烏合の衆
2010年09月26日19:52
インターネットが主流になる1995年以前は、人前で何か発言するというのは特別な立場にある人だけが許される事だった。 つまり、物書きとか芸能人とかミュージシャンとかいう有名人だけが、発言を許されて、それ以外の人は黙ってそれを受け入れることしか出来なかった。
ところが、1995年にインターネットが主流になってからは、状況が変わった。 最初、自分でホームページを作ってホームページ上で発言する人が出現した。 この頃はまだ、自分の力でホームページを作る技術を持つ人だけが発言が許される時代だった。
その後、2000年前後から、ブログというホームページを自動的に生成するプログラムが主流になり、ホームページを作る技術が無い人でも発言が許される様になった。 しかし、ブログはある程度文章力がある人向けな技術である。 発言は世界中の人に向けて発信される。 それは世界の真理についての深い考察から、昨日のかき揚げの油が悪くて腹を下したという話まで、一緒くたに発信される。 だから、誰がどのような文脈から読んでもわかる様な書き方をする必要がある。 つまり、考えた事柄を順序立て筋道立てて、誰にでもわかるように説明する能力がある人のみが発言を許される時代だった。
2005年頃、ツイッターというプログラムも考え出された。 文章力がない人でも、短文で自分の気持ちを書き記す、という方法を使うことで、誰にでも自分の文脈を説明することが出来る。 考えた事柄を順序立てて筋道立てなくても、良くなった。 つまり、何も考える必要がなくなり、誰でも手軽に発言する事が出来るようになった。
◇
ある特定の能力を考えたとき、世の中にその能力を持っている人の確率が存在する。 例えば、ギターを弾くという能力を考えた時、世の中の100%の人がギターを弾くことが出来るかといえば、そんなことはない。 不思議な事に、まったく何の教育を必要とせずに弾く能力を獲得する人もいれば、どんなに教育を施しても弾く能力を獲得出来ない人もいる。 それは例えば、10%と言うような確率で決まるのだろう。 この様な特殊能力を持つ人というのは、皆無ではないが、一般的に言って、比較的少ない物だ。 この様に、全ての能力に、こういう確率を考えることが出来るはずだ。
つまり、ある程度筋道立てた文章を書くことができる人というのも、確立が存在するだろう。 ある程度の複雑な論理力を持つ人にも確立が存在する筈だ。 「AはBです、BはCです、CはDです、ZはEです、Uは5です、5は8です、ではNは何でしょう」という様な、ある程度の複雑な構造を持った質問の構造を解析し即答出来る様な能力を持った人というのも、確率が存在するだろう。 つまり、現実に即した論理的に矛盾の無い合理的な決断を下す能力を持つ人も低い確率でしか存在しない。
◇
世論という物を考えるとき、次の様なモデルを考える。 人の全体集合を考えて、それぞれの人に対して発言力という点数を考える。 例えば、テレビやラジオに出演する人(あるいはテレビやラジオに出演する人を選択する権利を持つ人)が、その点数を多く持ち、それ以外の人はその点数をまったく持たない。このシステムに則って、全ての人がその点数にしたがって自分の意見を投票し、一番点数が多い意見が全体の意見として採用される、と考える。
◇
これまでは、報道関係に所属する人(や報道関係の人が行う行動を管轄する人)が多くの発言点数を持っていた。 それ以外の人は発言点数を持たなかった。 この様に、点数の普遍的に存在せず、必ず局在的に存在する。 このことを「発言点数偏在性」と呼ぶことにする。
この発言点数偏在性は、様々な政治的駆け引きの題材とされてきた。
例えば、能力の低い人の間違った判断から、能力の高い人の正しい判断を守るために利用されてきた。 レコードレーベルの様に、一部のプロ集団を定義して、それ以外の人はそのグループに入れない様な差別化を行うことで、出版のクオリティーを担保してきた。 またある時は、能力の低い人が結託することで、能力の高い人が入ってこない様にするためにも利用されてきた。 90年代後半のレコードレーベルがそうだった。
インターネットは、この状況を変化させた。 最初は、インターネットも、ある程度の発言点数偏在性を持っていた。 ホームページを作れる人とか、プログラムを書くことが出来る人、という様な偏在性があった。 ところが、ツイッターの様なプログラムが出現する事により、この発言点数の偏在性を限りなく押し下げた。 発言点数を普遍的におしなべてしまった。
