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2013年4月17日水曜日

インタープレイ───音楽的対話 (oka01-qkicsuifffdptlbs)

対話とは何か。対話とは音楽だ。音楽とは何か。音楽とは言語だ。言語とは何か。言語とは即興だ。では、即興とは何か。


対話とは、人間にとって非常に大切な要素ではないだろうか。

筆者がそう思うようになった理由は、恐らく筆者がジャズ演奏者であることとも関連している。 ジャズ演奏が上達するにつれ、それが実は人間が日常的に行う対話と同じものだと気付くようになり、そして対話自体の重要性に気付き、それが実は、ジャズや日常会話だけでなく、人間が行うありとあらゆる行為に関連している事に気付くようになった。

現在筆者は、タイの東北方言である「イサーン語(ラオ語)」を研究している。 語学に真剣に打ち込むようになってから、語学とジャズは、対話が重要という点で共通だと感じる様になった。 次第に、語学を学ぶことがジャズ演奏の進歩を助け、ジャズを学ぶことが語学の進歩を助けるという、相互補助の関係の存在に気付くようになった。ジャズと対話と語学は、表裏一体の存在である、と筆者は感じる様になった。

筆者は、日本生まれ・日本育ちだが、日本で何かの文化活動をするごとに、日本だけで感じる独特なストレスを感じていた。日本では、ジャズを演奏するのも、人と対話をするのも、外国語を学ぶのも、漠然とした鬱積を感じてきた。思う存分能力を発揮できないという不満感というべきか、漠然とした理由のよくわからないストレスを感じながらやってきた ─── そのストレスは一体何処から来るのか。何故ストレスを感じるのか。そのストレスは一体何なのか。長い間その事について考えてきた。

ある懇意にしている方の旦那さんは、日本在住のイスラム圏出身の方だが、日本語が堪能だ。彼は「日本語を学んで気がついたのだが、日本人同士が日本語で話し合っているのに、まるで外国人同士の様に日本語が通じあっていないことがある。」と仰っていたそうだ。─── 筆者もこれと殆ど同じ印象を持っている。何故日本人同士なのに意思疎通がスムーズでないのか。

筆者にとって、借り物の言語である英語で話している時の方が、自分にとってネイティブの言語である日本語を話している時よりも、ずっとスムーズに通じていると感じることがしばしばある。タイ語やラオ語も筆者にとっては借り物の言語だ。だがタイ語やラオ語を話している時も、筆者が日本語を話している時に感じる、独特なストレスは感じない。

恐らくこれには、民族的な理由・言語的な理由・日本の歴史・複雑な移民事情が複雑に絡みあっている。ここでは敢えて「対話」という視点にのみ注目し、切り取って考えてみたい。


対話の破綻

対話とは、感想・状態・気持ち・経験・考えなどの意見を交換する事だ。

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「へーそうなんだ!面白いね!」「だろ?」

或いは

「実はこの間○○に行って、こんな事があったんだ。」「ふーん。つまらないなぁ。」「では、こんな話しは?」 

対話とは、この様に自分の思いを言葉にして相手に聞かせて、相手がどういう反応を示すか試す事だ。また対話する際、往々にして相手の予想を裏切るような反応が、より対話を面白く発展させるものだ。

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「なるほど。だけど、それはこういうことではないの?」「あぁそうか!!それは気が付かなかったな!

必ずしも相手に同意することだけが対話ではない。上記例のように、例え相手の意見を否定していたとしても、必ずしも対話が破綻する訳ではない。ここで最も大切な事は、相手の意見を否定する、或いは肯定するにかかわらず、相手の話を聞くことではないだろうか。相手の話を聞いていないと、次のようなことが起こる。

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「あそう。

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「ふーん。

上記の様に、相手の話を聴いておらず反応が無ければ、対話は成立しない。
或いは、

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「なるほど。だけど、それは〜これこれこういうことではないの?」「そんなことないね。で○○に行って…」

上記の様に、相手の話を聞いていても、それを理解するつもりがなければ、結局対話は成立しない。これは対話でなく独白だ。対話とは、相手の話をよく聞き相手が自分の予期しなかった反応を取った時でも、そこに自分なりの解釈を加えて反応を返すことではないか。

「じつはこの間○○に行って、こういう事があったんだ。で、それについて僕はこう思うんだよね。」「なるほど。だけど、それは〜これこれこういうことではないの?」「僕も最初はそう思ったのだが、実はそうではないんだよね。というのも…〜云々なんだぜ!」「へへー!知らなかった!

