。

日本人で語学が得意なタイプは、大抵、秀才型で定型文を暗記することで、会話能力を模倣している。この方法だと、会話の変化に弱く、しゃべり方がぎこちなくなりがちだ。

恐らくだが、日本人のジャズミュージシャンにも、同じことが言える。

僕は今まで、日本人は基本的に色々な民族の寄せ集めで、決まった特性はない…と思っていた。 だが『語学が苦手』『運転が下手』『リズム感が悪い』は、ほぼ共通している。これは日本人の民族性といって差し支えない程に共通だ。

リズム感の無さの正体を日本語のリズムに求めていたこともあるし、それは依然として有力な説ではあるのだが、しかし音頭などの民謡の達人は、日本語で見事なリズムを構築する。 リズム感のいい人は、音頭だろうが、民謡だろうが巧い。 日本語が持つリズムの特徴だけがリズム感のなさの原因とは、思えない。

ジャズ日本方言

日本のジャズというのは、恐らく一種の方言なのだ。日本のジャズは、リズムの解決点や、開始点の捉え方が、米国を始めとする全ての国のジャズと大幅に異なる。

みんなが方言を話している中で標準語を話すといじめられる。和製ジャズでも、これと全く同じ現象が起こる──和製ジャズも方言だからだ。

僕も『ジャズ語日本方言』を喋れば、全て丸く収まる。 タイでタイ語東北方言を話せば、全てが丸く収まるのと同じで。 だけど僕がタイ東北方言を学んで、結果とても腹立たしかったのは、大変な努力をしてタイ語東北方言を勉強し、喋れるようになったのに、褒められるどころか、逆に凄く見下されるようになったことだ。

みんな自分が方言を話しているという事実を快く思っていないのだ。

 ─── これは『ジャズ語日本方言』でも同じことが起こるだろう。

東京という土地柄


東京のハイソな街で活動している方々は、大抵東京者ではない。ネイティブ言語も標準語ではない。血を流すような努力をして訛りを修正している。だが大抵の場合、訛りはそれでも残る。

では東京者が訛りを修正しなくていいのかといえば、それはとんでもない間違いだ。 僕は東京出身だ。近所に、関西人も九州人も関東人も東北人も混在している ───そういう激しい訛り偏りと多様性が共存する中で育った。 彼らの子が全員、同じ小学校に通う。だから、どれがどの地方の方言と意識することすらもないまま、そういうイントネーションが身に沁みついている。 大きな場末の繁華街のの話なので、中国人も韓国人もインド人もインドネシア人もフィリピン人もいる。そういうボーダーレスな環境で育った。

『東京者』は、基本的にあちこちの地方の混血児なので、どの地方の性格にも100%なりきれない。結果的にどこにも属せない。ある意味では、どこのコミュニティーにも属すことができるし、どこのコミュニティーにも属すことができない。

東京者は、常によそ者なのだ。

僕もひとつのコミュニティーにどっぷりと完全に属してみたい ─── 僕が5ヶ国語を学んだのは、そういうチャレンジの一環だった。

実際にやってみると、それは「訛りの修正」との闘いだ。ちょっとした言い回しの違い、ちょっとしたしぐさの違いが、大トラブルに発展してしまう。そのコミュニティーに入ったらひたすら神経を尖らせて、みんなの一挙手一投足を観察することになる。

実は、そういう『訛りの修正』 というのは、僕がジャズを演奏するときにやっていることでもある。僕が持っている『日本語訛り』を、如何にして自分の演奏から消していくか。それは逆に、日本語の特徴を理解することそのものでもある。


和製ジャズへの違和感

僕が感じている和製ジャズに対する違和感は、次のようなものだ。明らかに訛っていっるのは自分のほうなのに、それを棚に上げて相手に文句ばかり言っている ─── この様な感じで。

「おめ何言ってんだ?! これが標準語だべー? 」
「確かにそういう標準語もあるかも知れませんが、だけどその『だべー』というのは、多分方言なのかな…と。」
「何いってんだあんた、間違ってんの、おめぇだっぺ?!何だおめぇのそのしょうじゅん語は!?」
 「いや、それ『しょうじゅん』じゃなくて『ひょうじゅん』です!」
「おめぇこのやろう! ホントに頑固なヤロウだな!これがしょうじゅん語だべ〜!?」
「だから違います!」
「お前は何で独りでそうやって強情はってんだべ?!」

僕はいつも「強情だ」「頑固だ」「人の話を聞かない」と言われる。別に人の話を聞いていない訳ではない。だが、彼が喋っているのは、明らかに方言なのに、彼がそれを方言だと認識出来ずに、それを否認しつづけている、その違和感は強烈だ。そういう人に相槌をうたなければいけない時の違和感。これだけは、どうやっても受け入れがたい強烈さがある。

─── 否、僕はもうそれも受け入れてしまった。違和感があるのも仕方がない。人の話し方は、人それぞれだ。

だがそれでも問題は、起こるのだ。

僕は、実生活上で、バンコクでも東京でもラオスでも昆明でも、日本人コミュニティーに入っていって、僕が一言でも話した瞬間に、理由なく相手が怒り出すという現象に何度も出くわした。みんなが集まって標準語で談笑している場面などに加わって、僕が一言でも話すと、全員の顔にサッと氷が張ったようになり、そこで空気を読まずに退出しなければ、大抵あとで怒鳴られることになる。

この問題が起こる確率は、明らかに高い。衝突が怖いので、日本人コミュニティーを見つけたら、 可能な限り言葉を話さない様に気をつけていた程だ。だが、僕が何も言葉を発していなくとも、雰囲気だけで怒られることすらも、しばしばある。

これは恐らくだが、ジャズの世界でも起こっている。 なぜなら、僕は一言も喋っていないのに、ギターを弾いているだけで怒られることがあるからだ。

僕が与えている違和感

怒られる原因は、恐らくだが、みんなが方言を話している中で、僕1人だけネイティブ標準語を話しているからだ ─── それは、実生活も、ジャズの生活も、恐らく同じだ。

色々な考え方の人が集まって、理解しあうことは理解しあい、妥協することは妥協しあって、協力しあって、よりよい社会を作っていく。そういう合理性を重んずることができるからこそ、日本は発展してきた。それがアジア最強の国・日本という国の最大の特徴の筈なのだが…。

もし日本が島国でなければ、外国から多くの人が入ってきて、日本人は否応なく自分の真の姿と向き合うことになった筈だ。「お前は強情だな」「お前は折れるところを知らない」「お前は空気を読まない」「お前は人に対する配慮がなさすぎる」の4点セットで押し付けてきた傲慢を全て解き明かされ、真正面から自分の姿と向き合わなければならなくなる。否応なく、訛りも修正される。否応なく不合理も訂正される。

 ─── だが悲しいかな、日本は島国。



「訛ってるのはおめぇだっぺ!」

「んだこれがしょうじゅん語だっぺ!」

「んだんだ!」

「強情張っても得なかっぺ!」

「いい加減に折れたらどうだっぺ?」

「わかりました。もうしわけありませんでした。」



最後に


「クールヘッド・ウォームハート」という言葉がある。僕のやっていることは複雑で、理解を得難いこともある。だが音楽の内容は一切妥協しない。音楽の内容は飽くまでもクールヘッドに。しかし音楽以外は、ウォームハートで行く。

音楽の内容は一切妥協しなくとも、人の気持まで踏みにじらなくてもよい。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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