FLAGS

MENU

NOTICE

2019年6月23日日曜日

タイ語の助動詞 ได้ と เคย の違い (oka01-kiecvuzolucjverw)


昨日、高田馬場にあるミッキーハウス という外国語カフェにタイ語をしゃべりに行ってきたのだけど、そこで ได้ไป(dâi pai ダイパイ) と เคยไป(khə̂ːi pai クーイパイ)は何が違うのか、という話題が出た。どちらも意味は『行った』だ。常駐のタイ語の先生は非常に優秀な方で日本語も上手だった。しかしこの文法的な理由の説明にはとても苦労されている様だった。

ネイティブスピーカーがこういう文法的なことを外人に説明するのは、実は非常に難しい。日本人も「は」と「が」の使い分けはどうするのか質問されて、曖昧さなく答えることができる人はごく稀だ。外人に対して、自分の母語の文法を具体的に説明するというのは、実は非常に高度な訓練が必要なことだからだ。

僕は ได้ (dâi) と เคย (kə̌ːi) の使い分けを、ほぼネイティブの方々に違和感を与えないレベルで使い分けることはできている様だ。だが僕のタイ語(ラオ語)は、誰かがまとめた文法やボキャブラリから学習したわけではなく、実地で実際に街中の人が話していることをひとつひとつ拾い集めて、自分でまとめながら身につけたものだ。だから例え僕自身が正しく使いわけることができていたとしても、何故そうなるのかまでははっきりわかっていない。

昨日その会話に参加してから、自分でも気になったいたのでいろいろと考えてまとめてみたので、ここで書いてみたい。

この文章は、タイ語についての学習が一通り終わった人向けの説明になる。発音記号や基本的な単語の意味はここでは説明しないので、各自事前に学習していることを前提とする。

なお現在時刻 2019/06/23 22:22 +9:00 の時点で、この文章はまだ、タイ人のチェックを受けていない。この文章の中にはタイ語の間違いが多く含まれている筈だ。今後、知人友人に頼んでチェックしてもらおうと思っている。 更新した内容は記事末で報告したい。

結論

基本

  • ได้ dâi は『成功』を表す。
    『できた・できない』に焦点があり、必ずしも過去を表さない
  • เคย khə̂ːi は『経験』を表す。
    『したことがある』という経験に焦点があり過去のある一時点/複数時点を表す。

特に過去形として使う時は次の法則で判別する

  • ได้ dâi は期間が限定される
    ได้ไปเซเว่นไหม (dâi pai sewên mǎi )
    ได้ไปเมื่อวานนี้ แต่วันนี้ยังไม่ได้ (dâi pai mʉ̂awaan níː tèː wanníː yanŋ mâi dâi  )
  • เคย khə̂ːi は期間が限定されない
    เคยไปเซเว่นไหม (kə̂ːi pai sewên mǎi )
    เคยไปตอนอยู่กรุงเทพฯ (kə̂ːi pai tɔːn yùː kruŋtheːp  )

以下でその理由を説明してみたい。

タイ語の助動詞は動詞でもある

タイ語にはたくさんの助動詞がある。タイ語の助動詞が、英語の助動詞と大きく違うところは、タイ語のほぼ全ての助動詞は、普通の動詞として使うこともできるということだ。英語の will must 等々の助動詞は一部の例外をのぞいて動詞としての役割を持っていない。英語とタイ語は多くの似た文法要素を持っているが、この点で大きく異なる。

タイ語の助動詞は、動詞としての使われるときの意味合いと近い意味で使われていることが多い。恐らく英語の助動詞と違って、もともとは動詞として使われていたものが助動詞として転用されるようになって定着したものなのではないだろうか。

