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2012年7月30日月曜日

表意文字のハンデ ── 日本的語学オンチのその理由 (oka01-folcsmwgkgwhohxu)

何故日本人は英語が苦手なのだろうか。この苦手さの理由を、日本が世界的に見ても非常に稀な音声と文字の結びつきが弱い表意文字を使うという事に着目し、筆者なりに考察してみた。

筆者は、しばしば日本人の語学レベルの低さにほとほと嫌気が差す。 確かに勤勉な日本人のこと、恐らく世界で一番よく勉強しており、知識だけは世界一持っている。それは間違いがないだろう。だが話せないし聞き取れないので使えない。勘違いの危険性に無頓着で、大変な勘違いをしたまま勘違いにも気が付かない。 日本人の語学下手は英語だけに限らず、筆者の知る限り中国語・タイ語・ラオ語などでもほとんど変わらない。知識は豊富なのだが話せないし聞き取れない。

読者の方は、何故そんなに日本人を悪く言うのかと思われる方も居るかも知れないが、外国に住み世界の人達と日本人を比べると、目眩がする程の大きな違いを感じる。 彼らが英語に関してほとんど何も勉強して居らず、知識を全く持っていないにも関わらず、意思疎通に成功している。対して日本人は、これだけ英語に関して緻密な知識を身につけているにも関わらず、意思疎通に失敗している。

以前、以下のような文章を書いた。

─── 筆者は当時アイルランド式レストランのマネージャーだった。ある日、珍しい日本人客が訪れた─── 「こんにちは! あ、日本人ですよね?!」「はじめまして。僕はおかあつっていうんですが、色々わけあってここでマネージャーやってまして。」「へー!凄いですね、おかあつさんって、こんなところで働いているんですか? 言葉とかどうしてるんですか? 実は僕、TOEICで950点取ったんですよ。だから英語には結構自信があるんです。」「じゃ、うちのレストランの客、何言ってるか解かる?ほぼ全員イギリス人ですごい訛ってるけど。」「解りますよ。英語得意だから。」「英単語とか文法とか勉強する事も大切だけど、神話とか音楽とか食文化とか、そういう文化的なことについて学ぶことも大切だよね。」「全く関係ありませんね。初心者の人はそういうことよくいうけど。 あぁ何かハラ減ったな。何か注文しよう。 あのオッサンが食べてる料理なんだろう。あれ。 あーウェイター!ウェイター!あれ頂戴。」「何ですか?」「あれあれ、あのオッサンが食べてるあれ」「どれですか?」「あの丸い奴。」「あぁーキッシュね。キッシュって言うんですよ。あれ。」「どうでもいいよ。」

───キッシュとは元々フランス料理だったパイで、イギリス料理では非常にポピュラーなのだが、彼は一部始終この様に相手の文化的バックグラウンドに全く興味を示さなかった。彼は結局スパゲティーを注文した。

「お待たせしました。スパゲティーで御座います。」「どれどれ… ズズーーーーーーーーーズバビッ!(スパゲティーを爆音ですする) お! このスパゲティーなかなかいけてますね!」 周囲のイギリス人「オゥノゥ…」 おかあつ「っ .......(無言)...と、そうでしょ、ここのコックさん料理上手なんだよ。」

と、必死で平静を装った僕。周りの人に見られて恥ずかしいのだが、見られている事に気が付かない彼。僕は、無知が原因だとは思わない。そもそもマナーというものは、国によって違う、街によっても違う、民族によっても違う、ヘタをすると家族によっても、人によっても違う。全ての人が持っているマナーの類型を全て知り尽くすことなど、そもそも不可能である。

知り尽くすことが不可能だからこそ、知識によらず、自分の行動が相手の目にどう映っているのかに興味を持って観察するべきなのだ。ところが彼は他人を全く見ていない ────

