以下、その盲目性がどういうものか、何故その盲目性が生まれるのか、そしてその盲目性を克服する為にはどうすればよいのかを考察すると同時に、日本独特な人間関係の面倒くささが生まれる理由・そして日本の人間関係の新しいありかたについて論じる。
この話題に興味を持つ人は少ない。だが、世界に飛び出す日本人にとっても、日本で過ごす日本人にとっても、有意義であるに違いない、と筆者は信じる。
アメリカのテレビ番組、デビッド・レターマンのレート・ショーを見ていると、ゲストがラテン系の時のレターマンの話し方と、ゲストが白人の時のレターマンの話し方がかなり違うことに気付く。レターマンは白人(アングロサクソン)なので、恐らくゲストが同じ白人の時は自分と同じ感覚で話せるのだろう。だがゲストが非アングロサクソンの時はレターマンの話し方が拙くなる様な感覚がある。実際、非アングロサクソンのゲストは英語が拙く、レターマンがその話し方に合わせているのではないだろうか。
バリバリにラテン系のスヌーキ
スヌーキよりは大分アングロサクソンっぽいエマ・ワトソン
何故そう思ったかというと、筆者が専門で研究しているタイ語とタイ語の方言=イサーン語でも同じことが起こるからだ。タイの東北人=イサーン人は普段タイ語ではなく、ラオ語(イサーン語)を話している。ラオ語を話す人はタイ語を話す時にどうしても拙くなる。ラオ語とタイ語は、ほとんど同じ言語と言っても差し支えない程に近い言語同士であり、実際タイ国内ではラオ語はタイ語の方言だとみなされている程だが、この2つの言語は、基礎単語や語順・決まり文句などに微妙な違いがあり、同時に話し分けることは決して容易でない。ラオ語話者がタイ語を話そうとすると、どうしても言葉がつっかえたり拙くなったりしてしまう。
大陸では、往々にして人々は隣り合った異なる2つの言語を同時に話し分けている。だが日本人はその点、非常に特殊な環境に位置する島国の日本に住んでおり、状況が大陸と大きく異なる為、こういう訛りや言葉の拙さに対する認識が、大陸の人が持っている認識と大きく違う。このことが原因となって、日本人が大陸にやってきても、人々が陥っている複雑な問題に対して共感を持つことが難しいのではないだろうか。
何故、非アングロサクソンの人達は英語が拙いのか。それは恐らく、他にスペイン語・ポルトガル語・フランス語・ドイツ語などの、英語にとって近隣である言語を第一言語として話しているからだろう。移民してから数十年以上経って、母国語を忘れてしまった人も居るかも知れないが、不思議なことに、移民の子孫らは移住した地で生まれて育ったにも関わらず母国の訛りを残すことがままある。それが何故なのか、筆者にはわからない。親戚が話す訛りを拾ってしまうからか、それが民族の血なのか、それが何故なのかは筆者にはわからない。だが筆者はタイに住んでいて、タイ語が第一言語であるにも関わらずタイ語が訛っている移民2世をしばしば見かける。英語を第一言語として話す人達も同じことが言える。たとえ英語が第一言語であったとしても、民族背景によって英語に様々な訛りを残している人は、多い。
人種を問わず常にあらゆる民族のゲストを迎えているプロの司会者のレターマンは、こういう民族背景の差を柔軟に受け入れつつ、面白く話を聞かせなければいけない。だからこそ、レターマンの話し方が、ゲストによって大きく変わるのではないだろうか。
大陸の人達は、言葉には出さない(出せない)が、人には民族や人種の違いがあり、決して相容れないと、理解している。人の性格は、個人ごとに違うのではなく、民族ごと・人種ごとに違うと、当然の様に気付いている。そして自分の民族と違う隣の民族の人を、その違いを柔軟に受け入れ、相手にあわせたり、相手に合わせてもらったりしながら、人の違いを乗り越えてコミュニケーションしている。「平等」という美しい理想を振りかざしつつ、それが実は非現実的な机上の空論であることを理解している。