だからタイ語の助動詞を理解するためには、まず動詞としての意味合いを理解する必要がある。

以下で主な助動詞の動詞としての役割を見ていきたい。

แล้ว(lǽːo)とは

ได้(dâi)เคย(khə̂ːi)の前に、もっとも基本の過去形 แล้ว(lǽːo) を復習してみたい。

もっともよく使う助動詞 แล้ว(lǽːo)にも動詞としての役割がある。แล้ว(lǽːo)の動詞としての意味は『終わる』だ。แล้ว(lǽːo)ほとんどの場合で助動詞として使われるが、これはそもそも『終わる』という意味の動詞だ。

แล้วยัง (lǽːo yaŋ 終わりましたか?)
แล้วแล้ว (lǽːo lǽːo 終わりました)

แล้วแล้ว lǽːo lǽːo と二回繰り返すことに違和感があるが、これはタイで生活しているとてもよく耳にする表現だ。この場合、前半の แล้ว lǽːo が動詞としての『終わる』を表しており、後半の แล้ว lǽːo は助動詞としての『終わる』を表している。つまりแล้ว lǽːo を二回繰り返すことにより『終わる』が『終わった』という意味に変化する。これは過去形のようだが、ここで一概に過去形と断言できない微妙な要素を含んでいる。その要素については後述する。

なお แล้วแล้ว lǽːo lǽːo は口語だ。特に地方出身の人がよく使う言い方なので、標準タイ語がネイティブの人には違和感を与える言い方かも知れない。標準的には เสร็จแล้ว séd lǽːo という。

※ 外人が方言を勉強するべきでない、という見方もある。だが現実的には、タイ人なら都心の人でも簡単な方言は理解することができるし、しばしば実際に使う。確かに、外人がそういう方言を使うことは決して褒められた話しではない。だが耳にしたときにそれが理解できないことは大きな問題なので、聞いて理解できる程度に勉強しておくことは望ましい。またタイ語でも日本語と同様に、方言に標準語の語源があることは決して稀ではないので、標準語の理解が深めるためにも方言は学ぶ意義がある。というのが僕の方言に関する見解だ。

ได้(dâi)とは

แล้ว(lǽːo) と同じようにได้(dâi)も動詞としての役割がある。ได้(dâi) の動詞としての基本的な意味は『得ることができた』だ。

ได้อะไรมานะครับ (dâi aʔrai maː na krap  何をもらってきましたか?)
ได้อาหารมานะครับ (dâi aːhǎːn maː ná kráp  ご飯をもらってきました。)

このように『ได้ dâi 得られる』は何かを手に入れることができた状態を表している。

อยากได้อาหารครับ (yaːk dâi aːhǎːn krap ご飯が欲しいです。)
อยากได้อันนั้น! อยากได้อันนี้! (yaːk dâi an nán  yaːk dâi an níː あれがが欲しい! これが欲しい! )
อยากได้! อยากได้!  (yaːk dâi yaːk dâi 欲しい! 欲しい! )

日常生活上、この様に欲望と直結して使われることが多いのもได้(dâi)の特徴だ。

これが行為と結びつくことで『することができた』を表す助動詞になる。

ได้ไปมายังครับ (dâi pai maː yaŋ kráp  行ってこれましたか?)
ได้ไปมาแล้วนะครับ (dâi pai maː lǽːo ná krap  行ってこれました。)

เคย(khə̂ːi)とは

เคย(khə̂ːi)もแล้ว(lǽːo) と同じように動詞としての役割がある。เคย(khə̂ːi)の動詞としての意味は『経験する』だ。

เคยไหมครับ (khə̂ːi mǎi kráp  したことはありますか?)
เคยครับ (khə̂ːi kráp  したことがあります。)

『経験する』という言葉の意味合い上、対象として結びつく単語は大抵動詞になる。

เคยไปไหมครับ (khə̂ːi pai mǎi kráp  行ったことはありますか?)
เคยไปครับ (khə̂ːi pai krap  行ったことがあります。)

助動詞として使われたときの動詞

タイ語の助動詞はもともと動詞なので、助動詞と近い意味で使われることが多い。だがその際に微妙なニュアンスの変化が起きる。

助動詞としてのแล้ว(lǽːo)

