nhatという男性が居る。nhatは語学系のネット上のコミュニティーで知り合ったあるネットユーザーだ。nhatは僕が知る限り、語学の天才だ。語学に関して恐ろしく高い才能があり、未開の地に行ってそこの言語を恐ろしいスピードで覚えてくる。その才能はいつも見ていて目を見張った。今まで調べた言語は詳しく聞かされていないが、恐らく10はある。
だが実際のところnhatは、どの言葉も正しく話せない。どれもこれもつまみ食いしているだけなので、どれもこれも深く理解していない。延々8年間同じ言語を学び続けてきた自分には、その事が見える。
どれかひとつでも良いので、言語と方言によく親しみ、深く理解していれば、類推を使って他の言語も理解する事が出来るのだが、彼はひとつのものに打ち込む根気を持っていない。これが彼の才能の限界だ。
彼の才能の限界は他にもいくつかある。彼は自分の考えを誰もがわかる日本語に表現する能力を持たない。これも彼の才能の限界のひとつだ。わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない文章しか掛けない。理解してくれる人はべた褒めするのに、理解出来無い人はクソミソに馬鹿にする。本来、書いた文章を他人が理解してくれない理由は、書いた人自身にある。だが彼は無理解の責任を読む人に求める傾向がある。 折角面白い視点を持っているのに、実に勿体無いことだと思うのだが、努力しようという気配が全く感じられない。
誰もが才能を持っている。だが、才能というのは全てを網羅的にカバーしている事は稀だ。いつまでも才能に頼っていないで、才能が足りない部分を学習でカバーするようにしないと、成長が止まる。
彼の才能は一般人からは見えにくい。彼と専門が同じで同じ部分の才能を共有する人『見える人』には、その卓越した才能が見えるのだが、見えない人には皆目見当も付かない。ただのバカにしか見えない。
誰も彼の事を認めてくれない。で、唯一認めてくれる存在だった僕の所に来る。で亭主関白。延々と威張り続ける。僕に意見を納得させて満足する。僕が反論すると全てそれを拒絶し、僕に謝らせる。僕が強く言うと、呆れて一方的に勝利宣言して去る。が一定時間経つとまた「自己愛切れ」で戻ってくる。
延々と自説の正当性を主張する彼のしつこさには辟易した。彼の視点は極度に狭い。価値観を相手にあわせてシフトし、相手に考えに理解を示すことが全く出来ない。物事には多面性があり、見る角度によって色も変わる、輝き方も変わるという事が理解出来無い。
彼は、自分の頭の位置を固定し、自分から見えたその色を他人に延々と説明する。 自分の頭の位置と、相手の頭の位置は異なり、物事は見る角度によって色彩を変化させる、という物事の本質を見抜けない。 自分の頭の位置からみて赤だったら、相手にも赤と言わせる。自分の頭の位置からみて青だったら、相手にも青である事を強制する。彼にとって頭の位置や角度によって「赤い髪、これは夕日に照らされただけで元は黒なのだ」とか「青い髪、青空に照らしだされただけで元は黒い髪なのだ」という物事の色彩修正が出来ない。彼に言わせると、この様に動的に見方を変えることは「修正」ではなく「ご都合主義」だという。この考え方は間違っている。
彼の間違いを何度も説明してやった。だが彼は聞かない。聞きたくない。彼は自分が正しいという事を証明したいだけで、自分の間違いを修正する事は最初から目的ではない。
彼も彼なりに苦しんでいる。それはわかる。だが、僕は彼ではない。僕が彼の代わりに対処してあげられる訳ではない。
僕は彼を励ますべく、ある時期は褒めた。ある時期は無視したこともあった。ある時期はいじめたこともあった。ある時期は彼に敵を見せてぶつけてやったこともあった。ある時期は土下座して謝ってやったこともあった。
こうして気持ちを落ち着けてやって、色々な事を経験させて、彼が彼自身の欠点に気がつくのを待った。
何故、僕がここまでしてやったのかといえば、僕自身が色々な才能を持っているにも関わらず、誰にもそれを認められず、長い間苦しい思いをしたからだったのだ。彼は才能がある。その才能を無視して捨てたくない。僕が無視されて捨てられ苦しい思いをしただけに、同じ思いを彼にさせたくない、とそう思っていたからだ。
だがもうそれも辞める。何故なら次の事を思ったからだ。
- 僕は才能があり前向きに努力もしていたが、環境に恵まれぬ人間だった。
