この間、テスタロッサに乗ってナンパする場面をビデオに撮って「人はどれくらいお金で動くのか」というテーマでビデオを撮りまくって、YouTubeにアップしているニューヨーク人が居て、それを見て色々思った。
https://www.youtube.com/watch?v=JXc_HkWgjuA
僕の聞き間違いでなければ、彼は自分のことを quik と呼んでた様な気がする。早口で喋ってるので、自信ないが多分言った。 quikという言葉を知らないのだが、調べたらユダヤ人と書いてあった。多分だけどそうなのではないか、という気がする。
ユダヤ人といえば、陰謀論の主人公ぐらいに思ってる夢見がちな人も多いと思うが、英語でビデオ見てると、結構普通に出てくる。実際のユダヤ人とは、実に素 朴で普通だ。ある意味、日本で言えば、朝鮮人と似ていると思う。ビジネスをしている人に非常に多い一方、結構差別もされているという面で。
ビデオの中で、なんか結構真面目っぽい感じの女の子が、そのテスタロッサに乗ってナンパする男に引っかかって、一緒に出かけてもいい、と合意する。そのあとで「実はこれは、社会実験の一環で、あそこにカメラもあります」と種明かししたら、飽くまで笑顔は絶やさず、だが複雑な顔をしていた。
かくもお金は人に嘘をつかせるものなのだろうか。
こういう風に「札びら」で顔をひっぱたくようにして人を動かしている人が、タイにくると、巧くお金だけ掠め取られてしまう…ということが多いのだが、これを見て僕が思うに、タイには嘘を言ってもその嘘を自分で信じたりするバカは、居ないということではないか、と思う。
で、白人は、こういう風に「札びら」で顔をひっぱたかれるとどうするか…と。お金の為に愛していると嘘をついたりする所までは、タイ人と同じではないか、と思うのだが、往々にしてその後の反応が違う、と思った。 白人の人らは、自分がついた嘘を頑張って信じようとする。真面目なのだ。
日本人も僕が思うに、どちらかというと白人の人と近い反応をするのではないか、と僕は思う。嘘を頑張って信じようとする。それが明らかに嘘だとわかっていても、誠意を持ってその嘘を信じようと努力する。
まぁ、勿論人にもよるが。 だが、金輪際ウソには騙されない感じのあるタイや中国(=大陸の人)を見ると、日本人の真面目さは驚異的だ。真面目さを通り越して、バカにしか見えない勢いだ。
で、思うのだが、日本人が「だまされない」という状態にくることは、あるのだろうか。今、僕はツイッターを見ていて、その事を激しく思う。情報を集める。事実を知る。「あぁーそうなのか!」 で、スッキリして終わり。明日の朝には、元通りウソを信じて毎日を過ごしている。真面目なのだ。
そういう風に、疑って、事実を知ろうとする人は、日常生活上「変態」「妄想狂」「不真面目」「不誠実」という様な判断を受ける。 ぶっちゃけ、これだけ疑り深い僕だが、そんな僕にもツイッターで政治を語り続ける人に対して、そういう風な偏見はある。
僕は妄想狂ではない。そう断言できる。 何故なら、タイでは騙し合いが日常だからだ。騙されやすい人は、その辺の市場ですらまともに買い物出来ない。信じやすかったら、すぐボッタクられる。生活が既に陰謀の世界なので、「陰謀論」とか「妄想狂」とか言ってるノンキな隙は存在しない。
生活が既に陰謀の世界=それはタイというか、中国もアメリカもどこも同じようなものだ。量販店ですら油断できない。店員に釣りをごまかされたり、商品情報を知らないのに、知っているかのように吹聴し続ける店員がいたり etc.
