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2010年9月24日金曜日

ビエンチャンにて...5 (mixi05-u459989-201009241256)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
ビエンチャンにて...5
2010年09月24日12:56
Thu, 23 Sep 2010 21:21:46 +0700

今日はドンドーク大学の周辺に行った。 ビエンチャンの中心部、タラートサオ周辺は、外人がものすごく多いのでいいのだけど、ちょっと離れたドンドーク大学の周辺に行くと、ほとんど外人がいなくなる。 外人はいるにはいるのだけど、西洋人や日本人の留学生は少数だ。 その中でもラオス語が流暢な人というのは、皆無といってよい。 ここでは、留学生といえば、ほとんどがベトナム人らしい。 ベトナム人のラオス語はとても流暢だ。

そういう中に僕がいるというのは、大変な事態であるらしい。 僕はどうみても外人なので、そういう僕が現地語を話すと、看過できない混乱を巻き起こすのだ。 このことは、なかなか現地人にはわかってもらえないのだけど、かなりストレスが溜まる。

これは、タイでも起こる。 タイでも起こるけど、タイはかなり中華系の人がたくさん住んでいるので、僕みたいな顔の人は、とても少ないが居ることには居る。 だから、何とか対策を立てることは出来る。 例えば話す前に「こんにちは」ってできるだけ正確な発音で言うようにするとか、「えーっと」という言葉を出来るだけ普通な言い方で言うようにするとか、こういう風にすることで、僕がこれからタイ語を話すということを相手に覚悟させる事が出来るので、あまり混乱しない。 最初の2言~3言ぐらいまでは「あぁ、タイ人だったんですね、日本人だと思ってました」とか言う風な感じで話を進めることが出来る。 しかしこれは、タイ国の住民には、北方系アジア人が混ざっているからこそ、出来る技だと思う。 タイでは、日本人がタイ人であっても、おかしくない。

しかし、ラオスは、この点、大きく違う。 ラオスもタイと同様、超多民族国家だけど、タイと違って移民が居ない。 だから華僑があまり居ない。 居ても(昨日書いた)「昆明中華飯店」みたいに、近年になって渡ってきた華僑が多く、極めて少数派だ。 僕のような顔をしたラオス人というのは、絶対に居ないと断言出来る。

そういう複雑な状況の中だった、ということを今日思い知った。

ドンドークについて、ブラブラしながら、食事でもしようかとお店に入った。 「ここ定食屋ですよね、何を売ってるんですか?」って聞こうと思って入ったけど、まったく通じなかった。 僕の発音はお世辞にも良くない。 それはわかってる。 わかってるけど、それくらい通じてもいいだろう、という位は簡単な言い方だ。

英語話せますか?って言われるので、話せませんって言った。 その質問だって、ラオス語で聞いていて、こっちだって理解しているのに、何で英語で話さなあかんねん。 それで、「僕はウドンタニーに住んでいる日本人で、タイ語とラオス語が少しだけ話せるんです」と説明したら「あー!」という事になって、以降、多少、会話がスムーズになった。

そこからが、驚いた。 実は、このお店のおばさん、ルワンパバーンから来たんだそうだ。 で「ご飯屋さん」ってラオス語で何て言うんですか?って聞いたら、「ハーンアーハーン」って言うのだが、その声調の付け方が、僕がこれまで一度も聞いたことが無い様な、天と地がひっくり返る様な不思議な声調だった。 " raan(1) aa(1)haan(5) " みたいな感じで、丸で外国語を聞いているみたいだった。

この「店 ร้าน 」は、低子音字+第二声調記号だ。 この組み合わせも、どうも、地域によって全然発音が違う部分らしいのだ。 「水 น้ำ 」 これも同様、低子音字+第二声調記号 だ。 そして、「これ นี้ 」も同様、低子音字+第二声調記号だ。これらの単語は、イサーンの人は第五声調(高低)で発音する。 僕がドンドーク大学の先生に習った標準ラオス語も、第五声調で発音する、と教わった。 ところがビエンチャンの人は、これを 第三声調(中高)で発音するのだ。 これは、つまり、タイ語の読み方と同じなのだ。

