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2010年12月3日金曜日

共同幻想 (mixi05-u459989-201012031836)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
共同幻想
2010年12月03日18:36
ラオ語で若い女性のことをサオと言うのだけど、昨日華僑学校で一緒に中国語を勉強している子でラオ語がわかる人が「サオ」ってベトナム語で言うと女性じゃなくて「探す」っていう事らしいよ、っていう話をしていたのを聞いた。 しばらくぼんやりしているうちに、それってひょっとして 中国語の 找 zhǎo (探す)じゃないか、と思った。 ベトナム語と中国語は発音上だけ見たとき、非常に近い言語であるらしい。

僕は中国語を勉強し始めてたったの一ヶ月なので、発音も知識もボロボロだ。だけど5年に渡ってタイ語とラオ語の違いをライフワークとして研究してきた。 そういう見地から見て思う事がある。

ラオ語とタイ語を比べると、ラオとタイで同じ意味の単語なのに、発音上チャがサに変わってしまう例がいっぱいある。 タイ語が語源であり、タイ語ではチャ行を使う言葉なのだけど、ラオに伝わる際、ラオ語ではラオ語にチャ行の発音がないことによって、サ行に変化してしまうことがたくさんある。 逆に、ラオ語が語源で、サ行を使っている言葉が、タイに入ってくる際、チャ行に変化してしまう例も数多く存在し、どちらがどちらなのだか、判別がつかない事も多い。

僕が知っている入れ替わりのパターンでよくあるのが、ラ行とダ行が入れ替わる例だ。 深いという意味のルックが、地域によってルックと言ったりドゥックと言ったりする。 元々すごく似た音なので、よく言い間違える。 ラとタが入れ替わる例も多い。 食べ物の名前・ルークチンがドゥークティンとかトゥークティンになったりする。 あと、マとバが入れ替わる例もいっぱいある。 マオとバオが入れ替わったり、バクとマクが入れ替わったりする。 (ちなみに、これは僕が本を見て勉強したことではない。 この5年間で生活の必要に迫られ、これがどのような本でも説明されてない事を知って、やむを得ず自分で研究したことだ。)

こういう子音の入れ替わりが、僕が5年過ごした東南アジア地域にはものすごくたくさんある。 また、東南アジアに住む人はみなこういう入れ替わりに対する経験的な慣れを持っている。 こういう発音の変化は、ここに住むなら知っていて当たり前の事だ。ラオ語を話す時、相手が自分と同じ地域出身の人とはまったく限らない。 きちんと相手の言うことを理解する為には、こういう発音の違いに対する慣れがどうしても必要になってくる。 慣れていないと相手が何を言っているのかさっぱり聞き取れない。

僕が雲南に来てまず思ったのは、雲南方言での発音の入れ替わり方がタイ語・ラオ語のそれと非常に似ている、という事だ。 你在那里ニーザイナーリが、ニーガザイナーティーに変わることや、牛奶 ニウナイが、リウライに変わる事など、ラオ語の各地の方言の発音の変化とものすごく似ている。 こういう例は恐らく無数に出てくると思う。

そして、更に面白いと思った例が、この 找 zhǎo と サオだ。 中国の方言間の発音の入れ替わりだけでなく、国外のベトナム語にもこの発音の入れ替わり関連が見つかった、という意味でこの例は僕にとって非常に画期的だった。 ベトナム語も中国語の流れを組んでいるのだろう。



ベトナム人はとにかく中国語をよく話す。 数ヶ月勉強しただけでペラペラになる。 ベトナム語がわかる中国語の先生に聞いたら、実は、中国語の発音とベトナム語の間で、非常に多くの意味と発音が共通の単語があるんだそうだ。

ただし発音はまったく同じではないらしく、かなりナマリがきつい。 非常に話すのが速くて、まったく手加減が無い。 正直僕には何を言っているのかさっぱり聞き取れない。 一方、ベトナム人は、日本人の僕が言うこともさっぱり聞き取れないらしい。 一生懸命丁寧に喋っても聞き取ってもらえない。

