筆者はしばしば「日本は人間の圧力鍋だ」と思う。日本人は、日本列島という島国に住んでおり、常に人が言語的・文化的に圧縮されていると思う。だが、日本に生まれ日本に住んでいたら「日本は圧力鍋だ」などと言われても、誰もが「そんなことはない」と言うのではないだろうか。
筆者は「日本は民族の住み分けが無い」と思う。だがそれも、日本に生まれた日本人に言わせれば、そんなことはないという人が大半であろう。また日本語は、他の言語と比べるとずっと方言の差異が小さい。それも日本に生まれた日本人なら当然「そんなことは無い」という人が大半であろう。
筆者が「日本は人間の圧力鍋だ」と思うのは、中国滞在の経験があるからだ。筆者が何故この様に考えるに至ったか、以下で述べてみたい。
筆者は2010年末、タイから汽車とバスを乗り継いで雲南省昆明へ行き、昆明の華僑学校で3ヶ月間の中国語の短期集中講座を受けた。華僑学校では、筆者が「方言地獄」と呼んでいる言語的に非常に複雑な環境に置かれる事になり、そこで大変な辛酸を舐めた。そこで起こった事については稿を改めよう。いずれにせよ、そんな苦行のような中国語集中講座の後、筆者は多少だが中国語を話すことが出来るようになった。
その後、筆者は一旦日本に帰国し、残った中国滞在ビザを使って、念願だった北京から電車に乗ってタイに行くという旅行に出たのだった。
※実は筆者は華僑学校に在籍した時、既にラオ語・タイ語の方言についての知識を持っていた。この知識が華僑学校で思いもよらぬ効果を与える事を知った。方言地獄で揉まれる中で、この知識がとても役に立った。実は中 国語の方言の発生の仕方と、ラオ語の方言の発生の仕方は非常に似ており、ラオ語の方言変化の知識は、中国語の方言を聞き分ける為に応用する事が出来ること に気がついた。加えて筆者は僅かだが雲南方言を聞き分ける事に成功した。これは雲南方言とラオ語が非常に近い関係にある事も関係していたと思われるが、詳しいことはまだよくわからない。 このスキルが、この中国滞在上、色々と役に立った。
折しも震災の直後だったが、筆者は、北京(天津)から上海に向かう列車の中に居た。北京から来る列車には当然北京の人が大勢乗っている。中国人だからと言って北京の人が上海の地理に明るい訳ではない。当然北京の人は、上海に降りた後でそばの人に道を訪ねたりしていた。筆者がその時見かけた人は、にこやかなおじさんで、そばの若者たちに道を訪ねていた。だが若者は完全無視だった。このことに筆者はたいへん驚いた。彼ら上海の若者は、北京の人がしゃべっていることを理解していなかったのかも知れない。或いは理解しても返事をする気がなかったのかも知れない。
日本であれば、話しかけた人が如何に自分の気に入らない人であろうが、返事くらいはするのではないか、と思う。或いは嫌な顔をして嫌味を投げかける位な事もするのではないだろうか。中国はそのいずれでもなかった。完全無視である。日本では、完全に無視する事は、はっきりとした敵対行為であり「イジメ」と見做される事が一般的ではないか。だが無視は中国では一般的なのだという事を思った。この様な例は中国滞在中に無数に見た。
中国人は本当に人の対処の仕方が乱暴だ、と筆者も最初は思ったのだが、よく観察してみると、中国の人たちは、地元の人とよそから来た人をはっきりと見分けていることに気がついた。このことを中国語で「内地人」「外地人」と言うらしい。
よそから来た人に対しては非常に乱暴な扱いをするが、地元の人同士であれば、日本人と同じように挨拶をしたり謝ったり敬ったりする。日本人はしばしば、中国人は人とぶつかっても謝らないというが、筆者が見ている限り、内地人同士がぶつかった場合、きちんと謝っている。また自分が如何に外地人でも、きちんと礼を持って接すれば、礼を持って応答してくれることにも気がついた。
この事実は、筆者に住み分けという行為を連想させた。
住み分けとは、自分が理解出来無い人、自分が気に入らない人、自分が嫌いだと思う人とは、積極的な関わりを持たないことだ。自分と合わない人と関われば、必ずトラブルに発展する。外地人とは絶対に理解し合えないという諦観がある。 中国は、巨大な大陸にある巨大な社会だ。人は無数に居る。人間関係は広大だ。人生の中で、同じ人と二度出会うことは絶対にないと断言できる程に巨大である。わざわざ自分と合わない人と努力して付き合うよりは、自分と合う人とだけ付き合っていた方がよい。そうすると、自然と合う人同士が集合する様になり、住み分けが生まれる。
