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1999年7月22日木曜日

現代日本社会の親と教育 (oka01-juyatvsypmkizixi)

コンピュータープログラマとして働くことで経済的な安定を得た後に、夜間大学に社会人として編入したおかあつ。何とか自力で稼ぎ、自力で学ぶというスタイルを作り上げようとするも、親が子を養育・親が学費を払うのが日本社会の一般的な流れ。偏見と無理解に阻まれ暗中模索するおかあつ・1999年の手記


1999年7月22日 4:29:16

以下の文章を書いてからもう随分経ってしまった為もはや今の心境とはかけ離れてしまった。しかし、敢えて記録としてこのままにして置こうと思う。

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なぜ、僕がこの文章を書いたかと言うと、僕の育ってきた環境を、自分では「こんなものなのだろうな」と思っていたのが、どうもそうでもない事に気がついたからです。

それで、人にわかって欲しいと思っていたのだけど、どうもあまり一般的では無い出来事なので、なかなか説明しづらいのでした。そこで、この文章をチャレンジのつもりで書きました。だから、出来れば軽く読んで「ああ、こんなこともありうるんだな…」と、思っていただければ幸いです。

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僕は、この間芝浦工業大学を受験し受かったため大学生になる事が出来た。しかしそれは、とても難しい。何故なら、同時にしなければならない事がたくさん有り過ぎるからだ。音楽もやっている。プログラムも組んでいる。仕事もしている。学校にも行っている。勉強もせねばならない。「俺、何々やってるんだよ」と言う時に普通言わない事もここには含まれている。風呂を掃除する。洗濯する。干す。食事の支度をする。服が破けたら新しい服を買う。掃除をする。

僕は、一人暮らしをしている。どちらかというと、負担が大きいのであまりしたいとは思っていない。しかし、兄弟がいないにもかかわらず、家が狭いために同居をする事が出来ない。普通に考えれば、多少狭くとも我慢すれば同居できると思う。しかし、無理なのだ。正確な説明が必要なのだけれども、とても長くなりそうなので、別な機会に説明しようと思う。もしも、家でぶらぶらできる身分であれば、もう少し楽だったのだろうな、と思う。

自立して暮らすためにはある程度まともな経済力が必要だ。それは、家賃を払うだけにとどまらない。光熱費・電話代・生活雑貨にかかるお金・これらは少しずつ加算されて馬鹿にできない額になる。地方都市で一人暮らしをしていると、車も贅沢品ではなくなる。ないと生活に大きな制約が出る。これらを維持する為には仕事をせねばならない。しかし、維持しつつ何かを学ぶ事は難しい。

人は僕の事を贅沢だ、というかもしれない。しかし、僕にはそうは思えない。全ての生活を犠牲にして学校に通っている時代が、僕にもあった。その時僕は、早稲田からほどない場所にある、単位制高校・新宿山吹高校に通っていた。家族内のいざこざの為に家にはすめなかったので、豊島区要町で一人暮らしをしていた。

最初、完全に自分の力で生活するつもりだったが、家賃だけは母親が出してくれる事になったので、まだ、幸運ではあった。しかし、何の生活の手段も持たない僕にとって、学校に行きながら生活を維持していく事は難しかった。学校に行く電車賃すら出なかった。食事をまともにとる事もできなかった。仕送りらしき物が不定期にあった。しかし、それらはほとんど光熱費の支払いで消えてしまった。まともな食生活を送れないと精神的にも不安定になる物で、勉強をするどころではなかった。勉強をするのも、お金がかかる物だ。勉強する為に、本を買ったりするでしょう?そのお金も無かった。結局、経済的にも精神的にも何もできなくなってしまうのだ。結局学校に行くのをあきらめ、就職する事になった。まともな生活を維持する為には、アルバイト位のお金では成り立たないのだ。それに、僕は友達が欲しかった。授業が終わった時、アルバイトがあるからといって、帰ってきてしまう事が僕にはできなかった。目の前の食べ物を見ていながら食べないよりは、最初から見ない方が楽だった。確かに、僕は弱かったかもしれない。しかし、10代後半の僕にはできなかった。

「学校に通おうと努力し挫折して仕事を始める」というパターンを2回くらい繰り返した。3回目に学校に通う努力をする時、あるきっかけがあり僕は親の世話になる事を完全にあきらめた。その時僕は21だった。これ以上、高校生にとどまる事は、許されなかった。高校に通っている以上、他に何もする事はできない。それによって、僕の進歩が閉ざされている事は明らかだった。学校を卒業しなければならない。しかし、挫折して就職する事は目にみえていた。その時、僕は決意した。親に頼っている以上(頼ろうとしている以上)もう無理だ。自分で、何とかしようと。

ある程度まともな経済力が必要だった。それでいて、空き時間も必要だった。その条件に見合った仕事は、一つしかなかった。新聞配達だ。新聞屋の過酷な生活は、友人を見ていて知っていた。朝3時に起床、7時まで仕事、夕方3時から夕刊、6時まで。集金という仕事の過酷さも見ていた。しかし、もう避けられない。それから、新聞屋を2年間続けた。最初の年は体力が続かず、学校に行く事を挫折した。翌年もう少し現実的な線を考え、学校の授業は最低限に押さえ、授業を大検に換算し大検を受験、合格した。

新聞屋をやっている時にわかった事がある。不安定な生活のいかに破壊的な事かがである。新聞やを始めたので一気に生活に安定度が出た為、今までの生活の何が問題だったのか、わかるようになったのだ。不安定な生活をしていると、食生活等の悪化に伴い体調が悪くなり、精神的にも落ち込み、何もできなくなってしまう。時間が有ったとしてもお金が無い為に何もできない焦燥感、自分に何かが足りないとわかっていてもどうしようもないと言う、絶望感。安定した生活は、それら全てをいっきに解消してくれた。それが、僕が安定した生活にこだわる理由だ。ちなみに僕は、その更に2年後にもう一度同じ体験をする事になる。

安定した生活と学校(等の勉強)を両立できるようになると、一つ大きな障害ができる。他の人との感覚のギャップだ。何も考えずに話していると、まったく何も通じなくなってしまう。僕は元来嘘を付いたり、適当にあわせたりする事を苦手とするので、この問題は致命的だった。例えば、他の人が、「おまえ、こんなことやったら、はずかしいじゃん!」とか言うような事を、僕は日常的にやっていたりする。僕にとっては「そんな事言ってられないよ!何とかしなきゃ。」という事だった。

ゆとりの無い人間と、比較的ゆとりのある人間が、考える事には大きな差がある様な気がする。ゆとりのある人間は、何かを突き詰める、という事をしないような気がする。例えば、ファミコンのゲームを買った時、大ハズレでどうしようもなくつまらないゲームを買ったとする。ゆとりがある人は、不運だったとあきらめて他のゲームを買うでしょう。ゆとりの無い人間は、違う行動を取る。例えば、1ゲームで何面まで進めるかとか、全面を何秒でクリアできるか等、何とかして何かそこから掴み取ろうとする。これと同じような現象が、色々な場面で現れてくるような気がする。

1999年7月22日、4:29:16


更新記録
公開 2013-08-21T18:49:00+09:00

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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