これと同じことが音楽の演奏にも言える。



筆者は、対話という行為の本質について思いを巡らせる時、しばしばこのジャズのアルバムを思い出す。

ECMレーベル・ジョンアバークロンビー・マークジョンソン・ピーターアースキン

このアルバムの中盤「サムライヒーホー」という曲が演奏される。この曲の中盤、名ドラマーのピーターアースキンが、突然演奏を止めてしまう場面がある。ピーターアースキンの即興で繰り出したブレイク(ブレイク=音楽の途中に音楽的効果を狙い無音区間を設ける事。通常は、予め作曲・編曲された予定調和の中で利用される。)だ。演奏者が予想もしなかったブレイクによって、まるで演奏が中断してしまったかの様な大きな音の空間が出来てしまう。ハプニングだ。ウッドベースのマークジョンソンが、すかさずブーンとグリッサンド(急激な降下音)を入れる。マークジョンソンのこの反応は実に素晴らしい。まるで最初から準備された上でそこに存在する様に聴こえるが、これは即興演奏だ。

筆者は、典型的な他人の話を聞かない空気の読めない人間だ。かつてジャズ演奏を始めたばかりの頃、しばしば先輩ドラマーのK氏(ある名ドラマーの弟子で現在ではプロ活動されている)に怒鳴られた。「お前はな、演奏しても喋ってても、人の話を全く聞いていないんだよ!俺が何か話を振って返事がないとな! 演奏してて寂しいんだよ!」空気読めない人間の筆者は、しばしばこうやって怒鳴られた。そんな時、K氏はしばしば、上記のピーターアースキンのドラムソロを例にとりつつ、聴くことの大切さを説いた。

その後、長い時間を経て、筆者は演奏上も対話上も、自分の意見を一方的に述べる一方通行コミュニケーションを徐々に卒業し、他人の話をよく聞くようになった。色々な人と演奏する様になり、色々な人と対話する様になった。双方向にコミュニケーション出来る様に(或いは双方向にコミュニケーション出来る事が大切と認識する様に)なった。



自分の対話に対する認識が変わってから、改めて思うことがいくつかある。その内のひとつは、関東のジャズ演奏者の特徴だ。関東人は、しばしば、他人の演奏を全く聞いていない。筆者は、しばしばこの違和感を誰かに伝えようと思うのだが、なかなかその違和感を相手に伝える事が出来無いでいる。

ある日、この「他人の話を聞かない人」の演奏を、短い会話集として例える事を思いついた。



即興演奏上のコミュニケーションは、相手の音を聞くことによって成り立つ。演奏をする上で、相手の演奏に対して良いタイミングで面白い相槌が入ると、演奏がより弾むものだ。これは会話が弾むのと同じだ。

「明日は正月だね」「そうだね!」「和尚が二人来たよ。」「来たね!」「和尚が二人で」「ほぅほぅ!」「和尚がツー」「ハハハッ!なかなか、おもろい事ゆうやんけ!」

この様に、的確なタイミングで的確な反応をする事によって会話が成立する。 これは相手の話をきちんと聞いて理解しているからこそ可能なことだ。この時、相方が相手の話を聞かない人だったらどうなるか。

「明日は正月だね」「ほう」「和尚が二人来たよ。」「ふーん。」「和尚が二人で」「へぇ。」「和尚がツー」「ほう。」「…。」「へー。」「…?」「ほう。」「…」「へー。」「…話し聞いてる?」

