イサーン≠ラオ
2009年08月17日09:15
最近知り合ったバンコク都内のマクドナルドで働いているA君はまだ19歳で学校に通いながら仕事をしている、真面目でハイテク好きの好青年だ。 好奇心も強くハイテク好きなので、プログラマ向きであるような気がした。 年齢も若いしプログラミングを始めるのに時期的にもとてもよい。それで僕は彼にプログラミングを教えてあげようと思った。
それで仲良くなって色々話をして、色々な事を知った。 実は彼はブリラム県出身のイサーン人(タイ東北人)なのだ。 僕はかつてイサーン地方(タイ東北地方)の奥地、ウドンタニー県に住んでいたため、イサーン地方についてはかなり詳しいと思っていた。 タイ語の方言で、実はラオス語の方言でもあるイサーン語に至っては、すこし話せたりもする。 だからイサーンについてはほとんど何でも知っている、と思っていた。 しかし、それがそうではない、ということに気がついた。 実はイサーンという言葉は、かなり曖昧な言葉なのだと気づいた。
◇
イサーンとは何だろうか。 一般的な定義はこういう風なものだ。
タイというのは、イチョウの様な形をした国土を持っており、中が大きく分けて4つの地方に分かれていると考えられている。
一つはバンコクがある中部だ。 中部は一番小さいと言っても過言ではないくらい狭い地域だけど、首都であるバンコクがある。 王室もここにあり政府関係施設もすべてここにある。 タイの中でもっとも栄えている地域だ。
次に南部がある。 南部はバンコクの南側に細長く伸びた地域で、イスラム系やマレー系の文化の影響が大きい。 南部人はタイで南部語と呼ばれるマレー語とタイ語が混ざった言葉を話す。
次に北部がある。 北部はチェンマイを中心とした地域だ。 かつて大きな王国があったのだそうで、これがバンコクに併合する形でタイになったという。 北部語というラオス語の一種を話す。
そして、最後に東北地方(イサーン)地方だ。
イサーン地方というのは、実に複雑な歴史を持つ地域だ。 そこには建前と本音が入り混じって、決して一面的には捉えられない難しい要素が入り乱れている。
ここは、かつてはビエンチャン王国という国があった。 ところがビエンチャン王国はバンコクとの戦争で敗れて属国として取られてしまったのだ。 バンコクでは、この時に出来た領土をすべてひっくるめてイサーンと呼んだ。
その後、フランスがアジアに侵略してきた時、バンコクはこのイサーン地方をメコン川によって分けて、半分をフランスに割譲することで国を守ったという経緯がある。 こうして出来上がったのが今のラオスだ。 残りが今のタイの今のイサーン地方ということになる。
◇
元々この辺に住んでいる人たちは、非常にノンキであまり領土意識や帰属意識をはっきり持たない傾向がとても強い。 何故だろうか。 イサーン地方は、とても豊かな土地で、果物や穀物などが充分以上採れるからだ。 それも日本の様に耕して手入れをして手間暇かけてようやく手に入れるのではなく、ほとんど手放し放ったらかしでも、おいしい米がふんだんに採れる。しかも二毛作・三毛作は当たり前だ。 果物なんかわざわざ栽培しなくても辺りにいくらでも生えており、いくらでも手に入るといった、日本の常識ではまったく考えられない、極めて豊かな土地だ。こういう土地に住む人は自然とあまり所有意識を持たなくなる。 これは俺のだ、あれはあたしのだ、と我を張らない。 自分の持ち物は、みな惜しむことなく他人に分けてしまう。 所有意識をほとんど持っていない。 だから、ここに住む人は、イデオロギーというものも持たない。 だからここには政府のようなものが元々なかったのだろう、と僕は思う。
色々ないきさつがありこの地方はひっくるめて全部タイになった。 そして、この地方をひっくるめて全部イサーンと呼ぶようになった。 この地方に住む人はすべてイサーン人と呼ばれる様になった。
だけど、実はイサーンの中はもっと文化的に見ると細かに分かれている。 前々からうすうすは何となく思っていたことだったのだが、今回僕はこのブリラムの若者と仲良くなってはっきりとそのことに気がついた。
◇
イサーンと呼ばれる地域は実は、文化的に見ると、もっと細かく分けることができる。
1.北部(コンケン・ウドンタニー・ノンカイ・ウボンラチャタニー・カラシン...)