余談だが、僕は今日、この事でかなりイライラした。

彼らの発音に対するアドバンテージは、特筆に値するが、僕等日本人も中国語に対する巨大なアドバンテージを持っている。 漢字だ。 日本人は長い年月をかけて漢字を自分達の言葉として輸入しているので、中国人と同じように漢字を使うことが出来る。 しかし、僕等日本人が使う漢字は、中国人が使う漢字と同じでない。 中国人が見れば多少間違えていてもパッと理解できるだろうが、外国人が見たらなかなか理解できないだろう。 日本人が書く漢字と中国人が書く漢字は、かなり形が違う。 愛と爱は同じ字だ。これくらいならすぐにわかるだろうが、头发と頭髪が同じだというのは、かなり察しが良くないと気がつかない。 だからこそ、僕は自分が書く漢字を見せて無理に相手に理解させようとはしない。 だけど彼らはかなり標準から離れている発音を使って僕等に無理に理解させようとする訳で、それは僕等にとって、かなり疲れる事だ。

ベトナム人は、失礼で無能なのだろうか。 いや、違う。 恐らく日本人も同じ事をしている。

僕が少ない日本人しか見たことがないが、全員同じだった。 つまり、漢字しか勉強しないのだ。日本人にしてみれば、漢字を書くことはお手の物だ。 極論してしまえば、日本人は中国語を学ぶにあたって漢字など勉強する必要が無い。 日本人が中国語を学ぶに当たって、本当に勉強しなければいけないことは、発音だ。 発音以外は学ばなくても良い、と言って過言で無いだろう。 だけど、漢字を勉強するのは楽なので、ひたすら漢字を勉強してしまう。

次章で説明するが、中国人のほとんどの人が正しい普通話を話すことが出来ない。 それどころか、普通話を話す人など中国には存在しない、と言っても過言ではない。 みんながそれぞれかなり違った普通話を話す。 だから、外人が中国語を学ぶ際も、そんな発音の差異に対する耐性をつける必要がある。

そうしなければ、本当に普通話が上手な極小数の人としかコミュニケーションがとれない。 普通話とは、出来るだけ多くの人とコミュニケーションをする為のものであり、だからこそ多くの日本人は普通話を勉強している訳だが、普通話を勉強する事によってむしろ、コミュニケーションがとれる人をせばめてしまう結果になってはいないだろうか。 日本人が中国語を学ぶならば、漢字はひとまず勉強をやめて、発音を学ぶべきである。

超高速の中国語を話すベトナム人はとても失礼だが、標準語以外には目もくれず少しでも発音が狂うと通じなくなってしまう日本人も、同様に非常に失礼な存在である。 特に、日本人は、中国語・タイ語・ラオ語・英語(ヨーロッパの言語)と、発音の音素がまったく違う。 学ぶ言語を問わず、外国語を学ぶ日本人にとって発音の勉強は一生の課題と言ってよい。



そして、大切なのは、日本人が中国語を学ぶにあたって、標準語と同時に方言もひとつかふたつ学ぶ必要がある、という事だ。 多様性を知らない日本人にとって、非標準を学ぶ事の重要性はどんなに強調しても足りない。

中国語の方言である、雲南方言(昆明語)には、方言なのに、その中に更にたくさんの方言がある。 雲南方言方言間の発音の差は非常に大きく、雲南人同士なのに通じないことも珍しくないらしい。 これを見て思ったのだが、雲南だけでタイとラオを全部ひっくるめたのと同じくらいの民族のダイナミクスがある、という事だ。

言葉を勉強する時は、外に出て人の仕草を研究したり話し方を研究したり、その地域の文化をネタにした劇を見たりして、勉強する物だ。 それが方言であろうと、標準語であろうと、同じである。 しかし、昆明の街を歩いている時に出会う方言は、みんな出身によって人それぞれで、発音がまったく違う。 あちこちから方言を拾い集めても、全体像を組み立てる事が出来ない。 ある人はこの子音の入れ替えパターンを持っている、ある人は持っていないし、ある人はこの単語を使うし、ある人は使わない。 そこにまったく一貫性を観察出来ない。 もちろん長い年月をかければ、違いが見える様になるだろうが、外人がその境地に達する為には、何年の月日が必要だろうか。 まったく推測もつかない。

一方、タイはそこまでのダイナミクスはない。 タイでは、タイ語が話せて、加えて方言であるラオ語が話せれば、タイ国内の80%の人とネイティブ言語として話をする事が出来るだろう。 タイには、タイ語を第一言語として話す人は国民中10%くらいしかいない。 しかし、タイ国内の高い割合の人がラオ語亜型のネイティブ話者なので、ラオ語はよく通じる。 実は、ラオ語は方言であるにも関わらず、非常に便利な言語である。