- 彼は才能があり恵まれた環境もあるのに、前向きな努力ができない人間だ。
覚悟が全く違う。
本気で相手にしてもしようがない。
僕の状況は、彼の置かれた状況と似ている、と前は思っていた。僕は以前、恵まれない環境に居た。彼も同じように恵まれない環境で認められず、苦しんでいると思っていた。
そんなかつて恵まれない環境に居た僕も今では、ある程度の時間・ある程度の経済力を持つようになった。考えごとをする時間と考えたことを実際に実現する必要十分な経済力を持つことができた。そして色々な事を実際にやって成果を出すことができた。
こうして結果が出て、今思うのだが、僕と彼は全く似ていなかった。直面している問題が全然違う。
僕が直面していた問題は、単純に環境だった。 当時から「環境が悪い」と思っては居たが、「環境が悪い」というと知人・友人一同が口を揃えて「失敗を環境のせいにするのはよくない」とよってたかって罵られた為、僕は「環境が悪い」という言葉を自らに禁止していた。だが、今こうして環境が変わり、現実に色々な成果が出ている以上、僕はもう「環境が悪かった」と言っても構わないだろう。
彼の問題の本質は、彼自身の怠惰にある。彼は「思考の勤勉さ」を自ら捨てている。何かを学ぶ際、自分の考え・価値観を、異なるものへ切り替えることは往々にして必要だ。だが、今まで学んだものを全て捨て、新しい考え・価値観へ切り替える作業はとても苦痛なものだ。 だが語学を学ぶためには、そんな苦痛をものともしない考え方の『腰の軽さ』が大切ではないか。だが、彼は決して立ち上がらない。彼はただの立ち上がるのが面倒な、腰が重い人間でしかない。
彼には覚悟がない。
意見を聞くという事はどういうことだろうか。
人はしばしば「相手の意見を理解する」という事と「相手の意見に同意する」という事を混同しがちだ。これらは、全く違うことだ。相手の意見を理解していても、同意はしない、という状態は当然ありうる。
相手の意見に同意してないのではなく、単に相手の意見を理解していないだけという事はないか。まず相手の意見を理解する事は大切だ。相手の意見を理解するというのは、相手がそう考えるに至った理由=相手の置かれた状況やこれまでの経緯などを知る事なども含まれる。
他人の意見を理解するまえに、自分の意見が理解できていない ─── 人の話を聞かない人には、そういう傾向がある。自分の意見を正しく理解する為には、相手の意見を正しく理解する必要がある。理解とは相手と自分との違いを知ることそのものだ。
同意は出来なくても理解は出来る。
頭のいい人に何かの問題について話すと、理解がまずあって、同意するかどうかはその人次第ということが、はっきり見える。頭の悪い人と話すと、まず最初の理解がなくて、延々と反論(というか穴だらけの自説)を述べるところが、はっきり見える。
実際には、理解しているかどうかも、本質的な問題ではない ─── 理解していなくても、相手にを見て、相手を理解しようとしているか ─── そこが大切だ。
何故、他人の意見を聞きたくないか。何故、他人に自分の正しさをわかってほしいのか。その理由は、ひとえに「自分の弱さを直視したくない」という点、一点だ。これは単純に覚悟の問題だ。
彼には恵まれた環境も、恵まれた才能もある。 僕のように、経済的な事情から他人に踏みにじられ、弱さを直視する事を強制され、才能も不十分、時間を剥奪され、爪を灯す様に努力を続けて来た訳ではない。彼は自分の力で解決可能な問題を放置している。彼が直面している問題が解決できない理由は、単に彼自身の怠惰だ。僕のように自分の力で解決が困難な問題と直面している訳ではない。
- 持っている才能は人それぞれだ。才能がないことを責めてはいけない。
- 持っている環境は人それぞれだ。環境がないことを責めてはいけない。
- だが努力だけは全ての人が平等に持っている。努力のなさを本来は責めなければいけない。
覚悟のないことに憐憫を感じてはいけない。
その人にとって必要なものが単に苦痛の向こう側にあるなら、我慢して取りに行けばよいだけの話だ。その苦痛を手にとり痛いと泣き叫ぶより、一心不乱でやってしまえばよい。
覚悟は常に絶望を希望へと変える。
人は、水に落ちて溺れ、瀕死の思いで陸に這い上がる。そして溺れている他者を見て、自分が溺れていた時の辛さを思う。だが助けようとしてはいけない。彼は泳げない訳ではない。