おかあつ日記 : 空気を読む日本人・空気を読まない日本人 より抜粋

日本人の語学オンチの例を挙げれば切りがない。

日本人が語学が苦手である原因は、恐らく単一ではない。複数の理由が重なりあって相乗効果を発生させている。その理由を以下で挙げてみる。
  1. 日本人は島国に住んでおり、常に言語的に圧縮されている。
    日本にも当然方言はある。だが大陸の言語の様に、地域によって徐々に言葉が変化して行き、最終的に意思疎通が不可能な違う言語になってしまう、ということはない。日本語は、常に日本列島という圧力釜によって高圧で圧縮されている。方言が生まれても他の地域の言語と容易に混ざってしまう。よって言葉が均一になりやすく、言葉の差異が大きい人に対応する事に慣れていない。
  2. 日本語が表意文字を使っていること。
    日本語は、中国語の文字である漢字を使い、その中国語の文字に音読みと訓読みという2種類の発音を割り当てて表意文字として使っている。 中国語では日本語と異なってはっきりと1つの漢字に1つの発音が割り当てられているのに対して、日本語では1つの漢字に多数の読み方が割り当てられている。 この事は日本人に言語の学習に対して非常にユニークな姿勢を持たせているのではないだろうか。
1. の日本の文化的な圧縮性については 『標準村』 で触れた。また 『空気を読む日本人・空気を読まない日本人』 『寛容さ」 なども併せてご笑覧頂けたら幸いと思う。ここでは2についてもう少し深く考えてみたい。

英語・タイ語・ラオ語などは表音文字(アルファベット)の文化である。つまり、もしも知らない単語と出くわしても、その文字に書かれていることを、まるで楽譜を読むように、書かれているとおりに発音すれば、最低限読むことは可能だ。読んでみたら、聞いたことのある知っている単語かも知れない。つまり読むことに対して必要とする知識が少ない。全ては英語で26種類の文字・タイ語であれば42種類・ラオ語で27種類の文字の組み合わせで表現できる。ところが日本語の場合、知らない単語は読むことすら出来無い。日本語の文字を読むためには、必ず知識が必要で、読むことが出来なければ、意味も理解出来無い。

日本語では、読むという行為に対して要求する知識の量が多い。英語・タイ語・ラオ語は、読み方に対する簡単な理解を元に、無知識で全てを解読する事が出来るが、日本人は知らない単語は絶対に読むことが出来ず、解読には知識量を要求する。

人は言葉を覚える時、必ず音から覚える。いぬを指さし「いぬ」という音を発音し「いぬ」という言葉を覚える。「ねこ」を指さし「ねこ」と発音し「ねこ」という言葉を覚える。これは世界の言語に於いて、必ず共通の事である。しかし文字は、言語によって状況が異なる。

表音文字のひらがなではどうだろう。「い」が「い」という発音であることを覚える。そして「ぬ」が「ぬ」という発音であることを覚える。だから「いぬ」と書いてあるものを目にした場合、それをひとつひとつ音声として発音することで「いぬ」という単語を再現出来る。その再現した自分の声を聞けば、かつて「いぬ」という並びを見たことがなくても、それが「いぬ」の事なのだ、ということを理解する事が出来るであろう。同様にして、かつて「ねこ」という並びをみたことがなくても「ねこ」を理解することが出来る。

ところが表意文字の漢字はそうではない。 もしも初めて「犬」という字を目にしたとする。これは音声に置き換える事が出来無い。よって何と読むかもわからない。よって、意味もわからない。 もしも初めて「猫」という字を目にしたとする。これも同様にして意味を理解する事は出来無い。「犬」が「いぬ」の事なのだ、「猫」が「ねこ」の事なのだ、と理解するためには、予めこの字の読み方と意味を別な場所で学んでいる必要がある

表音文字と表意文字の違いは、学習プロセスに大きな違いを与える。
 
表音文字を使う言語では、全てを体験から学習する事が可能だ。その言語を話す中で、実際に身の回りで起こったことや、人と出会って体験したことが、音声と結びつくことにより、単語とその意味を学習する事が出来る。そして後に本を読むことで、音声として覚えた単語を文字として再確認する事が可能だ。

だが表意文字を使う文化では、この実体験に基づく単語学習プロセスが使えない。表意文字の言語も、その言葉を話す中で実際に身の回りで起こったことや、人と出会って体験したことを音声として結びつける事で学習するという点に於いては、全く同じである。 だが、机の前で予め別途学習しない限り、音声として覚えた単語と、本に記されている文字は結びつかない。 理解するためには必ず全ての文字が既知である必要があり、文字は必ずその読み方と意味を別途学習する必要がある。