しかし、中国では方言が話せる様になっても本当のごく一部の地域でしか通じないので、かなり不便だ。

今日先生に教えてもらって、驚愕した事がある。 中国人にも「普通語検定」みたいな物がある、という事だ。 中国人だから中国語を話せると思ったら、大間違いなのだ。 六級くらいあるらしく、ある程度高い級に合格していないと就ける仕事に制約があるんだそうだ。 そして普通話を話す人であっても、ほとんどの人が独自の発音の間違いを持っているという。 それは北京に住む人でも同じなのだそうだ。 それは普通話を話さない人ではなおのことそうだということだ。 しかも普通話が話せない人というのもまったく珍しくない。 つまり、中国に普通話を話す人など、居ないという事だ。



「標準語を話す人など存在しない」というのはひとつの事実だろう。 しかし、僕は日本人が外国語を学ぶにあたって、方言を一切無視して標準語だけを学ぶ傾向を、数限りなく見てきた。タイでタイ語を学ぶ人間も、ラオでラオ語を学ぶ人間も、中国で中国語を学ぶ人間も、そうだった。 標準語にひたすらこだわる。 外国に住む日本人は、そこに住む人間のほとんどが標準語を話さないということを知らない。 目の当たりにしても気がつかない。 僕がそこに居てそれに強制的に目を向けさせたとしても、見えない。 もしくは見ようとしない。 あるいは認めない。 だから、そこの人とコミュニケーションがとれない。 そこにいる人の本音に触れる事が出来ない。 あるいは、そこに住んでいる人から、まったく理解されることが無い。

しかし、僕はふと思ったのだが、ひょっとして、これは僕に起こっている事とまったく同じではないか。

以下、僕自身はっきり理解出来ないのだが、試みとして書いてみる:

東京に居ると、方言を話す人はほとんど居ない。 東京に住む人の多くの人は東京人ではないので、ほとんどの人が自分の方言を持っているのではないだろうか。 だけど、それを絶対に他人に見せない。

僕は東京人だ。ネイティブとして標準語を話す。 江戸っ子ではないけど、両親の出身が東京・神奈川で、加えて両親の両親は全員出身地が違う。 東京に住んでいるしどこにも田舎が無いので、僕の出身は「だいたい東京」としか言えない。 だけど、僕は自分の方言を持っている。 僕が持っている方言はふたつあって、片方は千葉県の大綱弁で、片方はいわゆる横浜の浜言葉だ。 浜言葉は、いわゆる「ヤンキー語・暴走族語」と呼ばれるような話し方に近い。 何故か知らないがラ行が巻き舌になる事が多い。 僕の素が出ている時はそういう方言で話す。 かなり乱暴な言葉使いではあるが、僕は自分が話す言葉を意識的に変えているという事はまったくない。

浜言葉は、方言ではあるが、漫画・テレビドラマなどで非常によく見られる一般的な話し方でもある。 若干古いが、映画「稲村ジェーン」に出てくる言葉が、僕が知っている話し方にものすごく近い。

多くの地方出身者は、東京に来ると、標準語を話すだけでなく、これらの方言も模倣している。 言葉にまったく訛りが無い。 だから、東京人と見分けがつかない。

だけど、僕はいつもいつも、東京で色々な人と話していて一抹の違和感を感じている。 相手が何を考えているのかさっぱりわからないのだ。 本当に東京出身の人(おじいさんの代から東京・神奈川・千葉に住んでいる人)は、話していて何を考えているかわからない、ということは決してない。 割と正直で、何でも話すし、性格がストレートだ。 だけど、そうじゃない本心を隠している人がいっぱい居る。 思っている事を言わず、何を考えているのかさっぱり理解できない。 実は、こういう人は地方出身者なのではないか。 彼らは、地方出身者である、ということを隠しているので、あまり本音をたくさん話してしまうと、地方出身者であるということがバレてしまう。 だからボロが出ないようにネコをかぶっているのではないか。

バンコクならば、そんなことは無い。 もちろんみな、自分の出身を隠している事に違いはないが、顔を見れば大体出身がわかるし、みんな訛りがあるので、大体どこが出身なのか知ることが出来る。 中国も同じだ。 顔が違うし、顔に違いがない人とでも訛りを聞いてどこが出身か知る事が出来る。 出身がわかれば、その人の傾向がわかるので、むしろ付き合いやすい。 こういう事を言うと怒るとか、こういう事を言うと喜ぶというような、コミュニケーションのひきだしを使うことが出来る。

