言いたいことを言わない人がいる ─── だが僕にはよくわからない。僕は言いたいことを言ってしまう。だがどういう訳か僕は、言いたいことを言わない人と仲良くなりやすい傾向がある。僕の友達は言いたいことを言わない人が多い ─── そこに僕の特殊性がある。
言いたいことを言わない人は大抵、とても空気読みだ。空気を読む人は、相手の望みを察して忖度して言わなかったり、相手の聞きたい言葉に合わせていうことを変えてしまったりりする。だが言いたいことをいう人はしばしば空気が読めない。彼らは忖度しないしできない。 彼らは相手の意図に気が付かずにそのまま現実の問題を話してしまうし、それを話した結果その人がどういう反応を示すのかに気付かない。
僕はその点からみてとても特殊だ。僕は言いたいことを言ってしまうタイプであると同時に、僕は空気読みが出来ない人間ではない。僕が人と話す時は大抵、相手の言って欲しいこと言って欲しくないことに気付いている。だが僕は言いたいことをはっきりいうタイプなので、相手が言われたくないことがあると気付いた時に、僕はしばしば無視する。それどころか僕は意図的に、相手が嫌がることを言ったりしてしまうこともある。
僕は何故そのようなことをするのか。
空気が読める人の善意
相手が嫌がることを好んでいう僕は性格の悪い奴なのだろうか ─── そうではない。相手が本心を言えないように相手に圧力を掛けてくるタイプの人は、しばしば自分が嘘をついていることに気付いている。心の弱さから直視できないものがある。心の弱さから受け入れられない現実がある。それを他人に責任転嫁することで回避しようとする。そしてそれを「お前は空気の読めないやつだ」と他人を非難することで責任転嫁を図り、一時的な精神的な安定を作りだそうとしている。
空気が読める人は、相手の心の弱さを見ることができる。空気が読める人はしばしば思いやりがあり、相手をいたわる気持ちが強いので、相手の弱さに気づくとそれを更に傷めつけることがないように優しく避けようとする。 ─── ところが僕は空気が読めるにも関わらず言いたいこともいうという相反する性質を同時に持っている。僕は相手の弱さがあると、まずそこを指摘してやりたくなる。僕はまず言いたいことを言いたい。
僕は空気が読めない人が嫌いだし、一緒にいるのも嫌だ。一緒にいるだけで気分が悪い ─── と同時に空気が読めない人が大好きなのだ。空気の読めない人はとても理論的で数学物理科学などに明るい人が多い。僕は空気が読めない人と延々と数学談義をすることに耐え難い快楽を覚える全く空気の読めない人間でもある ─── そこに僕の不幸がある。
しばしば心の弱さをもつ空気が読めない人は、しばしば空気が読める人に強硬な圧力を掛けて責任転嫁を図ろうとする。何故相手を思いやろうとする優しい人間が、相手を思いやらない弱い人間の責任転嫁の被害者とならなければならないのか? 僕はそこが解せない。
僕はどうしても仲の良い人に空気が読める人が多く、彼らが空気が読めない人とのいざこざに巻き込まれた時に空気が読めない僕が助けるという立場になってしまうことが多い。なので僕はしばしば空気の読める人の代弁者として、空気の読めない人たちに向かって空気が読める人のこころの叫びを吠える…という役割になってしまうことが多い。
─── だがまぁとはいえ、空気が読めない人が多少、悪いことをしてしまうのも、それはそれでよいのではないか。人には誰でも心の弱さがある。それを少しくらい不正を働いて発散するということが、あってもよい。空気が読めない人はしばしば、責任ある立場に立って大きなプレッシャーを背負って生きている。多少息抜きがなければ疲れてしまう。人間だから多少の間違いは犯す。僕は、一切の不正を許さないほど不寛容ではない。
ところが空気が読めない人に寄り添って、空気が読める人とやりあってると、時折ごく稀に、空気が読めない人の非常に強い悪意に気付いてしまうことがあるのだ。
空気が読めない人の悪意
空気が読める人はしばしば理屈に弱い。空気が読めない人はしばしば理屈に強い。そして理屈に強い空気が読めない人はしばしば、空気が読める人が理屈に弱いことを知っている。それで空気が読めない人は、理屈を振り回して空気が読める人に「お前は馬鹿だからこれは理解できないかも知れないが」と、空気が読める人が理屈を理解できないことを良いことに、かなり強引で一方的な都合を押し付けてしまうことがある。
それは大抵の場合は他愛のない深刻でない話題のことが多い。僕は大抵の場合、そういう不正を見ても黙っている。多少の不正をいちいち暴く必要はない。それは誰も気付かず、闇から闇へと消えていく ─── それで良いではないか!人間なのだから!
