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2019年8月14日水曜日

強情さとは (oka01-uqzfovsuyrzwrxqq)

自分だけが意見が違っていて大勢が「お前が間違っている」と言っているときでも、実は間違っているのはみんなで、自分が言ってることが本当に正しいということは、しばしばある。



たしかに日本でしか社会経験がなければ、多様な人のなかでぶつかりあうという経験が圧倒的に少なく、自分の絶対的な位置が見えない。だから自分の意見に対する絶対的な自信が持てないのが普通だ。だから日本では自分が間違っているときでも「間違っているのはお前だ」という責任転嫁が案外と簡単に通用してしまう面がある。

だけど海外に出て社会経験を持っていると、自分と同じ意見の人もおり、違う意見の人もおり、それぞれぶつかりあっているので、自分の絶対的な位置というものが見えてくる。

さて、そういう広い国際社会の中で社会経験を積んでから日本に帰ってくると、意見が自分だけ孤立してしまうことはよくある。僕の場合、日本社会での社会経験も10年以上積んでいるので、日本社会の常識を守れないということもない。例え自分の意見が周囲の意見と異なっていたとしても、自分の意見を押し殺してその場の雰囲気に溶け込むこともできる。

だけどその場にいる人達が全員、間違ったことを言っていると知っているとき、だからといってもちろん面と向かってプライドを傷つけるようなことを言ってよいわけはないし、暴力を振るっていいわけもないが、だがとはいえ間違っていることに対して「そうですね、それが正しいです」と言ってしまったら、そこで終わりだ。 同調するばかりでは、物事は一切進歩しない。

例えば、日本人の英語教育などがよい例ではないか。日本の英語教育は明らかに間違っている。これは『国民一億総勘違い』と言ってよい状況だ。実は『正しい英語教育』というものは存在するし、その方法は非常に具体的な形で確立している。

だが日本ではその『正しい英語教育』というものがどうしても『正しい』という一般認知を得られない。『一部でそういう意見もあります』という点で正しい意見が亜流というカテゴリの中に封じ込められてしまう。

標準英語を制定しているオクスフォードやプリンストンなどの世界トップを走る大学が標準的な英語学習法として提唱する方法論を『一部の意見』として封じ込められてしまう日本英語教育は、もはや滑稽としか言いようがない。 ─── だが日本人にはそのように「(国際的に)誰の目から見ても明らかに間違った方向に進んでいるのに、どういう訳か自分自身の足元を確認することができず、他人の意見に全く聞く耳を持たない」という事柄がいくつかある。

だがここで間違った意見に対して「そうですね、そういう意見もあっていいと思います。」と理解を示してしまったら、日本の英語教育は永遠に間違ったままだろう。

僕が勉強しているラオス語もそうだ。ラオス語に関して、ラオス人が「そうだ」といえば、それはそうなのだ。だがこれがどういうわけか、ラオス人が「そうだ」といっていることが日本人研究者のあいだで『一部の意見』とみなされ封じ込められて受け容れられない。明らかに間違った見解に固執したまま、永遠に修正されないままで放置されてしまう。批判にも一切耳を傾けない。日本人のラオス語研究の世界にはそういう不的確な事例がたくさんある。

ここで無理に正しい意見を通そうとする『強情』『社会性が低い』などと批判されてしまう─── だがこれは単に、自分の無知を指摘されて傷ついたプライドを補修する為に出てきた言い訳にすぎない。

日本社会は、妬み嫉みから出てくる言動に非常に寛容だ ─── 海外は非常に厳しい。妬み嫉みからうっかり出た発言であろうが、容赦なく取り上げられ、赤裸々に暴露され、世間に晒されてしまう。

日本人は自分も含め、他人の妬み嫉みをそっと見守ろうとする傾向がある。僕はそういう他人の心の弱さに対して理解を示す日本人の感受性が好きだ。だがそういう優しさに対して『甘え』てばかりいていいものだろうか。時には『甘え』を断ち切り、厳しさと立ち向かうことも必要ではないのか。

─── と、たまには日本人的な視点から日本人の心情を書いてみた。

だが実際の普段の僕から言わせてもらうと、そういう甘えたことを言っている人を見るとむしろ楽しい。日本社会のぬるま湯に浸かって弱り切っており、些細な痛みにも敏感になった脆弱な精神をいびりぬくのは、まるで新雪に土足を踏み入れるような快感でもある。

僕には色々な『球種』がある。 日本頑固的直球でも投げられる。国際人的変化球でもなげられる。日本的じめっ子的もできる。外交的にもなれる。内向的にもなれる。体育会系しごきでもいける。文化系おたくでもいける。

だがどれを投げても結局、僕が悪いことになってしまう。

優しくすればつけあがるし、いじめれば暴力はよくないというし、同調すれば自信がないといわれるし、正論をぶつければ協調性がないといわれる。

こんなに『言い訳ボキャブラリ』が豊富な言語を、僕は日本語以外に知らない。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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