2.中部(コラート高原を中心とした地域・ナコンラチャシマ・チャイヤプーム)
3.東部 (シーサケット・ブリラム・スリン)
1.イサーン北部は一番ラオ人の文化を色濃く受け継いでいる地域で、言葉もビエンチャンの言葉(ラオ語)とかなり近い言葉を話している。とはいえ、ビエンチャンのラオ語と比べると少なくない違いがある。例えば、国境と接しているノンカイは、この地方の中ではビエンチャンともっとも近い話し方をする。 しかし川一つ隔てているだけなのにビエンチャンとは少なくない違いがある。
2. イサーン中部では、ラオ語とタイ語の中間言語(パーサーカーン)と呼ばれる言葉を話す。文法はラオ語のままだが、単語や慣用句がかなりタイ語と共通しており、タイ語に非常に近い言葉になっている。
3. イサーン東部は、カンボジアと国境を接している。 ここはタイ語・ラオ語・クメール語が入り乱れている地域だ。ラオ語を話す人もいるが、多くの人はラオ語ではなく、クメール語や、スワイ語と呼ばれるタイ語とクメール語の中間言語を話す。しかしクメール語が話せるからといってスワイ語が話せるとは限らないらしい。
なお、タイの名物である、ゾウ使いがいるのはスリンだ。 ゾウ使い以外にも密教が未だに残っていたり、呪いの技術が代々伝わっていたりと、ラオとはまったく違う独特な文化を今なお受け継いでいるらしい。
◇
この様に、ひとことでイサーン人と言っても、色々いる。 つまり、イサーン人と言ってもイサーン語が分からない人がいる、というところが大きなポイントだ。 タイでイサーン語といえば、一般的に、ラオ語の方言の事をさす。 しかしイサーン地方には実際にはクメール系の人も少なからず住んでおり、この「イサーン人」は「イサーン語」がわからないのだ。
◇
タイ語の「イサーン」と言う言葉は、その人たちがどういう民族でどういう言葉を話す人たちなのか、という要素とまったく結びついていない言葉なので、イサーン人と話すときに、イサーン人という言葉を使うと、物事をきちんと言い表せないことが多い。例えば、イサーン語といえば、イサーンで話している言葉という意味になるが、実はイサーンで話されている言葉には「ラオ語」「スワイ語」「クメール語」「中間語」とかなり色々種類がある。 一般的な意味で言えばイサーン語といえばラオ語の事を指すが、ブリラムの人と話すときイサーン語と言うと、ラオ語なのかクメール語なのかはっきりしないので、不便だ。
とはいえ、イサーン人はタイ人であるという建前がある。 タイに住む以上、タイ人としての自覚をはっきり持ち、タイ国に敬意を表さなければならない。タイ国内でイサーン人が自分はラオだ、自分はクメールだ、とはっきり主張する事は、タイ人としてはあるまじき、礼を失する行為だ。
だから、はっきりとラオ人・ラオ語と言いづらいものがある。
◇
彼と話しているうちに気がついたのだけど、クメール系の人はラオ系の人と違って女系家族ではないみたいだ。 ラオ系の家では末っ子の女の子が親の面倒を見て、家を継ぐのも末っ子の女の子だ。 一家の大黒柱は飽くまでも女性で、男性はその補佐役になる。 男性は結婚すると女性の家に入る。でもクメール系の人はそういう習慣がどうもないみたいだ。 彼は、僕のウドンタニでの生活習慣を説明を聞いて、少なからず驚いていた。 文化的にもラオ系とはまったく違うのだ。
◇
バンコクで色々な人と話していても思うけど、バンコクの人がこういうラオの文化を知っている事は100%無い。 断言するが、万が一にもない。 タイ人ですら知らないようなことを、外国人である僕が何故かそのことを知っているというのは、極めて珍しいことで、このことは時々ものすごく奇妙な人間関係の捻れを作る。 タイ人よりもタイを知っているというのは、とても奇妙なことだ。
そんな僕だが、たまに、次のようなことを思う。
◇
イサーン地方は属国のくせにタイの人口の半分ちかくを占める巨大なグループなので、選挙で絶大な影響力を持っている。 ここを上手に収めることがタイの政治家に取ってキーポイントとなっている。
アピシットという政治家がいる。 彼は、タクシンが国外追放になった後に、散々もめにもめた挙句首相になった人だ。 今、彼はイサーン地方のインフラ整備に力を入れて頑張っている。 しかし、彼がやっている事は単なる「貧困層救済」であるようだ。 タクシンの真似をして、貧しい人が喜びそうな事...電気代を半額にしたりといった貧困救済策を手当たり次第にやっている。
しかしこんなことはいくらやっても無意味なんだと思う。 何故か。 タクシンがイサーンで絶大な支持を受けた理由は貧困救済などではなく、単にタイで「農協」をやったからだ。
農民だからといって必ずしも貧しい訳ではない。 彼らは自分たちの田畑を耕してきちんと自分たちの仕事がしたいだけだ。 貧困救済などしてもらいたい訳ではない。(してくれることをやめてくれとはいわないだろうが)
タクシンは農政にとても明るい人で、農民が何を必要としているか、極めてよくしっている。彼は農民の暮らしを知っている。 彼は農民に、流通網を与え、市場を与え、機会を与えた。 それだけだ。