※ 決まりきった返答しかしない。応答はしているが、基本的に人の話を聞いていない。

「明日は正月だね。」「そうだね。」「和尚が二人来たよ。」「ふーん。」「和尚が二人で…」「ギャハハハハッ!」「和尚がツー」「ほう。」

※ 反応が早すぎる。応答はしているが、基本的に人の話を理解していない。

「明日は正月だね」「そうだね。」「和尚が二人来たよ。」「ふーん。」「和尚が二人で…」「ほう。」「和尚がツー」「何でやねん。」「…?」

※ 返答が前後の文脈から見て的確でない。応答はしているが、基本的に人の話を理解していない。

「明日は正月だね」「そうだね。」「和尚が二人来たよ。」「ふーん。」「和尚が二人で…」「ほう。」「和尚がツー」「… …(しばらく間が開く)… … ウハハハハッ!」

※ 返答は正しいが、タイミングが悪い。基本的に人の話をよく聞いていない。

「明日は正月だね」「ウヒャヒャ!」「和尚が二人来たよ。」「ギャハハ!」「和尚が二人で…」「いぃねーーー!」「和尚がツー」「ウハハハハッ!」「…」「ゲヒヒ!」

※ テンションが高くないと面白くない思い込んでいる。テンションが高いだけでメリハリがない。基本的に人の話をよく聞いておらず反応がない。

「明日は正月だね」「…。」「和尚が二人来たよ。」「…。」「和尚が二人で…」「…。」「和尚がツー」「…。」「…。」「…は? 今、何か言った?」

人の話を聞いていない。話しかけられている事にすら気がついていない。

「明日は正月だね」「へぇ。」「和尚が二人来たよ。」「ほぅ。」「和尚が二人で…」「へぇ。」「和尚がツー」「ほぅ。」「…。」「へぇ … は? 何か言った?」

人の話を聞いていない。話を聞いているふりは、話を本当に聞いていない以上に害が大きい

「明日は正月だね」「…そんなことより、昨日のクリスマスが。」「和尚が二人来たよ。」「で、彼女と出かけたんだけど。」「和尚が二人で…」「出かけ先のレストラン満席で。」「和尚がツー。」「料理はまぁまぁだった。」

※ 自分の言いたい事しか言っておらず、そもそも相手の話しを聞く気がない。

「明日は正月だね」「違げぇよ。」「和尚が二人来たよ。」「来ねぇよ。」「和尚が二人で…」「三人だよ。」「和尚がツー」「面白くねぇよ。」

※ 最初から会話する意思がない。

話を聞かない演奏者と演奏するというと、現実に上記の会話の様な事が起こる。演奏上の反応が、まるで他人の演奏を聞いておらず演奏が全く噛み合わない。偶然出先での演奏でこの様な演奏者とぶつかって共演する様な機会があると、聴衆の面前で恥を晒すことになる。

合奏の失敗責任は、必ず演奏者全員の共同責任だ。演奏上の失敗を共演者に求めて叱責するのは、とても恥ずかしいことだ。よって筆者は通常黙っている。だが、こういう人の音を聞かない演奏者に限って、演奏後「何で人の音聴かないんだよ」などと自分のことを完全に棚にあげて相手に文句を言う事も、筆者が違和感を募らせる原因のひとつだ。この様な人と触れ合うと尚のこと不条理な気持ちになるのだが、現実上そんな演奏者は少なくない。この話を全く聞かない彼らと、一体どの様に意思疎通をはかれば良いというのか。

もし自分の話を聞いて欲しいと考えるなら、まず相手の話をよく聞くことから始まるのではないか。相手の話をよく聞いて話の流れを見極めた上で、会話に参加する。相手の発言に耳を傾ける事で、上手な会話のアンサンブルを構築する。これは会話だけでなく、ジャズの演奏でも同じだ。

こういう話を聞かない演奏者とどの様に折り合いをつけるのか。これは筆者にとっての最大の課題だ。筆者の知人ミュージシャンなどは、相方のミュージシャンが音を聴かないミュージシャンでも、自分のペースを崩さず演奏を続けるから問題ない、というタイプのミュージシャンも居たが、筆者には出来なかった。会話で例えれば、相手が話を聞いていようが聞いていまいが無視して話を続けるということだが、そういう没交渉な無神経さは、どうしても筆者の性に合わなかった。

この様な話をすると「それは単に演奏技術の高い低いによるのではないか」という風に思われるかも知れない。だが技術の上手か下手かは案外と無関係なものだ。しばしば良い演奏は必ず高い技術に裏打ちされている、と考えられがちなものだが、実は良い演奏を成功 させるにあたって高い技術は必ずしも必須ではない。これも会話に例えることが出来る。

「明日は正月だね」「…んっ。」「和尚が二人来たよ。」「…」「和尚が二人で…」「…。」「和尚がツー」「クスッ♡」

※ 反応は無いポイントは外していない。人の話はきちんと聞いている。

応答が有る無しすらも、実際上は殆ど問題にならない。きちんと相手の話を聞いてさえいれば「対話のある演奏」になる。決してコミュニケーションが巧いという訳でなくとも、相手の言う事に耳を傾けて理解しており、必要最低限の反応があればよい。むしろ、相手の言う事に耳を傾けて理解してさえいれば、場合によっては反応すらなくてもよい。良い演奏をするに当たり、高い技術は必須ではない。ないよりは良いかも知れないが、必ずしも良い演奏の必須条件ではない。

相手の発言に対する解釈は人それぞれだ。何が最も正しい回答だというものはない。解釈の正しさはコミュニケーションの成立とは無関係だ。同様に反応の有無もコミュニケーションの成立と無関係だ。