だが空気が読めない人と理屈っぽい会話でああでもない、こうでもない、と口喧嘩をしている時に、ふとどうやっても辻褄の合わないことを言っていることに気付いてしまうことがある。 ─── 空気が読めない人はしばしば、辻褄を合わせることは極めて得意なので、辻褄が合わない事はまず言わない。空気が読めない人は、そもそも辻褄があわなくなるような会話の流れになってしまうこと自体を予想して予め避ける。 ─── だが、僕は空気が読めない理屈っぽい人間であると同時に、空気が読める感情的な人間でもある。理屈と感情を同時に押したり引いたりしているうちにふと、彼ら空気が読めない人のいうことに、明らかに辻褄が合わないところがある事に気付いてしまうことがある。
空気が読めない人間は大抵、理論に明るい。だからそこにある理論が、相手に対して何かの危害を及ぼすようなものであったとしたならば、それは大抵、意図的なものだ。論理的に見て相手に危害が及ぶ可能性があることに気がついていない筈は絶対にないのだ。
空気が読めるし読めない人の考え
実際僕自身空気が読める人で言いたいことがいえないことも多い。僕が相手の無言の圧力に負けて言いたいことが言えないことなど日常茶飯事だ。僕が言いたいことを言えないことを良いことに好き放題なことを言って、僕が言い返せずに黙って黙々と苦痛に耐えていることへの配慮も示さず、僕に対して責任転嫁をする人はたくさんいる。
だが僕は実は、空気が読める言いたいことが言えない人間であると同時に、空気が読めないとても理屈っぽい人間でもある。僕の中でその2つの人格が切り替わる瞬間があり、その瞬間を過ぎると、空気の読める人間が、全く空気の読めない人間へと切り替わる。その瞬間が過ぎると僕は突如として、言いたいことをきちんと論理的に整理し、全てを誰でもわかる平易な言葉として説明することができるようになる。
すると皆口を揃えて「お前は空気の読めないやつだ」と激昂して逆襲する。だが僕は非常に強く思うのだが、お前は相手が空気を読んで自分の心の弱さを労ってくれるという事に対して甘え過ぎではないのか?
彼らの弱さを指摘すると大抵の空気の読めない人たちは、自分が空気が読めない人であるという点を完全に棚上げして、僕がいかに空気が読めない人であるかということを非難しはじめる。
僕はここで相手が空気が読めるかどうかなど聞いていない。それが論理的に見て合理的なのか?と聞いているだけなのだ。 自分に与えられた仕事をきちんと実行しているのか、と聞いている時に空気のことなどを問題として何の意味がある?
空気が読めない人は自分の弱点を隠すための詭弁を作り出すことに才能を発揮する人が多い。だが詭弁など所詮詭弁だ。すぐに論理的な綻びが見つかる。それを順に指摘していくと、決まって「お前は空気が読めない」と怒り始める。
都合の良い時は空気が読める人を利用するくせに、都合の悪い時だけ空気が読めないことを非難する空気の読めない人たち。
─── 百歩譲って、それだけなら許しても良い。
だが次の瞬間、そういう理不尽を黙って笑顔で耐えている、空気の読める人たちの顔が思い出されてくる。 あの人が打ち明けた苦しみ、あの人が飲み込んできた矛盾。他人の弱さを敢えて自分の苦しみとして受け止め、他人の為に笑顔で自分と向き合って闘っている彼らの顔が浮かび上がってくる。そして猛烈に強い怒りを感じるのだ。
自分の弱さゆえの苦しみを他人に責任転嫁して許されると思っているのか?
─── どうせ馬鹿だから気付かないだろう。
僕はその言葉だけは絶対に聞きたくない。
後生だから、頼むから言わないでくれ、と思う。