表音文字を使う言語では、言語の全てを経験から学ぶことが出来るが、表意文字を使う言語では、言語の全てを経験から学ぶことが出来無い。表意文字を使う言語では、文字と音声が結びつける為に経験だけでは不充分であり、必ず知識が必要となる。よって知識を得る為に必ず実生活上の経験だけでなく机上ワークが必要になる。

日本語は、言葉を学ぶ時に、簡単な法則を理解することよりも、全てを知り尽くす事がより重要となるのではないだろうか。そしてこの性質が、日本人に理解よりも知識量に重点をを置く傾向をもたせるのではないだろうか。 知識量が重要な日本語をネイティブの言語として話す日本人は、知識量よりも法則の理解が大切な外国語を学ぶ時であっても、無意識の内に理解力を使わずに全てを知識量だけで解決しようとしてしまうところがあるのではないか。

一説によると、日本語で最大の辞書は、英語で最大の辞書の紙量の倍以上あるという。そして、英語辞書の中身の数割は派生語(接頭辞や接尾辞などを付けることにより自動的に導き出される単語)であるという。(※) この点だけを見ても、日本語が前提として要求している知識量の多さを感じさせないだろうか。

※ 日本最大の権威的辞書と言われる 日本国語大辞典第二版 の公式ホームページによると、実に全20巻・収録語彙数は60万語という。一方、英語最大の権威的辞書である OED(Oxford English Dictionary) の公式ホームページによると、全10巻・収録語数は約252,200との事である。この様に、分厚さだけでも2倍・収録語彙数で2倍以上の違いが存在する。

日本では、難解な文章を書く人がより尊ばれる傾向がある。これは、わかりやすく明解な文章を書く人が尊ばれる英語圏と対照的である。日本人には、難しい単語を沢山知っている事が知的である証と見る風習がある。 英語圏の文章では、一般的でない辞書に載っていない単語を使って文章を書く時は、まずその単語の定義が説明することが要求される。だが日本語では、一般的でない辞書に載っていない単語をこれみよがしに威張って堂々と使う傾向が有りはしないか。もしも読者がその単語を知らなければ、筆者は「無知はアホ・勉強しなおして出なおしてこい」と言わんばかりに追い返してしまう。

日本の本屋に行くと、理解しやすい文章は低劣であると言わんばかりに、難解な専門用語で溢れる哲学書・コンピューター書籍であふれていやしないだろうか。哲学やコンピューターサイエンスは、詩ではない。イマジネーション溢れる難解な単語の美しさを競う場ではない。(浅田氏・柄谷某氏を引き合いに出すまでもなかろう。彼らは馬鹿ではない。恐らく彼らは難解で詩的な書き方が一般にうける事を理解してわざと難解に書いている。) その意味は、はっきりと曖昧さ無く理解可能なものでなければいけない。日本語の翻訳を読んで理解出来なかった難解な哲学を原書で読んだら、実に簡単なことが書かれている事に驚いたなどという事は、決して珍しいことではない。

よしんばそれが日本の文章文化である、としよう。だが日本の常識は、世界の非常識である。書く文章は、全て意味が簡潔で明解でなければならない。言語明瞭・意味不明は、日本の外では尊敬されるどころか、馬鹿の代名詞なのである。

日本人の知識偏重の教育に対する批判がなされて久しい。これはひょっとしたら日本人が表意文字を使うことと関連しているのではないだろうか。言葉とは実はもっと簡単なものだ。

参照:
おかあつ日記:『┌(┌ ^o^)┐ ホモフォーンと日本語 ── 日本的語学オンチのその理由2 』

関連記事:タイ東北弁イサーン語とは
更新記録:
・見出し数に関する文章追加 (Mon, 30 Jul 2012 18:29:52 +0700)
『標準村』へのリンクを追加 (Tue, 31 Jul 2012 18:43:58 +0700)
・「いぬ」「ねこ」の件・リンク等を追加 (Wed, 01 Aug 2012 05:11:50 +0700)
・知識量と理解力の件を若干変更した。(Fri, 03 Aug 2012 01:41:59 +0700)
・リンク切れを修正した。(Wed, 27 Jan 2016 03:33:40 +0700)
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 03:42:49 +0700)
・最後の『変更履歴』を『更新記録』に名称変更した。(Wed, 27 Jan 2016 03:46:39 +0700)