しかし、アピシットは農民の暮らしを知らない。 アピシットは都会育ちで田舎の事を何も知らないのだろう。 バンコクの富裕層はタクシンを「田舎で金をばらまいた」と批判した。 追い出した挙句、自分たちが田舎で無駄な金のばらまきをしているというのは、実に皮肉なことだ。
◇
普通の農政。 これがタクシンの人気の秘密だ。 バンコク人はこのことを知らない。 知らないから、タクシンも教えないんだろう。 タクシンはその捻れを逆手に取って、何とか帰国への道筋をつけようと頑張っている。 タクシンは非常にタイ人らしくない人で、政治家としてもタイ文化とは相容れないストイックな国作りを目指すところがある。 タクシンが帰ってくれば恐らく政治は更に混迷するだろう。 僕はタイにとってはもう帰ってこないほうがいいとは思う。
だけど、アピシットらバンコク人が、何でタクシンがイサーンで絶大な人気を誇ったのかについて正しい理解をしない限りは、タクシンの揺さぶりが続いて政局は安定しないのではないかと思う。
ほんの少しでよいので、きちんとした農政が出来ればそれで充分なはずなのだけど...。
それで仲良くなって色々話をして、色々な事を知った。 実は彼はブリラム県出身のイサーン人(タイ東北人)なのだ。 僕はかつてイサーン地方(タイ東北地方)の奥地、ウドンタニー県に住んでいたため、イサーン地方についてはかなり詳しいと思っていた。 タイ語の方言で、実はラオス語の方言でもあるイサーン語に至っては、すこし話せたりもする。 だからイサーンについてはほとんど何でも知っている、と思っていた。 しかし、それがそうではない、ということに気がついた。 実はイサーンという言葉は、かなり曖昧な言葉なのだと気づいた。
◇
イサーンとは何だろうか。 一般的な定義はこういう風なものだ。
タイというのは、イチョウの様な形をした国土を持っており、中が大きく分けて4つの地方に分かれていると考えられている。
一つはバンコクがある中部だ。 中部は一番小さいと言っても過言ではないくらい狭い地域だけど、首都であるバンコクがある。 王室もここにあり政府関係施設もすべてここにある。 タイの中でもっとも栄えている地域だ。
次に南部がある。 南部はバンコクの南側に細長く伸びた地域で、イスラム系やマレー系の文化の影響が大きい。 南部人はタイで南部語と呼ばれるマレー語とタイ語が混ざった言葉を話す。
次に北部がある。 北部はチェンマイを中心とした地域だ。 かつて大きな王国があったのだそうで、これがバンコクに併合する形でタイになったという。 北部語というラオス語の一種を話す。
そして、最後に東北地方(イサーン)地方だ。
イサーン地方というのは、実に複雑な歴史を持つ地域だ。 そこには建前と本音が入り混じって、決して一面的には捉えられない難しい要素が入り乱れている。
ここは、かつてはビエンチャン王国という国があった。 ところがビエンチャン王国はバンコクとの戦争で敗れて属国として取られてしまったのだ。 バンコクでは、この時に出来た領土をすべてひっくるめてイサーンと呼んだ。
その後、フランスがアジアに侵略してきた時、バンコクはこのイサーン地方をメコン川によって分けて、半分をフランスに割譲することで国を守ったという経緯がある。 こうして出来上がったのが今のラオスだ。 残りが今のタイの今のイサーン地方ということになる。
◇
元々この辺に住んでいる人たちは、非常にノンキであまり領土意識や帰属意識をはっきり持たない傾向がとても強い。 何故だろうか。 イサーン地方は、とても豊かな土地で、果物や穀物などが充分以上採れるからだ。 それも日本の様に耕して手入れをして手間暇かけてようやく手に入れるのではなく、ほとんど手放し放ったらかしでも、おいしい米がふんだんに採れる。しかも二毛作・三毛作は当たり前だ。 果物なんかわざわざ栽培しなくても辺りにいくらでも生えており、いくらでも手に入るといった、日本の常識ではまったく考えられない、極めて豊かな土地だ。こういう土地に住む人は自然とあまり所有意識を持たなくなる。 これは俺のだ、あれはあたしのだ、と我を張らない。 自分の持ち物は、みな惜しむことなく他人に分けてしまう。 所有意識をほとんど持っていない。 だから、ここに住む人は、イデオロギーというものも持たない。 だからここには政府のようなものが元々なかったのだろう、と僕は思う。
色々ないきさつがありこの地方はひっくるめて全部タイになった。 そして、この地方をひっくるめて全部イサーンと呼ぶようになった。 この地方に住む人はすべてイサーン人と呼ばれる様になった。
だけど、実はイサーンの中はもっと文化的に見ると細かに分かれている。 前々からうすうすは何となく思っていたことだったのだが、今回僕はこのブリラムの若者と仲良くなってはっきりとそのことに気がついた。
◇
イサーンと呼ばれる地域は実は、文化的に見ると、もっと細かく分けることができる。
1.北部(コンケン・ウドンタニー・ノンカイ・ウボンラチャタニー・カラシン...)