世界中の人全体が、必ず同じ発言点数を持つと前提する。 世の中に能力の高い人は低い確率でしか存在しない。 同様にして現実に即した論理的に矛盾の無い合理的な決断を下す能力を持つ人も低い確率でしか存在しない。 この様に考えると、全体の意思決定は常に合理性に欠くことになる。
これは、現在、実際に起こっている様に僕は感じる。 このことを『インターネットの烏合の衆化』と呼んでみたい。
◇
インターネットが多くの人に発言点数を与えた一方、報道メディアが多くの発言点数を持つ状況は、実はあまり変化していない。
報道メディアが扇動的な情報を与えると、論理能力の低い人は、その欺瞞を見抜くことが出来ず、報道メディアの扇動的な情報を信じ、自分の発言点数を全て、報道メディアを支持する方向で利用してしまう。 すると、報道メディアは、インターネットが無かった時代よりももっと力を持つことになる。 能力の高い人が声をからして本当のことを叫んでも無数の能力の低い人の意見に押しつぶされてしまい、誰も耳を傾けなくなる。
これは恐ろしいことだと思う。
今のテレビ新聞メディアがしきりにツイッターを褒めちぎっているのは、こういう理由があるからではないか。
◇
今のインターネットに欠けている能力は「発言権力の集約化」だ。 インターネット上で、常に全ての人が同じ発言点数を持つべきでない。 発言点数を普遍的に与える機能と同じく、発言点数を偏在(集約)させる機能も必要だ。 一方テレビなどの発言権力集約的なメディアは未だに健在だ。 インターネットは権力の集約の機能を持たない為、「烏合の衆化」しており、強力な発言権力の集約能力を持つ、既存メディアに対して何の力を持っていない。
僕は権力集約的だろうか。 そうではないと思う。 僕はただ単に、シロウトの作った安っぽいつまらない音楽など聞きたくない、ということを言っているだけなのだ。 長年に渡って修練を積んできた本物のプロが、ふんだんに費用をかけて命懸けで作り出した渾身の音楽を、もう一度聞きたいだけなのだ。
ところが、1995年にインターネットが主流になってからは、状況が変わった。 最初、自分でホームページを作ってホームページ上で発言する人が出現した。 この頃はまだ、自分の力でホームページを作る技術を持つ人だけが発言が許される時代だった。
その後、2000年前後から、ブログというホームページを自動的に生成するプログラムが主流になり、ホームページを作る技術が無い人でも発言が許される様になった。 しかし、ブログはある程度文章力がある人向けな技術である。 発言は世界中の人に向けて発信される。 それは世界の真理についての深い考察から、昨日のかき揚げの油が悪くて腹を下したという話まで、一緒くたに発信される。 だから、誰がどのような文脈から読んでもわかる様な書き方をする必要がある。 つまり、考えた事柄を順序立て筋道立てて、誰にでもわかるように説明する能力がある人のみが発言を許される時代だった。
2005年頃、ツイッターというプログラムも考え出された。 文章力がない人でも、短文で自分の気持ちを書き記す、という方法を使うことで、誰にでも自分の文脈を説明することが出来る。 考えた事柄を順序立てて筋道立てなくても、良くなった。 つまり、何も考える必要がなくなり、誰でも手軽に発言する事が出来るようになった。
◇
ある特定の能力を考えたとき、世の中にその能力を持っている人の確率が存在する。 例えば、ギターを弾くという能力を考えた時、世の中の100%の人がギターを弾くことが出来るかといえば、そんなことはない。 不思議な事に、まったく何の教育を必要とせずに弾く能力を獲得する人もいれば、どんなに教育を施しても弾く能力を獲得出来ない人もいる。 それは例えば、10%と言うような確率で決まるのだろう。 この様な特殊能力を持つ人というのは、皆無ではないが、一般的に言って、比較的少ない物だ。 この様に、全ての能力に、こういう確率を考えることが出来るはずだ。
つまり、ある程度筋道立てた文章を書くことができる人というのも、確立が存在するだろう。 ある程度の複雑な論理力を持つ人にも確立が存在する筈だ。 「AはBです、BはCです、CはDです、ZはEです、Uは5です、5は8です、ではNは何でしょう」という様な、ある程度の複雑な構造を持った質問の構造を解析し即答出来る様な能力を持った人というのも、確率が存在するだろう。 つまり、現実に即した論理的に矛盾の無い合理的な決断を下す能力を持つ人も低い確率でしか存在しない。
◇