声調を聞いても、どちらの流儀で話しているのかによって、意味も変わってくるので、意味がはっきりしない。 だから、どっちの流儀で話しているのかを見分ける必要がある。 それをどうやって見分けるかというのが重要になってくるわけだが、どうも、ビエンチャンに住む人はこれを、顔を見て判別しているんではないか、という気がしている。 都会的な雰囲気を持った人は、ビエンチャン流・第三声調で、田舎っぽい人は、田舎流・第五声調で、みたいな。

だから、僕みたいに、どこから来たのかさっぱりわからない人間がラオス語を話すと、それだけで通じないらしかった。しかも、僕の発音はラオス南部流と近いウドン流の筈で、更に混乱を招く。 しかも、僕が発した「ハーンニーハーンアーハーンメンボー」という文章は、改めて考えてみると、前半の3つの単語すべて 低子音字+第二声調記号だ。 この極めて微妙な声調ばかりを通るので、余計に分かり辛い、ということらしかった。

一方、外人の僕は、向こうがラオス人で、当然ラオス語を話すだろう、と期待している。 これも混乱に拍車を掛けている訳だ。 このおばさんは、北部ルアンパバーンから来た人で、僕の知らない、標準とは大幅に違う声調区分を使って話しているらしい。 ラオス人だから、ラオス語を話すと思ったら、大間違いな訳である。

この様に、相手が誰でもラオス語を話すと期待することは、ひとつの傲慢さであり、とても失礼なことだ。こういう失礼はあってはいけない。 謙虚に気をつけなければいけない。



そうしたら、これらの一連の出来事を見ていた人か、何だかよくわからない女の人がやって来た。 それで、僕に何だか、ねほりはほり、聞き始める。 僕がタイ語を話すと知って、タイ語でベラベラベラベラ話しかけてくるのだ。 で、どこから来たのか、とか、何してるのか、とか、待っている友達の名前は何だ、とか。 だいたい、こっちは必死でラオス語に変換しようと努力しているのに、タイ語で話しかけられると、それだけで、ムチャクチャ混乱する。 小さな親切、大きなお世話である。

それとも、なんだよ。 外人は、そんな個人的なことにでも、何でも答えないといけないのかよ。

僕は「友達の名前は言いたくないし、大体、この学校周辺にこれだけたくさん人が居るのに、あなた知ってる訳ないでしょ? 初対面の人間にそんなにたくさん個人的なことを聞くのは、普通か? 普通じゃないよね? 行儀がなってないよね?」と言った。 そうしたら「ラオ人はこういう風にするのが普通だ。」と言う。 「僕もラオ人・イサーン人に友達がたくさん居るけど、こういうことをいうのはあなただけだよ」と言い返した。

泊まる場所はあるのか、この辺は学生が多いんだとか、自分が泊まる場所を紹介しようかとか、言ってくる。 別に初めての場所ではないし、あなたが言っている事は僕だってよく知っている、以前住んでいたことすらある、自分で自分の世話ぐらいみれます、と言った。

非常に気分が悪かった。 ...こういう時にこういう言い返し方をすると、大体、すごく後味の悪い思いをする。 何なんだろう。 相手が外人だと思って、こういう見え透いたダマシを掛けてくる人って。 とはいえ、冷たく追い払うのも、結構、後味が悪い物だ。



いつも、後になって思うのだけど、こういうとき、ウドンの人はこういういい方をする。

  「どこから来たのか?」
  「遠くからだよ」

  「何してるの?」
  「友達待ってんだよ」(これは何をしているか言いたくない時、非常に一般的な言い訳)

  「友達の名前は?」
  「えーっと、何だっけな。 思い出せないや。」

  「ホテル紹介してあげようか」
  「あぁ、もう見つかったよ!」(見つかってなくてもそう即答する。)

こういうことを、相手の肩を叩きながら笑顔で言う。 僕みたいに直接的に何でも言うと、非常に嫌な感じがするが、こういう柔らかい言い方は、あからさまな方便であるとは言え、決して嫌な感じはしない。 暖かい感じすら与える。

要するに、相手にしていない訳だけど、相手にしてないからと言って、コミュニケーションを拒絶しているわけではない。 例え相手がダマシに掛けてきていても、合気道の様に柔らかく受け止めて流してしまう事が出来る。