2.中部(コラート高原を中心とした地域・ナコンラチャシマ・チャイヤプーム)
3.東部 (シーサケット・ブリラム・スリン)
1.イサーン北部は一番ラオ人の文化を色濃く受け継いでいる地域で、言葉もビエンチャンの言葉(ラオ語)とかなり近い言葉を話している。とはいえ、ビエンチャンのラオ語と比べると少なくない違いがある。例えば、国境と接しているノンカイは、この地方の中ではビエンチャンともっとも近い話し方をする。 しかし川一つ隔てているだけなのにビエンチャンとは少なくない違いがある。
2. イサーン中部では、ラオ語とタイ語の中間言語(パーサーカーン)と呼ばれる言葉を話す。文法はラオ語のままだが、単語や慣用句がかなりタイ語と共通しており、タイ語に非常に近い言葉になっている。
3. イサーン東部は、カンボジアと国境を接している。 ここはタイ語・ラオ語・クメール語が入り乱れている地域だ。ラオ語を話す人もいるが、多くの人はラオ語ではなく、クメール語や、スワイ語と呼ばれるタイ語とクメール語の中間言語を話す。しかしクメール語が話せるからといってスワイ語が話せるとは限らないらしい。
なお、タイの名物である、ゾウ使いがいるのはスリンだ。 ゾウ使い以外にも密教が未だに残っていたり、呪いの技術が代々伝わっていたりと、ラオとはまったく違う独特な文化を今なお受け継いでいるらしい。
◇
この様に、ひとことでイサーン人と言っても、色々いる。 つまり、イサーン人と言ってもイサーン語が分からない人がいる、というところが大きなポイントだ。 タイでイサーン語といえば、一般的に、ラオ語の方言の事をさす。 しかしイサーン地方には実際にはクメール系の人も少なからず住んでおり、この「イサーン人」は「イサーン語」がわからないのだ。
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タイ語の「イサーン」と言う言葉は、その人たちがどういう民族でどういう言葉を話す人たちなのか、という要素とまったく結びついていない言葉なので、イサーン人と話すときに、イサーン人という言葉を使うと、物事をきちんと言い表せないことが多い。例えば、イサーン語といえば、イサーンで話している言葉という意味になるが、実はイサーンで話されている言葉には「ラオ語」「スワイ語」「クメール語」「中間語」とかなり色々種類がある。 一般的な意味で言えばイサーン語といえばラオ語の事を指すが、ブリラムの人と話すときイサーン語と言うと、ラオ語なのかクメール語なのかはっきりしないので、不便だ。
とはいえ、イサーン人はタイ人であるという建前がある。 タイに住む以上、タイ人としての自覚をはっきり持ち、タイ国に敬意を表さなければならない。タイ国内でイサーン人が自分はラオだ、自分はクメールだ、とはっきり主張する事は、タイ人としてはあるまじき、礼を失する行為だ。
だから、はっきりとラオ人・ラオ語と言いづらいものがある。
◇
彼と話しているうちに気がついたのだけど、クメール系の人はラオ系の人と違って女系家族ではないみたいだ。 ラオ系の家では末っ子の女の子が親の面倒を見て、家を継ぐのも末っ子の女の子だ。 一家の大黒柱は飽くまでも女性で、男性はその補佐役になる。 男性は結婚すると女性の家に入る。でもクメール系の人はそういう習慣がどうもないみたいだ。 彼は、僕のウドンタニでの生活習慣を説明を聞いて、少なからず驚いていた。 文化的にもラオ系とはまったく違うのだ。
◇
バンコクで色々な人と話していても思うけど、バンコクの人がこういうラオの文化を知っている事は100%無い。 断言するが、万が一にもない。 タイ人ですら知らないようなことを、外国人である僕が何故かそのことを知っているというのは、極めて珍しいことで、このことは時々ものすごく奇妙な人間関係の捻れを作る。 タイ人よりもタイを知っているというのは、とても奇妙なことだ。