だが日本人には、言語を学ぶ上での大きな障害『民族の違いに対する盲目性』というものが存在する。この『民族の違いに対する盲目性』は、日本人の最大の特徴だ。日本列島の外に住んでいる人達は、持っていない特徴だ。日本人が英語を学ぶ際、この英語が持っている「訛りと拙さ」について正しく理解することは、極めて大切だ。だが日本人は英語の方言を見ても、それが理解出来無いばかりか、方言の存在にも気付かない。それどころか民族の違いにすら気付かないことも多い。これが『民族の違いに対する盲目性』だ。 日本人が外国語を学ぶに当たって、この『民族の違いに対する盲目性』を克服することは極めて重要だ。
方言を正しく理解する為にはどうすればよいのだろうか。実は、実際に英語の「訛りと拙さ」について知識を得る必要はない。むしろ英語でない方が良い。日本語と日本語に近い言語の違いを知ることの方がずっと重要だ。何故なら、この「訛りと拙さ」という現象は、日本語にも起きているからだ。日本語にも同じ現象が起きているが、島国という特殊な立地によって、その現象が見えなくなっている。
日本人は『民族の違い・方言の違いに対する目利き能力』というものが、存在することを知る必要がある。この能力は大抵の日本人が持っていない。だが日本列島の外に住んでいる人は、大抵の人が持っている。例えば筆者がよく知るタイ東北人・イサーン人はその能力を当然の様に持っている。政府から「タイ語の方言」だと決め付けられたラオ語を第一言語として話し、しぶしぶタイ語という押し付けられた標準を第二言語として話す人達=イサーン人は、常にタイ語とラオ語の違いに頭を悩ませることになる。よって英語を話していても、そこにある方言や発音の違いを見ると「あぁタイ語ラオ語の違いと同じことか」と即座にそれを見ぬく。
日々、隣の民族とのコミュニケーションに頭を悩ませている人は、異民族と付き合うことに慣れている。異民族と付き合うことに慣れている人達は、外国語を話していても、そこに存在する方言の存在を見ぬく。筆者はしばしば、英語を学ぶイサーン人(タイ東北人)が、英語の方言の存在を即座に見抜くところを目撃する。何の教育もない頭の悪い売春婦や、生まれてからこのかた稲刈り以外に何もしたことがないような無学な農家のオバサンが「○○さんは、I have ○○○という言い方をするのに、△△さんは I has △△△なんていう変な言い方をする。」と、即座に英語の方言を理解するのである。
日本の外語科で十年以上に渡って外国語に関する研究を続け、大学院まで卒業しているのに、民族や方言の違いに全く気付かないばかりか、筆者が民族の違いや方言の違いに話題を向けるだけで「考えすぎだ」「思い込みだ」「妄想狂だ」と発狂したように叫び始める、日本の語学エリートを思う。そんな日本の語学のプロ達が筆者に与える不条理感に、長年にわたって苛まされている筆者としては、タイ東北人のずばぬけた語学センスを目撃する度に、目眩がするような驚きを感じる。否、方言の違い・民族の違いを理解出来るのが世界の当然なのである。 日本の語学研究者は、語学能力に於いて、タイの売春婦に劣る。
日本人の『民族の違いに対する盲目性』は、一体どこから来るのか。
日本は、太古の昔から移民の国だ。世界的に見ると、移民は、馬車・自動車などの近代的な乗り物が発展して以降に現れたものだ。だが日本はその特殊な位置環境により、太古の昔から移民の国で在り続けたのではないか。日本列島は、はるか北から流れてくる寒流=親潮と、遙か南から流れてくる暖流と黒潮の間に挟まれた島だ。この様な立地にある島は、世界的に珍しい。太古の昔からこの海流に乗って、大陸からの様々な民族が日本に流れ着く。黄金の国ジパングと呼ばれる憧れの地、日本。ある者は富に憧れ、努力の末に日本にやってくる。ある者は嵐に遭遇し漂流し、偶然に日本にやってくる。
そもそも、日本は国名が外来語という変わった国だ。中国がつけた国名=「日本」。 この中国名の中国の発音である「リーベン」が訛り、ニッポン・ニホン・リーベン・イープン・ヤパン・ヤパーナ・ジャポン・ジャパン・ジパングと世界中から呼ばれた日本。この様に、日本人は何故か、自分の視点を持たない。自分自身に対してすら、視点を持っていない。これは筆者は、日本が太古の昔から移民の国であることが関係しているのではないか、と推論している。