筆者はギター演奏者だが、以前あるジャズピアノの先生に即興演奏を習っていた。先生は、バークリー音大卒だった。バークリー音大の音楽室でジャムセッション※をしていると、しばしば酔っぱらいの黒人が音楽室に乱入してくるという話しをしてくれた。ドラムスティックをポケットに突っ込んだだけの、ただの酔っぱらいのオッサンだが、ドラムを叩かせるとスイングする良い演奏をするといった。彼らはただ歩いているだけでも歩き方に独特なリズムがあり、音楽が体から滲みでているといった。

※ ジャムセッション=数人で集まり即興で音を出して演奏すること。即興は全くルールなし無秩序で演奏する訳ではない。大抵ジャズスタンダード曲などのモチーフを崩した上で、再度異なる形に組立てなおす事で即興演奏する。

その後、自分自身、現実でそれを経験をした。筆者の2度目のアメリカ語学留学時、筆者はひょんな事から黒人居住地域の奥地に住むことになった。当時は知らなかったのだが、筆者が住んでいたマサチューセッツ州ボストンは、もともと地理的な関係からアフリカ移民が多い地域とのことで、ボストンのあちらこちらに移民の黒人の人たちが多く住む地域があった。

黒人が多い地域では、駅前など、辺り中で黒人の若者が集まって踊りを踊ったりしていた。彼らの踊りは非常に巧かった。実際には、巧いというのともまた少し違う。それは自然だった。巧いというのは技巧が優れており難易度の高い技を繰り出す能力のことだとしたら、彼らは決して難易度の高いことはやっておらず、巧い訳ではない。簡単なことしかしないにも関わらず、だが良い音楽として成立していた。

音楽とは呼びかけと応答の様な面がある。「おーい」「なんだー」「おーい」「なんだー」というだけの呼びかけと応答だけでも、何度も繰り返せば、ひとつの音楽だ。音楽が音楽として成立する為には、単純な法則がある。彼らはこの「音楽が音楽たる所以」をよく知っている様に見えた。

バスなどに乗っていると、どこからともなく趣味の良いヒップホップが聞こえてくる。どこにもラジカセがないのに、何故ヒップホップが聞こえてくるのか不思議に思い、音源を探してみたら、バス後部で黒人の若者が二人、ラッパー役とドラマー役が声だけでヒップホップを演奏していた。これも巧い。否、巧いというのとも違う。恐らく技術的に難しいことは何もなく、やろうと思えば誰でも出来る。だが、誰もがやれると思ってやってもなかなか出来無い。そこに「音楽が音楽として成立する秘密の法則」の知識が必要だった。

これと全く同じ事を、現在筆者が住んでいる地域で有名なラオ民族の伝統音楽=モーラムについても思う。その辺に居る人───村の一杯飲み屋でたむろする悪徳なおばさんや、ぼったくり料理屋のおじさんにカラオケを歌わせると、非常に良い歌を歌う。

モーラムの歌詞は往々にして即興でその場で創り上げる。現場で今正に起こっている事件などをそのままモチーフにして詩を作る。その場で感じたことを感じた通りに喋る。その場で感じたことを感じたとおりに歌う。感じた事は例外なく全てネタになる。演奏中に停電が起こって真っ暗になる。停電が起こったから演奏は中止…という発想自体がない。停電が起これば停電をモチーフに歌を歌う。停電が終わると、電気が来たことをモチーフにして歌いだす。必ずしも決まった形がある訳ではない。

ラオ人は実に人の話をよく聴いている。聴いているのは話しだけではない。人の気持ちや心象・周囲で起こる目に見えない物事の全てを聴いている。 この習慣は、ミュージシャンだけではなくラオ人全員に共通している。

ラオ伝統音楽・モーラムは特に技術的に難しいことは何もない音楽だ。声が出せる人なら必ず歌うことができる。だが難しいことは何もないのに良い歌を歌うことは簡単ではない。それは技術ではない。モーラムがモーラムとして成立する為の「何か」に対する理解が必要だ。

「音楽が音楽として成立する秘密の法則」とは何だろうか。それを知ることは難しい。この世には、その音楽が音楽たる所以を知ることを生涯の目標にしている人すら少なくない。だが少なくとも、いくつかある法則の中のひとつに「耳を傾ける」ということがあるのではないか。

(続く)

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 (2012-12-01T07:02:28.555+09:00 に執筆後、御蔵入り。Wed, 17 Apr 2013 11:46:12 +0900 に加筆訂正し公開。)

(Sat, 11 Jul 2015 13:37:41 +0700)
文体を修正した。