厳密に言うと、タイ語の แล้ว (lǽːo) は日本語の過去形「〜った」や英語の過去形「〜ed 」の様な単純な過去を表すわけではなく、単純に何かの動作をし終わったことを表している。

ไปแล้วหรือยังครับ (pai lǽːo rʉ̌ yaŋ kráp ≠ 行きましたか? ☓ )
ไปแล้วครับ (pai lǽːo kráp ≠ はい、行きました。 ☓)


ไปแล้วの本来の意味は『行ってしまった』で既にここにいない場合しか使えない。既にここにい居るのに『はい』と返答するのは矛盾している。こういう場合は ไปมาแล้ว と戻ってきたことも含めて言わなければいけない。

ไปมาแล้วหรือยังครับ (pai maː rʉ̌ yaŋ kráp = 君は行ってきましたか? ◯ )
ไปมาแล้วครับ (pai maː lǽːo kráp = はい、行ってきました。 ◯)

この様にタイ語のแล้วは、日本語の過去形と異なり過去の経験を表さない。

 また基本の意味が「終わった」なので、未来を表す จะと結びついて「何かが起こりそうになった」という意味を表すこともできる。

จะไปแล้วหรอครับ ( jaʔ pai lǽːo rə̌ kráp もう行ってしまうんですか?)
จะไปแล้วครับ ( jaʔ pai lǽːo kráp もう行こうと思います。)

助動詞としての ได้ (dâi)

『ได้ dâi 得る』は物と結びつき何かを手に入れることができたことを表している。これが行為と結びつくと次第に『することができた』状態を表す助動詞となる。

ได้ไปมาแล้วหรือยังครับ (dâi pai maː lǽːo rʉ̌ yaŋ krap  行ってきましたか?)
ได้ไปมาแล้วครับ (dâi pai maː lǽːo krap  行ってきました)

助動詞のได้はここで得るという基本義をやや失いできたという状態だけを表すように意味が変化しているようだ。

『ได้ dâi 得る』は厳密にいうと『得る』ことが『できた』というように得るできた2つの意味を包含している。これが行為と結びつき助動詞として使われるようになると、次第に『得る』というニュアンスが薄れ『できた』という状態のニュアンスのみが強まるのではないだろうか。

このとき文脈によっては『できた』状態という意味すらも薄れ、過去の行為のみを表すように見える場合もある。だが実際には ได้(dâi) が แล้ว(lǽːo) を伴わずに単独で表れることはない点には注意が必要だ。

ได้ไปมาไหมครับ (dâi pai maː mǎi krap ≠ 行ってきましたか?☓)
ได้ไปมาครับ (dâi pai maː krap ≠ 行ってきました)

ここから ได้は過去を表す機能までは獲得していないという推測が成り立つ。

このことは จะได้ ( jaʔ dâi ) という未来形の文例でよりはっきりと明らかになる。次で見るようにจะได้ ( jaʔ dâi ) には『〜することができた』というようなニュアンスが強くなる。

จะได้ไปสวรรค์ไหมครับ ( jaʔ dâi pai saʔwǎːn mǎi kráp  天国に行けますか?)
ทำยังนี้แล้วก็จะได้ไปสวรรค์แน่นอนนะครับ (tham yaŋ nîː lǽːo jaʔ dâi pai saʔwaːn næ̂ː nɔːn kráp こういう風にすれば絶対に天国に行けます。)

否定形 จะไม่ได้ ( jaʔ mâi dâi ) でも同様だ。

จะไม่ได้ไปสวรรค์ใช่ไหมครับ (jaʔ mâi dâi pai saʔwǎːn châi mǎi kráp 天国には行けませんか?)
ทำยังนั้นแล้วก็จะไม่ได้ไปสวรรค์แน่นอนนะครับ (tham yaŋ nan lǽːo kɔ jaʔ mâi dâi pai saʔwaːn næ̂ː nɔːn kráp  そんなことをしていたら天国は行くことは絶対にないでしょう。)