日本人は、海流に乗って移動することで、近代的な動力なしでも、人力で日本を一周できる。日本人は太古の昔から、船に乗ることで何千キロという長距離を移動してきた。それも米俵などの膨大な富と物資と共にである。海のない大陸ではこうはいかない。何千年も掛けて500kmや1000kmという距離を徐々に移動する。タイと比較すると判りやすい。チェンマイとバンコクはたった800kmしか離れていないが、この距離をタイ人は何千年も掛けて移動してきた。海のない大陸での800kmは、永遠といえる程の距離がある。チェンマイとバンコクは、もともと異なる国・異なる文化圏だった程だ。だが、日本人にとって800kmは、大阪〜東京間だ。日本人は、太古の昔から800km程度の距離を一生に何度も往復している。
日本は民族ミキサーだ。常に大陸から異なる民族が供給される。大陸からやってきた様々な民族が、日本列島内で激しく行き交い、混じり合う。人々は働く。異民族と恋をする。子を生む。こうして、複数の民族の特徴を同時に持つ人が現れる。(オタク系マンガでもてはやされる、巨乳なのに子犬系彼女の可愛らしさを持つ女の子は、実は日本にしかいない。日本の外では、子犬系彼女は必ず血液型B型の寸胴体型であり、巨乳系彼女は必ず血液型がO型でゴリラ顔である。天は二物を与えない…日本以外では。)
筆者は、もし自分が日本列島の外で漁師のとして生まれ、漁に出て嵐に遭遇し、長い間の漂流生活の後に、日本に流れ着いたら、どんなだったろうか、と空想する。浦島太郎の様に浜辺に打ち揚げられた漁師。見慣れない人々。日本の周辺地域の人々の習慣と比較すると、日本人の習慣は恐ろしく奇妙だ。漂流して流れ着いた島に住む人達の奇妙な習慣を見て、面食らう。そうだ。「郷に入ったら郷に従え」という。よって、とにかく日本の人達がすることを見様見真似で真似をして適応しようとしたのではないだろうか。
そして、その様な移民が無数に日本にやってきたらどうなるだろうか、と更に想像をたくましくする。実際そういう移民は大勢居るだろう。すると恐らく、全員が「郷に入ったら郷に従え」と考える様になるのではないか。
これは現代の日本の人間関係そのものではないだろうか。日本人は全員が「世間体」を気にしている。そしてその「世間」というものは、どこにも存在しない。日本人には中心が存在しない。
否、日本人は「郷に入ったら郷に従え」などとは思っていない。日本人は同類で固まりたがる。だが、同類で固まりたがるのは日本人に限った話ではない。大陸人はもっと激しく同類で固まりたがる。大陸人の頭の硬さは日本人の比ではない。極力、同類以外と関わりを避けようとする。同類以外は、まったくもって没交渉だ。そして地域ごとに同類で集まって住む=住み分けを作る。これがつまり「民族」をかたちづくる。
だがしかし、考えてみても欲しい。こんな小さな島国の中が、つい数百年前まで、50以上の国に分かれて戦争していたのである。大陸から流れ着いた無数の民族が、小さな日本の中で住み分けを作って別れて住んでいたのだ。そんな奇妙な国など世界中どこを見渡しても存在しない。それだけではない。それを日本は自力で統一したのである。そんな奇妙な国など世界中どこを見渡しても存在しない。これは中国大陸・ヨーロッパ大陸・ユーラシア大陸・アフリカ大陸を含む、全ての大陸人にとって絶対に真似のできない快挙だ。天然国家ニッポン。大陸では、国境とは覇権国の都合で勝手に引かれる堺である。国家とは覇権国の都合で勝手にまとめられた集団だ。日本は海という天然の国境によって、覇権国の影響なしで勝手にまとまったのである。
筆者は、外国で民族の違いを知るにつれて、日本人が『民族差』を『個人差』として認識していることに気付くようになった。例えば、日本人にとって血液型とは個人差の範囲だ。だが、大抵の国では血液型と民族は完全に一致しているものだ。例えば、タイ人やラオ人はほとんどの人がO型だ。タイ人でも華僑系の人達(潮州人や福建人)は、大抵の人がB型だ。よってタイでは、血液型が『占い』にならない。占いとは「当たるもハッケ・当たらぬもハッケ」だからこそ面白い。だがタイでは、血液型と民族(顔つきや性格)が完全一致しているので、血液型占いは必ず当たる。百発百中で当たってしまう。当たるどころか、顔を見るだけで血液型を言い当てる事が可能なほどで、もはや「聞くまでもない」レベルに到達している。つまり全く面白くない。血液型が、興味の対象として成立しない。日本の様にA/B/AB/Oが全て平均して存在する国は世界的に見て極めて稀なのである。