日本にも、地方出身なのに出身を隠さない人が居る。 関西人だ。 関西人は常時自分丸出しの人が多いので、非常に付き合いやすい。 関西人は、世界中どこに行っても関西弁を話す。 だから、世界中の人にとって、とてもわかりやすい。

こういうと必ず「人による」という反論をする人が居る。 実は僕にこの反論をする人こそが、僕の意見と非常に近い意見を持っている。 その通りである。 日本は人によるのだ。 日本は、タイ・ラオや中国と違って住み分けが高度に破壊されてしまっており、地域間の混血化が進んでいるので、個人の性格・文化に、相当個人差がある。 混血化が進んでいる人は、周囲に自分と同じタイプの人を見つけることが出来ないので、いつも他人から「お前は何かが変だ」といわれ続けている。 自分自身も、自分が他人と違うということを自覚している。 しかし、何故他人と違うのか説明がつかず、いつも考えている。 こういう人は、自分を隠すと誰からも理解されなくなってしまう。 他人から批判される事を気にせずに自分を露にしてしまう以外、コミュニケーション手段がない。 或いは、誰からも理解されないままひたすら無言で耐える。

混血化が進んでいない人は、こういうコミュニケーションを好まない。 相手はあくまでも自分と同じ考え方である、という事を前提にコミュニケーションを取りたがる。 彼らは僕にとっては、理解不能である。 完璧な標準語を話し、完璧に東京の方言を模倣する彼らは、本心を一切隠しており、僕にとって何を考えているのかまったく見えない。

東京にも特定の地域に、同類で固まっている人達がいる。 激しく混合している東京にあるにも関わらず、部外者はここに入れない。 ひたすら部外者を排除したがるおばさんの数々...。 どんなに丁寧に挨拶しても、どんなに礼を尽くしても、嫌味を言うどうにもならないおばさんの山々...。 ひょっとしたら、過去に特定の村から集団で上京してきた地域があるのではないか。

僕のような東京に二世代以上住んでいる人間も、自分が同じでないという事にアイデンティティーを見出して固まろうとしているのかもしれない。 実際僕はそういうコミュニティーをいくつか知っている。


中国にも、タイにも、ラオにも、「我々は○○人です!みんな仲良くしましょう!」という宣伝がある。 日本人が見ると、実に当たり前で何を今更そんなことを言っているんだろう、と思うのではないか。 ラオもタイも中国も、中にたくさんの民族がひしめいており、その民族の間の仲は、実は決して良くない。 だから、国家を形作り、強化しようとしている政府は、声をからして必死に「我々は同じ○○人なんだから!みんな仲良くしよう!」と宣伝している。 何故か。 それはまさに、みんな同じじゃないからだ。

この宣伝は一つのプロパガンダだ。日本は、このプロパガンダが、うまく行き過ぎる程に、うまく行っているのではないか。 義務学校教育、テレビ、娯楽・音楽・映画全てに、丸でハンバーグに練り込んだ玉ねぎの様に、プロパガンダが含まれている。 僕等は同じ日本人などではない。 みな違う文化、みな違う性格を持っている。 だけど「我々は日本人である。」というプロパガンダは滅法上手く働いており、みな自分が日本人であるということを信じて止まない。 こうして日本には不思議な「共同幻想」が生まれている。

その共同幻想に乗る人は、他国に行ってもその自国が持つ独特な共同幻想を再現しようとしているのではないか。 だからこそ、他国に行ってもただひたすら標準語を学び、標準語を話さない人を見下し続けるのではないか。




ここまで書いたけど、何かしっくりこない。

正直、日本の事が一番よくわからない。 タイ人も中国人もラオ人も、考えてみれば、ウソをつくのがうまい様でいて、あまりうまくない。 タイ中国ラオは、ウソはコミュニケーションの一環なので、バレる様に嘘をつく。 そこにくると、日本人のウソは怖い。 バレたら大変な問題が発生する様な事柄に対して、絶対にバレない様に巨大なウソをつく。 クソ真面目な顔をしてビシッとスーツを来て、絶対にウソなんかつかないというような風情で、もっともらしい理屈を作った上で、したり顔でウソをつく。 タイ人や中国人がつくようなウソの方が可愛げがあっていい。