ได้(dâi)が帯びていた時間的なニュアンスが消え『できた・できてない』に焦点が移動していることがわかる。

次の文章はもう少し違ったニュアンスを持っている。

ไม่ได้ไปโร้งเรียนใช่ไหมครับ (jaʔ mâi dâi pai rɔ́ːŋ rian châi mǎi kráp   学校にいくつもりはないですか?)
ทำยังนั้นก็จะไม่ได้ไปโร้งเรียนแน่นอนนะครับ (tham yaŋ nan lǽːo kɔ jaʔ mâi dâi pai rɔ́ːŋ rian næ̂ː nɔːn kráp  そんなことをしていたら、私は絶対に学校に行くことはないでしょう。)

 
この例文は天国の例文を学校に置き換えただけだが、全く違った文脈がある。ニュアンスが『できた・できてない』 から、やや本人の意志に関連するように焦点が移動している。状態から意志へ、つまり『できた(状態にする意志がある)のか』『するつもりがあるかないか』という点に焦点が移動しているようだ。

一般的に ไม่ได้ 〜 (mâi dâi) という使われ方をした場合は「〜する意志がなくなった」とややニュアンスを変えて訳すのが一般的だと言われている。その背景には、飽くまでも話題の中心が「できた・できていない」という状態を焦点にしているからという面があるのではないだろうか。

助動詞としてのเคย(khə̂ːi)

เคย(khə̂ːi)も『経験する』という動詞なので、未来形を取ることもできる筈だ。

เคยไปไหมครับ (khə̂ːi pai mǎi krap  行ったことありますか?☓ )
ไม่เคยไปครับ แต่เดี๋ยวจะเคยครับ (mâi khə̂ːi pai kráp tèː dǐao jaʔ khə̂ːi kráp  行ったことありません。しかしそのうち行きます。☓ )

この文章は文法的には間違っていないが、あまり聞いたことがない言い方だ。เคย(khə̂ːi)と組み合わさった熟語として ชินเคย(chin khə̂ːi 慣れる)という表現がある。こちらも未来形をとるとあまり聞いたことがない表現になる。

จะชินเคยไหมครับ ( jaʔ chin khə̂ːi mǎi krap 慣れますか?☓)

เคย(khə̂ːi)がなければ比較的よく耳にする表現になる。

จะชินไหมครับ (jaʔ chin mǎi kráp  慣れますか? )
จะชินครับ (jaʔ chin kráp 慣れます。)

どうやら เคย(khə̂ːi) は จะ と結びつくことができない様だ。


また เคย(khə̂ːi) は ได้(dâi) と異なり แล้ว(lǽːo) を必要としない。เคย(khə̂ːi)は単独で表れることができる

เคยไปไหมครับ (khə̂ːi pai mǎi kráp 行ったことはありますか?)
เคยไปครับ  (khə̂ːi pai kráp  行ったことがあります。 )

以上のことから、เคย(khə̂ːi) には過去のある時点を表す時制の機能を持っているという推測が成り立つ。

なおแล้ว (lǽːo)と共に使うこともできる。แล้ว(lǽːo)がつくことによって、経験し終わったことを強調することができる。

เคยไปไหมครับ (khə̂ːi pai mǎi kráp 行ったことありますか?)
เคยแล้วครับ เพิ่งไปมาแล้วเมื่อวานนี้ครับ (khə̂ːi lǽːo kráp phʉ̂ŋ pai ma: lǽːo mʉ̂a waːn níː kráp 行ったことあります! つい昨日行ってきました! )

余談・ได้ のいろいろ

いつを尋ねる ได้

タイ語で『when いつ』を表す表現に เมื่อไหร่ (mʉ̂a rài) という表現がある。これをタイと近縁の言語であるラオス語では ເມື່ອໃດ(mʉ̄a da̠i) = เมื่อได้ (mʉ̂a dai) と綴り ไหร่ の代わりに ได้ を使う。 タイ語では単独でしか使われない เมื่อไหร่ (mʉ̂a dai) がラオス語では次のように2つの単語に分かれて使われることがある。