民族の違いとは、異性の好みに顕著に現れる。男は大抵、自分と同じ民族の女が一番美人に見える。女は大抵、自分と同じ民族の男が一番格好良く見える。筆者はしばしば、タイで「あぁこの顔は日本では非モテ系ブサメンとして蔑まされて絶対に彼女が出来無いタイプだ」と思うタイプの男性が、タイでは「知的なイケメン」として扱われ、自信満々にファッショナブルなスーツを着こなして彼女と腕を組んでいるところを目撃する。逆もまた然りである。非日本人男性が、日本で「非モテ系ブス」という名を欲しいままにする女性を見て、「そんなもったいない!これがブスなら俺が貰う」と狂喜するところを何度も目撃した。筆者はこれを、日本人が「民族差」を「個人差」として認識し、その個人が持っている民族の価値観を元に、ブス・美人という価値観で断罪している為に発生する現象だ、と認識している。
大陸の見方で比較すれば、違う民族という 程に人の基本性質が違うのに、日本ではそれが『個人差』として認識され、特定の人達が持っているブス・美人の価値基準で断罪される。この様な一方的な価値観の適用は、本来、差別行為だ。顔の傾向は民族によって異なる。どちらが美しいどちらが美しくないと、一方的に決め付けるべきでない。
日本人が外国に来て、そこに住む人達の民族差に気付かないのは何故か。それはつまり、民族差をただの個人差として認識しているからだ。日本人に差別など存在しない。あるのは「美人」「ブス」「イケメン」「ブサメン」の違いだけだ。そしてその価値基準は人によって『個人差』があると考えている。この日本人が思っている『個人差』は本来、大陸では民族の違いを生み出す原動力である。
国民全員が「郷に入ったら郷に従え」と考えている日本人には、中心など最初から存在しない。日本に「普通」など元から存在しない。 否、自分は必ず「普通」だ。誰しも自分が「普通」である。つまり誰かがいう「普通」とは、その人自身の事だ。「お前は普通ではない」という言葉は、つまり「お前は自分と違う」と翻訳できる。日本人は誰しも他人と違う。誰かが思う「普通」は、必ず誰かが思う「異常」である。誰かが思う「異常」は、必ず誰かが思う「普通」である。
日本の「普通」という言葉の不幸なところは、自分が「普通でない」と断罪されて糾弾されて仲間はずれにされることを避けるために、自分から先に他人を「普通でない」と断罪して糾弾することで、自分の立場を守ろうとする習慣があるところだ。日本人の誰もが普通で、誰もが普通ではない。「普通」という言葉は、先に言った者勝ちである。
本来、日本の「普通」という概念は、どちらが多数派かどうかとは関係がない。日本では、ある場所での多数派は必ずある場所での少数派だ。ある場所での少数派は必ずある場所での多数派だ。普通とは、飽くまでもその人がどう思うか、それだけによって定義される。
日本の社会が面倒なのは、日本が村社会だからではない。日本が多民族社会だからだ。全員が違う村が出身なのに、村社会を作る事は出来無い。それどころか、日本人には、村気質の人も大陸気質の人も混在している。村気質、大陸気質の両方が居る中で、村社会など作ることは出来無い。日本人は、皆、違う。
日本人にとってもっとも必要なことは、自分の「普通」を相手に受け入れさせることではなく、相手の「普通」を自分が受け入れることだ。
出る釘は打たれる ─── だが出ない釘も結局打たれる。結局打たれるなら、飛び出た方が良い。打たれないこともある。打たれても大抵は平気だ。飛び出た釘は、引き抜かれることもある。飛び出た釘がない国は、引き抜かれる釘もない。そして、飛び出た釘を、自分が打ってはならない。
これが『日本の新しい普通』である。
普通2.0