もっとも、近頃の新聞テレビで、バレバレな安っぽい理屈付き、スーツもヨレヨレになって、超インチキくさくなってきているにも関わらず、新聞テレビが言っていたというだけで、疑いもせずに信じてしまう、不思議な日本人。


コメント一覧
ジャコビ   2010年12月03日 23:16
私の知人で、奈良出身なのに全く関西弁を感じない共通語を話していた人が一人だけいます。関西出身の人は、関西弁を隠すことがないので、その人から自分は奈良出身であると聞いた時には驚きました。そして多くの関西人は標準語を話せない(標準語を話そうとしても関西なまりになってしまう)のだろうかという素朴な疑問を投げかけてみました。

その人が言うには、関西人は意識的に関西なまりで通す事を選んでいるという事、標準語で話そうと思えば殆どの人は話せるのだそうです。

あともう一つ、最近夫が驚愕した事について。英文でメールを書く時の最後の結び言葉に Sincerely, Yours, Best regards, などがありますが、仕事関係でメールを交わした中国系の会社の人からの結びの言葉が Sincerely in Cantonese style だったそうです。ニューヨークの中国人社会もかなりの対立があって、一番最初にニューヨークに来た広東人は、他の中国人に対して優越感を持っています。今ではマンダリンを話す中国人がニューヨークでは大半を占めるのですが、広東人の優越感は変わらず、それを嫌う他の中国人との軋轢が存在するようです。

夫は以前台湾出身の中国人と結婚していたために、その辺の事情を理解しているので、Sincerely in Cantonese style を見た時に、仕事上で使うプロフェッショナルで事務的な結びの言葉にしてはかなり高圧的だと驚いたそうです。中には気分を害して、この会社とは取引したくないという人もいるのではないかと夫は言っていました。
しまけん(チカツ)   2010年12月04日 01:16
>こういうと必ず「人による」という反論をする人が居る。
これ、僕のことですね(笑)
この反論に対して今まであまり返してこなかったので、無視されてるかなぁと不安でしたが、受け止めてもらってるとわかって、ちょっと嬉しく思ってます。

そういえば、ここ数年僕が仲良くなる人って、地方から大阪に出てきた人、もしくは大阪出身ながら他の地方に行ってて戻ってきた人が多い気がします。
新潟、高知、広島、佐賀、熊本の出身の人で、いずれも同じように大阪に出てきた人でした。
彼らはそれぞれ地元に親戚や友人という地元の付き合いはあるけど、都会に出てきて何か求めてるものがあるのかな、という気もします。

>他人から批判される事を気にせずに自分を露にしてしまう以外、コミュニケーション手段がない。

僕はもっと自分(というのがあるか怪しいけど)を出さなきゃいけないんかなぁ…と考えてしまいます。


ジャコビさん>
>その人が言うには、関西人は意識的に関西なまりで通す事を選んでいると
>いう事、標準語で話そうと思えば殆どの人は話せるのだそうです。

これは本当ですよ。世間話を聞いてると、標準語の話者の役を演じるとき、スラスラと標準語を使ってみてる人がいます。
ちえぞう   2010年12月04日 03:44
ここ最近の中国語にまつわる話し、面白いなぁと思いながら読んでました
地方出身の友人たちは「みんなテレビ見て育ってるからねぇ、若い子は標準語に近いよ」と言う声が多いです。
都内においては確かに標準語を話す人は多いけど、江戸弁を話す人はなかなかお目にかかりませんね

一概にテレビのせい(お陰?)とは言い切れないですけど、他の国はそんなことないのかなと思いました。

アニメやドラマ、みんな標準語じゃないのかな。
それともあまりテレビは見ないのかな。

自分が語学を勉強するなら、万人に通じるイメージのある標準語と真っ先に考えるけど、よく考えたら標準語ってネイティブの人はいないですよね。(ニュース読む用の言葉ですよね?)

公用語ってイコール標準語ではないとしたらどんな言葉なのでしょう

普通話ができない人も沢山いるっていう中国の現実って、なんかすごいです。
そんなことがリアルに周りであったら怖いなと思いました。
本当に住み分けてないと、みんなが嫌な思いしそう。
 
出展 2010年12月03日18:36 『共同幻想』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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