そんな僕だが、たまに、次のようなことを思う。
◇
イサーン地方は属国のくせにタイの人口の半分ちかくを占める巨大なグループなので、選挙で絶大な影響力を持っている。 ここを上手に収めることがタイの政治家に取ってキーポイントとなっている。
アピシットという政治家がいる。 彼は、タクシンが国外追放になった後に、散々もめにもめた挙句首相になった人だ。 今、彼はイサーン地方のインフラ整備に力を入れて頑張っている。 しかし、彼がやっている事は単なる「貧困層救済」であるようだ。 タクシンの真似をして、貧しい人が喜びそうな事...電気代を半額にしたりといった貧困救済策を手当たり次第にやっている。
しかしこんなことはいくらやっても無意味なんだと思う。 何故か。 タクシンがイサーンで絶大な支持を受けた理由は貧困救済などではなく、単にタイで「農協」をやったからだ。
農民だからといって必ずしも貧しい訳ではない。 彼らは自分たちの田畑を耕してきちんと自分たちの仕事がしたいだけだ。 貧困救済などしてもらいたい訳ではない。(してくれることをやめてくれとはいわないだろうが)
タクシンは農政にとても明るい人で、農民が何を必要としているか、極めてよくしっている。彼は農民の暮らしを知っている。 彼は農民に、流通網を与え、市場を与え、機会を与えた。 それだけだ。
しかし、アピシットは農民の暮らしを知らない。 アピシットは都会育ちで田舎の事を何も知らないのだろう。 バンコクの富裕層はタクシンを「田舎で金をばらまいた」と批判した。 追い出した挙句、自分たちが田舎で無駄な金のばらまきをしているというのは、実に皮肉なことだ。
◇
普通の農政。 これがタクシンの人気の秘密だ。 バンコク人はこのことを知らない。 知らないから、タクシンも教えないんだろう。 タクシンはその捻れを逆手に取って、何とか帰国への道筋をつけようと頑張っている。 タクシンは非常にタイ人らしくない人で、政治家としてもタイ文化とは相容れないストイックな国作りを目指すところがある。 タクシンが帰ってくれば恐らく政治は更に混迷するだろう。 僕はタイにとってはもう帰ってこないほうがいいとは思う。
だけど、アピシットらバンコク人が、何でタクシンがイサーンで絶大な人気を誇ったのかについて正しい理解をしない限りは、タクシンの揺さぶりが続いて政局は安定しないのではないかと思う。
ほんの少しでよいので、きちんとした農政が出来ればそれで充分なはずなのだけど...。
コメント一覧
カオソーイ 2009年08月17日 10:03
10年前に、ソイカウボーイにいたイサーン出身の女性って、なんとなく顔つきでウドンターニー出身のラオ系のイサーン人か、スリン出身のクメール系のイサーン人か区別がついた記憶があります。
スリンの近くには、象使いで有名なクメール系の少数民族(クム族?)がいて、彼らの伝承では、象狩はコロポックルみたいな先住民族からクム族が教えてもらったもので、その名残で象狩の最中はクム語を話さずに、先住民族の言葉だけを使うしきたりがあるということです。
今はチーク材の伐採に活躍していた北部の象(代表的な象使いはカレン族)が伐採禁止で職がなくなって、スリンやスリランカに売られているようです。
スリンの近くには、象使いで有名なクメール系の少数民族(クム族?)がいて、彼らの伝承では、象狩はコロポックルみたいな先住民族からクム族が教えてもらったもので、その名残で象狩の最中はクム語を話さずに、先住民族の言葉だけを使うしきたりがあるということです。
今はチーク材の伐採に活躍していた北部の象(代表的な象使いはカレン族)が伐採禁止で職がなくなって、スリンやスリランカに売られているようです。