僕には、こういう言い方が必要だ。

まだまだ、修行が足りん。


Thu, 23 Sep 2010 22:24:59 +0700

コメント一覧
ちえぞう   2010年09月24日 13:24
>要するに、相手にしていない訳だけど、相手にしてないからと言って、コミュニケーションを拒絶しているわけではない。 例え相手がダマシに掛けてきていても、合気道の様に柔らかく受け止めて流してしまう事が出来る。

日本のごく狭い範囲の自分の関わりでも、こういう合気道的な受け流しがコミュニケーションには大事な気がします。

先日の日記みたいな、欧米的な勝った負けただったり、意見をハッキリ言うということは、意思表示としては有りだけど、コミュニケーションにはならないというか。
いや、そういう人がいてもいいのだけど、自分は柔らかく受け流したり相手にしたくなくても、お互いが嫌な思いをしないような柔らかさを身につけたいなぁと思いました。

普段、漠然と思ってることだけど、おかあつさんが文章にしてくれたのですごくすっきりしました。
おかあつ   2010年09月24日 13:34
もちろん、きちんとした言葉を使って話し合う事も大切だけどね。 (都会では、空気読みなんて無理だし、そうやってひとつひとつはっきりさせていかないと、やりにくくてしかたがないもの。)

しかし、その時も、やっぱり「勝った負けた」の世界が出てくるとやり辛いんだよね。
「勝った負けた」にこだわる人ってね。 やりにくいんだよなぁ..。
ジャコビ   2010年09月24日 22:08
会話で相手を追いつめない、逃げ場を用意してあげるということでしょうか。

アメリカ人とのコミュニケーションでも、ニュアンスはとても大事です。コミュニケーションが上手な人は、言葉の裏を読みます。私はアメリカ人に会話でいなされた事もあります(相手は私の意見を聞き、自分の意見を述べていないし、私の意見を批判していないのにも関わらず、相手が私と異なる意見を持っていたという事は十分に理解できた状態)。

私の夫などは、会話の内容を何度も何度も思い返して、その時の相手の真意は何だったんだろう、どういう意味だったんだろう、自分の言った事は相手に正しく伝わっただろうか、それでは次回の対策はどうしよう、などと日々ぶつぶつ言っています。

日本人は、そういう風に表面だって相手と組み合わないけれど、会話の伏線として様々な駆け引きを行うというような術が苦手ですね。
おかあつ   2010年09月25日 14:33
日本人ってどうしても勝った負けたになるんですよね。

> 私はアメリカ人に会話でいなされた事もあります(相手は私の意見を聞き、自分の意見を述べていないし、私の意見を批判していないのにも関わらず、相手が私と異なる意見を持っていたという事は十分に理解できた状態)。

例えばこういう話があると、「それじゃダメじゃん、お前、相手の意見を読みきれてないよ! だからお前はダメなんだ! そこくると、俺はな ...」みたいな。

誰もが相手の真意を汲み取れる訳ではないし、誰もが誰の事も知らないなかでコミュニケーションしている訳で、相手が自分の思っている事があるし、それを説明することが出来るけども言いたくない、みたいな事はあって。

勝ち負けではない筈なのに、かならず、そういう話が出てくるんですよね。

> 日本人は、そういう風に表面だって相手と組み合わないけれど、会話の伏線として様々な駆け引きを行うというような術が苦手ですね。

これもやっぱり、「関西人は例外だけど...」っていう言葉出て来ますよね。

東京に居るとよく見かける「表面だけあわせていて、一切本心を言わない」人って、どっから来るんだろう。 コミュニケーションをしているフリだけのアレ。 いなしているのとも違う。 駆け引きしているのとも違う。 コミュニケーションが一切不能のアレ。 相手の言っていることを言葉どおりにとると、後でとんでもないしっぺ返しが来るアレ。 かと言って何を言っているか空気を読むにせよ、情報が不足しすぎていて何がいいたいのか、さっぱりわからないアレ。 何とかこじいって入っていくと「あなたなんか何もわかってないけど、何とかチャンはわかってくれるもん、ネー」で終わっちゃう、アレ。(この言葉を、男性も言うから恐ろしい。)



日本って何なんだろう。
 
出展 2010年09月24日12:56 『ビエンチャンにて...5』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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