僕は最近、怒りっぽくなったかも知れない。前はもっと気長に人の話を聞いていたかも知れない。何故だか考えてみる ───
僕は何故かはわからないが、僕が思ったことをそのまま他人に伝えても誰一人としてそれを「その通り」と両手を挙げて同意してくれる人間が存在しない、変わった人間らしい。一方僕も、他人が言うことのほとんどが「その通り」と両手を挙げて同意できない。他人の発言に対して常に違和感を感じている。僕の考え方はどうやら、一般的でないらしい。
僕は、自分の思いを100%他人にぶちまけるという行為が、色々な意味から許されない人間だ。ストレスが溜まって100%の思いを相手にぶつけてしまう事もあるが、結果として大抵の場合、後悔する結果となる。しばしば安易に僕だけが悪者とされてやり過ごされてしまったり、全責任が僕の元に押し付けられてしまったりする。
よって僕には、相手をよく観察し、相手の意見をよく分析し、相手が何を考え、何を感じているのかをよく理解するという習慣がある。そして相手の思考の範囲内で、自分の感じている事を表現し変えることが癖になっている。
人によって考え方は、本当に様々だ。見ている点が全く違う。見ている物が違う。見ている物に対する感想も違う。見ている動機が違う。見ている目的が違う。見ている物の分析の仕方が違う。見え方が違う。視力が悪い人も居る。視力が良い人も居る。見間違える人も居る。錯覚して見えない物が見えてしまう人も居る。自分が見えていない何かを見る能力を持つ人も居る。相手が見えていない何かを見る能力を自分が持っていることもある。
自分の意見と相手の意見が食い違うと感じたら、その考え方の違いが生まれた背景を、ひとつひとつ丹念にチェックしていくよりない。まるでコンピュータープログラミングの間違いを探す『デバッグ作業』の様な作業だ。こうやって相手の考え方と自分の考え方の成り立ちの違いを探し、相手の考え方の上で、自分の考え方を再現していく方法を探る。
こうして色々な人を見ていくとしばしば、人々がまったく類型にはまらない事に驚く。全員違う。人々にある程度の類型があるなら、前回分析した結果を応用し、分析する時間を短縮することも出来るだろう。だが毎回全く異なるので、毎回毎回、分析に時間が掛かる。
だがこうして僕は色々な人と話す機会を得て、漸く『他人と自分の考え方の違いを分析する』という作業自体に慣れた、という事はある様な気がしている。
この『作業』に慣れると、新しい見地を得る。例えば、ある2人・AとBがおり、意見の違いで喧嘩になっているとする。すると僕は、ABの両者の考え方と自分の考え方の比較する事により、このAの考え方とBの考え方の成り立ちの違いを見ることが出来る。すると僕は、Aの考え方の上でBの考え方を再現することができるし、Bの考え方の上でAの考え方を再現することができる。大抵の場合、見ている物は同じなのだが、その見ている角度が違ったり、どこから見ているかによって色合いが変わって見えたりすることによって、意見が違っている様に見える場合が多い。 その見解の違いを橋渡しすることが出来る。
だがこうして『作業』に慣れると、また違った見え方もしてくる様になる。「お前ら、もう少し他人の考え方に理解を示しても良いのではないか。」「お前ら、もう少し他人の考え方を理解する努力をしても良いのではないか。」「何故、僕だけが他人の理解にこんなに尽力しなければいけないのか」「一体いつになったら僕に、僕が言いたいことを言っていい時が来るのか。」「お前ら自分が言いたいことをぶちまけてるだけではないのか。」と。
その人らが相手を理解する為にできることはまだまだたくさんあるのに、やらない。やりたくない。やるつもりがない。その人のコミュニケーション力の限界を見る様な心持ちになってくる。色々と言ってあげたい事はあるのだが、それらはダイレクトにその人の心の弱さと結びついており、言えばその人の気持ちを壊してしまう。だから言えない。近頃、そんな苛立ちを感じる様になった。僕は、以前よりずっと物を言わなくなった。
もっとも、彼らは意見をぶつけているだけマシなのかも知れない。大抵の人は、意見すらぶつけない。思ったことすら言わない。人と人の間に架け橋を作るつもりすらない。
さて、僕はこうして外国に来た。それで思う事は、外国では、人の類型がはっきりしているということだ。日本の様にひとりひとりがバラバラで毎度毎度、ゼロからの分析をしなければいけない、ということがない。類型があるので、分析を重ねる度にまた更に深い理解が得られる。食べ物の好み・生活習慣・考え方・思考パターンが近い人が集まって生活している。生活習慣が違う人は、違う人としてわかれて生活しているので、分析の傾向対策をし易い。分析しやすい。
住み分けがはっきりしている以上、相手の考え方を理解して、自分がそれにあわせればそれでよい。当然だが、日本人は外国では異民族で、他人の土俵で相撲をしているのである。自分の意見を相手に理解させる事に必要はない。むしろ相手の意見を自分が理解すれ ばそれで充分だ。人々の類型がはっきりしているので、相手の意見を理解することはさほど難しくない。相手を理解して相手の行動にあわせれば、それで充分 だ。自分の意見を相手の意見上で再現するというややこしい作業をする必要はほとんどない。
だが日本人は、こうして類型のはっきりしている外国に来ても、分析しない人が多いようだ。日本人は、どうも自分が相手の考え方を理解することよりも、相手に自分の考え方を理解させることの方が多い。
恐らくだが、日本で生まれ、日本で育ち、「他人を理解する」という事を最初から諦めてしまった人が多いのではないだろうか。
日本人は「自分の気持ちを100%理解出来る人なんかいない」とよく言う。本当にそうだろうか。
日本人は、他人と気持ちを共感することがほとんどできない。だが外国に来て住み分けがはっきりした中で生活していると、日本人が思っているよりもずっと他人がはっきりと見えるものだ。日本人の様に、ひとりひとりがバラバラに違うという、カオス的でないからだ。
日本は『民族カオス』だ。全ての人が、全く違う好み、全く違う視点と、全く違う習慣を持っているのに、一切住み分けず、同じ家に同居して、お互いを痛烈に批判し合う、非常に居心地の悪い『民族カオス』。日本人は、民族カオスの中で生まれ、民族カオスの中で育ち、民族カオス独特の、強烈な孤独感を募らせる。
日本人は、外国に来て初めて日本の『民族カオス』を知る。
日本人は、日本の『民族カオス』の存在を知らない。
出処のわからない強烈な孤独感。
そんな得体の知れない孤独感が「自分の気持ちを100%理解出来る人なんかいない」という言葉となって現れるのではないだろうか。
自分を理解させるのではなく、他人を理解する。
自分を理解してほしければ、まず他人を理解する。
話し上手になる前に、聞き上手になる。
日本人はみんな違う。
このことを怒っても嘆いてもしかたがない。
受け入れないと始まらない。
もし日本人みんなが「みな違ってよい」という寛容さを持ったら、
日本人の人間関係は恐ろしくシンプルになるだろう。
平等とは、違いを否定することではなく、違いを認めてそれを受け入れる事だ。
違いを認める事は差別ではない。
むしろ同じである事を強制する事の方が差別だ。
このことを怒っても嘆いてもしかたがない。
受け入れないと始まらない。
もし日本人みんなが「みな違ってよい」という寛容さを持ったら、
日本人の人間関係は恐ろしくシンプルになるだろう。
平等とは、違いを否定することではなく、違いを認めてそれを受け入れる事だ。
違いを認める事は差別ではない。
むしろ同じである事を強制する事の方が差別だ。