日本ではこうはいかない。日本は狭い島国であり、狭い村社会に住んでいる。人生の中で、同じ人と何度も出会う。知らない人に話しかけられた時、完全無視を決め込んだら、実は旦那の会社の部長の奥さんだった、などという話しは珍しい話ではない。日本は、島国であり、社会が小さくこじんまりとまとまっている村社会である。 そういう中で「袖触り合うも多生の縁」と言って、日常生活上些細なきっかけで知り合った人とも丁寧に付き合う文化を育んできた。この様に、日本には住み分けがない。
これまで筆者は、日本で日本語が堪能な中国人と出会って話をする際、少しでも話しのあわない点が見えると、いきなり会話を中断して絶交されてしまうという経験を数度経験した。これは中国の大陸的な人間関係の風習から来る行為だと筆者は理解している。中国人は、自分が合わないと感じる人と無理にコミュニケーションを取らずに、住み分けを作ることで衝突を回避しようとする人が多い。相手に迎合したり、相手に迎合させたりすることを望まない。
一方、中国で中国語を学んでいる日本人の話を伺うと、しばしば、中国に無数に居る無数の文化の無数の言語の人たちと、一切住み分けを作らずに完璧なコミュニケーションを取ろうとするあまり、神経をすり減らし心労衰弱しノイローゼになってしまうという例も数例見た。これも看過できない問題である。
日本人は地域によって人の性質が違うという点を認めることは、差別だと考える傾向がある。だがこれは間違っていると筆者は考えている。しばしば筆者は「地域によって人の性格が違うなんて、思い込み!人は、みんな同じ!」等と非難されるのだが、こういう発言をする彼は、相手に対して自分に対する迎合を強制している事に気が付いていないところがあるのではないか。 お互いが自分と相手が異なる、という点を認め合っているからこそ、他人同士のコミュニケーションが成り立つ。その中で「違うなんて思い込みだ!」と言ってしまえば、それはコミュニケーション上、相手が自分とおなじ様に振る舞う様に脅迫するのと等しい。これはひとつの暴力である。人の傾向と地域には必ず強い関連があり、それは必ず地域によって異なる。
一般的に、文化的・言語的な差異に対応する最善の策は、標準語を学ぶ事であると考えられている。学校では必ずそう習うであろう。だが、標準語は、世界で最も巨大な建前である。標準語をネイティブ言語として話す人は、この世の中に存在しない。標準語の学習が進めば進むほど、理解出来なくなり、リスニングが出来なくなり、コミュニケーションが困難になる。これは、世界中どこに行っても変わらない、ひとつの真実である。 相手に標準に従うことを要求する事は、ひとつの暴力である。 目の前に居る、その人が標準である。
勿論、最終的には正しく標準語を使うことがコミュニケーション上重要になってくる。だがこれは決して標準語村の村民に仲間入りする事ではない。標準語を話す人たちの住む、標準という名の村が存在する訳ではない。本来標準とは、あくまでもお互いが違うのだということを認め合った上で、謙虚に相手の文化に敬意を払う為の道具に過ぎない。標準語が上手であるから尊敬する、或いは逆に標準語が下手であることを理由に相手を仲間はずれにするような行為は、そもそも標準の精神に背く。
だが、村社会を否定した日本人は、新たに標準語村という名の村社会を創りだした。日本社会で生活する上での実際上、相手の出身や方言によって違いがあるという事を認める事は、好ましいこととされず、往々にして差別として糾弾される事がおおいのではないだろうか。この習慣が、日本人に独特な「皆同じ」という幻想を作り出し、皆同じであるべきであると考え、異なろうが必ず同じように振る舞うべきという同調圧力を生み出しているのではないだろうか。
この日本の奇妙な標準語村という文化も、大陸の様に住み分けが可能なら不要なことだったかも知れない。 実際、中国では政府が声を枯らして標準語の大切さを説いているが、標準語の普及率は決して高くないからだ。嫌いな人と標準語を使って無理をして話しあうよりも、住み分けが方がずっと簡単にずっと気分よく過ごせる。
日本人は、国際コミュニケーションが苦手だと思われがちだが、全く異なる文化の人と気長に粘り強く付き合うことはむしろ得意だ。 反面、大陸の人ならば誰もが身につけている様な、表情や仕草や訛りなどの小さな兆候から民族や人種を見分ける目利きが苦手なところがある。
これこそが、この日本という圧縮鍋の為す業ではないだろうか。
参照:
表意文字のハンデ ── 日本的語学オンチのその理由
更新記録:
タイトルを「標準村」から「標準村 ─ 住み分けについて」に変更 (Thu, 08 Aug 2013 20:47:29 +0900)
・リンク切れを修正した。(Wed, 27 Jan 2016 03:38:34 +0700)
・関連記事表示の自動化を行った。(Wed, 27 Jan 2016 03:39:41 +0700)