ເມອໃດເຈົ້າໄປປະເທດລາວ〜 (mʉ̄a da̠i jâo pa̠i paʔ theːd láːo  ラオスにいくときはいつも〜)
ເມອເຈົ້າໃດໄປປະເທດລາວ〜 (mʉ̄a jâo da̠i pa̠i paʔ theːd láːo  ラオスに行った時〜)

※ この二文は前後の文脈によって意味がかわるので、違う文章として訳されると思う。要調査。

ラオ語の日常表現がタイ語の古語として残っているところなどを見ると、ラオ語のほうがやや古い言語なのではないかという推測が成り立つ。すると เมื่อไหร่ (mʉ̂a rài)  の ไหร่ (rài)は、元々はได้(dâi)だったのではないか、という推測も成り立つ。

つまりเมื่อไหร่(mʉ̂a rài) は時間を表すเมื่อと成功を表すได้(dâi)が組み合わさってできた表現かも知れない、という推測も成り立つ。

この様に、タイ語とラオ語やその周辺の方言と比較すると連続性が見つかることは珍しくない。

能力を尋ねるได้

『可能』のได้の場合、『許可する』という意味と『能力がある』という意味の2つの意味がある。

พูดไทยได้ไหมครับ (phûːd thai dâi mǎi タイ語を話せますか?)
พูดไทยได้ครับ (phûːd thai dâi タイ語を話せます。)

この時、その場所でタイ語を話してもいいのか、あるいはタイ語を話す能力があるのか、どちらを聞いているのかはっきりしない。 ได้ でも能力について訪ねることができるがやや曖昧だ。曖昧さがないように能力について尋ねる時は เป็น を使う。

พูดไทยเป้นไหมครับ (phûːd thai pen mǎi タイ語を話せますか?)
พูดไทยเป้นครับ (phûːd thai pen タイ語を話せます。)


終わりに

  • ได้ dâi は『成功』を表す。
    『できた・できない』に焦点があり、必ずしも過去を表さない。
  • เคย khə̂ːi は『経験』を表す。
    『したことがある』という経験に焦点があり、過去の一時点を表す。
ということについて説明をしてみた。

1〜2時間で書き上げるつもりだったのに、書き始めてみたら丸12時間程度掛かってしまった ─── 数で見ると不規則な文法は全体の1割で残りは全部規則的なのだけど、使用頻度で見ると文章の9割が不規則でうめつくされる。 文法の説明はいつもほとんど9割近くを占める例外との戦いで、文法の説明はいつもいつも『思ったより大変』だ。

言語の研究はとても楽しいが、こういう不規則な文法を、言語研究が専門の大学の先生がきちんとまとめていてくれていたなら、素人がこんなに苦労することないのにな…とは思う。






更新記録:
โร้งเรียน をร้องเรียนと綴っていた間違いを修正した。 ขอบคุณครับ คุณTheeradon  (Mon, 24 Jun 2019 14:13:23 +0900)

『特に過去形として使う時は次の法則で判別する』を追加した。 ขอบคุณครับ คุณTheeradon (Mon, 24 Jun 2019 14:55:38 +0900)



余談メモ1:
เคยไปตอนอยู่กรุงเทพฯ  とはいうけども
เคยไปเมื่ออยู่กรุงเทพฯ  とはいわない。
何故だかは僕にも解らないが、僕も無意識のうちに使い分けていた。

語学は理詰めで勉強すると行き詰まる。 文法から勉強したのでは時間がかかりすぎて、とてもではないが生活に必要な語彙を網羅することは不可能だ。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




おかあつ日記メニューバーをリセット


©2022 オカアツシ ALL RIGHT RESERVED