だがしかし、日本人には「事実を推測する」「実際に行動する」「自分もウソをついて相手を撹乱し、ボッタクられない様に防御する」という、大陸では誰もが当然のようにやる社交テクを、誰もやらない。
騙されない為に必要な行動・・・それを、やろうともしない。やってはいけないからだ。だが我慢できなくなると、やったふりだけして、ガス抜きする。で、結局やらない。
本屋に大量に積みあがる、「毒にも薬にもならない」本の山。 読んで知識を得ても、行動に生かされないなら、何故知る必要があるのだろう。
事実を語らないなら、何を語るのだろうか ─── その空間を埋めるのが、テレビ番組等々の情報コンテンツだ。
知的嗜好品とでもいうか。ちょっとむずかし目の文学作品・長編マンガを制覇したり、古いレコードをコレクトして理解しようとしたり、絵画の世界を嗜んでみたり…。 騙されやすい人は、そういう知的な遊びを好む。
騙されやすい人は、結果的に、ちょっと「浮世離れ」しているというか、精神が常にそういう非現実の世界を漂っており、実際に目の前にいる人間を観察するという能力が退化してしまう、そういうタイプの人が多いのではないか、と思う。 真面目なのだ。
真面目な人は、現実を知的な情報収集によって理解しようとする。よって、与える情報をちょっと狂わせると、実に簡単に騙されてしまう。目の前にある現実(=人間)を観察する、という習慣がないからだ。
歌を歌うとか、踊りを踊るとか、絵を書くとか、そういうことを学習によらずに獲得している人を「天才」と呼ぶ…日本では。だが大陸に来ると、そういう物を本能的に実践する人が普通にその辺りにゴロゴロしているので、誰も「天才」などと言って崇めたりしない。それは、ある種の運動神経なのだ。
一方、知的な能力の高い人=騙されやすい人・・・は、普通、歌を歌うとか、踊りを踊るとか、絵を描くといった能力が低い人が多い。
僕が、日本で非常に良いと思うことのひとつに「道」という思想がある。 日本には、大陸の人らが本能的な運動神経として特に訓練しないままに獲得している能力を、分析し、学習方法論を構築、「級」や「段」として誰でも習得できる様に順序立てた上で、道場などで教える文化がある。
これはひょっとしたら、「禅」と関連た思想なのかも知れないが、本物の仏教の禅は、日本人が思ってるよりもずっと精神重視で、日本の様に「勝つために禅を組む」みたいな、実用的な捉え方を全くしない。 「道」と「禅」は、かなり日本的な思想だと僕は思う。
※ ひょっとしたら、「道」の考え方も、唐の時代(5世紀)の時代に湖南省から渡ってきた人らが伝えたのかも知れないけど。(湖南省=少林寺がある)
何分に、僕自身が騙されやすいタイプで、日本から大陸に出てきて騙されまくった結果が今なので、何故騙されるのかについて、僕は自分の経験としてわかる。
僕から見ると「音楽を演奏する能力」と「騙されない能力」と「語学」が、完全に一体の一枚岩になって見えるのだが、ひょっとしたら、これを「道」の考え方に則って整理したら、誰もが体力に関わらず大人から子供まで、学ぶことが出来る「道」になったりしないだろうか...とも思う。
「日本依存症からの脱却」
- 日本語禁止。
- 騙し合い前提の信頼関係。
- 日本食禁止。
- なぁなぁ禁止。
- 免疫獲得までの厳しい下痢我慢。
・・・ほとんどの日本人が、発狂することは間違いない。
「日本依存脱出会」 もしそんな会があったら、それは恐らく「断酒会」より厳しい我慢が必要と思われる。
僕は中国に行った時、食事であまり困らなかったというか、中国であちこちの定食屋を食べ歩くのは、むしろ楽しかった。だが恐らくそういう日本人は珍しいと思う。
タイ人と中国にいた時、中国の料理は乾燥唐辛子が多用され油っこく、生唐辛子が多くて油っけがないタイ料理に慣れたタイ人は、中国料理のことをクソミソにけなしていた。「こんなまずいもん食えるか!」「まっずー!」 だがそうもいいつつも、食べてた。 日本人は、喰うことすら不可能という人も
僕はしばしば、しばしば思うのだが、日本料理はちょっと特殊過ぎる。日本食に慣れると、他のどんな国の食事も食べられなくなる。 どこでもいいので、日本食以外の飯だけを食って生活する事に慣れたら、恐らく世界中何処に行っても、食えないということは、流石になくなるのではないか、と思う。
これが僕が言うところの「日本依存症」だ。食事に限らず、言語・習慣・文化・・・全てに渡って日本は特殊過ぎるので、日本に生まれると、どうあがいても日本から出られなくなる。
加えて、日本政府が発する強烈な「反中国プロパガンダ」。連日連夜、ニュースや新聞で「中国バカ」「朝鮮アホ」の大合唱が繰り返される。これによって、日本から海外に出る時に一番最初に通るべき国に、「バカな国には行くべきでない」という無意識のブレーキが働く。これで更に日本依存症が悪化する。(※こういうところが、「騙されない技術」と「語学」がかなり近い存在なのだ、という印象を感じさせる。)
【海外移住】 ─── それは、実際に物理的に日本から出る行為よりも、こういう精神的な「日本依存」をひとつひとつ断ち切っていくことに、大きな比重が置かれるべきなのだ。
【余談】さっき李世民と調べようと思ったら、li xiubinと「もしかして」に出てきた。どうも韓国のネットアイドルらしかった。で更に「もしかして」にก่อนศัลยกรรม(整形前)と出てきた。で、出てきた画像がハイセンス過ぎて飛んだ。
もしかしてに出てくるくらいだから「整形前」と検索するタイ人は多いのだろう。
日本語で調べてみた。この人が整形と気付かないばかりか、更に「韓国だから整形も当然www」みたいな、朝鮮バカプロパガンダのブログが大量にネットをうめつくされていた。 整形で騙され、更にプロパガンダで騙される日本人…。最初からウソと思って信じていないタイ人を見たあとだと、しびれる。
ちなみにこういう人だ。李秀彬。「俺は騙されん」という男性は、一度自分自身の女性を見る目を確認したほうが良い。