世論という物を考えるとき、次の様なモデルを考える。 人の全体集合を考えて、それぞれの人に対して発言力という点数を考える。 例えば、テレビやラジオに出演する人(あるいはテレビやラジオに出演する人を選択する権利を持つ人)が、その点数を多く持ち、それ以外の人はその点数をまったく持たない。このシステムに則って、全ての人がその点数にしたがって自分の意見を投票し、一番点数が多い意見が全体の意見として採用される、と考える。
◇
これまでは、報道関係に所属する人(や報道関係の人が行う行動を管轄する人)が多くの発言点数を持っていた。 それ以外の人は発言点数を持たなかった。 この様に、点数の普遍的に存在せず、必ず局在的に存在する。 このことを「発言点数偏在性」と呼ぶことにする。
この発言点数偏在性は、様々な政治的駆け引きの題材とされてきた。
例えば、能力の低い人の間違った判断から、能力の高い人の正しい判断を守るために利用されてきた。 レコードレーベルの様に、一部のプロ集団を定義して、それ以外の人はそのグループに入れない様な差別化を行うことで、出版のクオリティーを担保してきた。 またある時は、能力の低い人が結託することで、能力の高い人が入ってこない様にするためにも利用されてきた。 90年代後半のレコードレーベルがそうだった。
インターネットは、この状況を変化させた。 最初は、インターネットも、ある程度の発言点数偏在性を持っていた。 ホームページを作れる人とか、プログラムを書くことが出来る人、という様な偏在性があった。 ところが、ツイッターの様なプログラムが出現する事により、この発言点数の偏在性を限りなく押し下げた。 発言点数を普遍的におしなべてしまった。
世界中の人全体が、必ず同じ発言点数を持つと前提する。 世の中に能力の高い人は低い確率でしか存在しない。 同様にして現実に即した論理的に矛盾の無い合理的な決断を下す能力を持つ人も低い確率でしか存在しない。 この様に考えると、全体の意思決定は常に合理性に欠くことになる。
これは、現在、実際に起こっている様に僕は感じる。 このことを『インターネットの烏合の衆化』と呼んでみたい。
◇
インターネットが多くの人に発言点数を与えた一方、報道メディアが多くの発言点数を持つ状況は、実はあまり変化していない。
報道メディアが扇動的な情報を与えると、論理能力の低い人は、その欺瞞を見抜くことが出来ず、報道メディアの扇動的な情報を信じ、自分の発言点数を全て、報道メディアを支持する方向で利用してしまう。 すると、報道メディアは、インターネットが無かった時代よりももっと力を持つことになる。 能力の高い人が声をからして本当のことを叫んでも無数の能力の低い人の意見に押しつぶされてしまい、誰も耳を傾けなくなる。
これは恐ろしいことだと思う。
今のテレビ新聞メディアがしきりにツイッターを褒めちぎっているのは、こういう理由があるからではないか。
◇
今のインターネットに欠けている能力は「発言権力の集約化」だ。 インターネット上で、常に全ての人が同じ発言点数を持つべきでない。 発言点数を普遍的に与える機能と同じく、発言点数を偏在(集約)させる機能も必要だ。 一方テレビなどの発言権力集約的なメディアは未だに健在だ。 インターネットは権力の集約の機能を持たない為、「烏合の衆化」しており、強力な発言権力の集約能力を持つ、既存メディアに対して何の力を持っていない。
僕は権力集約的だろうか。 そうではないと思う。 僕はただ単に、シロウトの作った安っぽいつまらない音楽など聞きたくない、ということを言っているだけなのだ。 長年に渡って修練を積んできた本物のプロが、ふんだんに費用をかけて命懸けで作り出した渾身の音楽を、もう一度聞きたいだけなのだ。
コメント一覧
せおはやみ 2010年09月27日 15:39
いわゆる「悪貨が良貨を駆逐する」という現象は
これまで幾度と無く繰り返されてきたことですが、
それが今は「情報の洪水」に溺れてしまって、
クズ知識と本当に価値のある情報との取捨選択が
容易でない時期にあるのでしょう。
でも、これは過渡的な現象ではないのか、という
一縷の望みを持っております。
これまで幾度と無く繰り返されてきたことですが、
それが今は「情報の洪水」に溺れてしまって、
クズ知識と本当に価値のある情報との取捨選択が
容易でない時期にあるのでしょう。
でも、これは過渡的な現象ではないのか、という
一縷の望みを持っております。
おかあつ 2010年09月27日 15:56
>でも、これは過渡的な現象ではないのか、という一縷の望みを持っております。
僕もそう思います。
僕もそう思います。