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2015年6月19日金曜日

安倍首相、ウクライナの閲兵式で立ち位置を間違える (oka01-npxhbwxnyxavgrye)


去る2015年6月6日ウクライナを訪問した安倍首相は、ポロシェンコ大統領夫妻と共に閲兵式に出席したが、その際、立ち位置を間違えたという致命的なミスをした、ということがネットで話題になっている。


伝えられているストーリーによると、安倍首相は、閲兵式で本来昭恵夫人の隣に立つべきところを大統領のマリーナ夫人の隣に立ってしまい、大統領に腕をつかまれて、間違いを指摘された様だ。この件は、主に中国のニュースメディアで報道されており、メディアによって微妙に角度とタイミングが異なる写真が公開されている。残念ながら動画は公開されていない。

写真の前後関係がはっきりしないので、実際にどの様なやりとりがあったのかは不明だ。そこでネット上のあちらこちらで公開されている写真を一覧化したのちに自分なりに考えて並べ替えて整理してみた。(このように物事の順番を整理する作業を『クロノロジー』というらしいが僕も同じ作業をやった。)

考察

腕を掴んで引っ張るというのは、相当に強い苛立ちのアピールではないか。もし笑顔を絶やさずにやったのであれば、多少は意味合いが和らぐものの、写真を見る限り笑顔はない。ポロシェンコ大統領は、何故この様なアピールに出たのだろうか。

恐らくだが、立ち位置の間違いに気付いたポロシェンコ大統領は、2番めの写真で、安倍首相にその旨を伝えようとしたのではないか、と思われる。だがこの写真を見ると、安倍首相が全くポロシェンコ氏の意思に気づいていないことがわかる。僕の経験によると、日本外に於いてこの振る舞いは、他人に対して特徴的な強い苛立ちを与える。

話しかけても、ジェスチャーで伝えても、全く耳に入らない安倍首相に対する苛立ちが絶頂になった結果として、腕をムンズとつかみ、押し寄せるというこの様な式典に於いては暴挙とも言える行動に出たのではないだろうか。しかし、安倍首相は、ポロシェンコ大統領が腕を掴んで押すという状況になっても、まだ状況がつかめていない様子だ。


雑感


写真の流れを見る限り、右側に立っていた安倍首相に、ポロシェンコ大統領がジェスチャーで「こっちですよ!」とやったところ、安倍首相がそれをガン無視したのでそれが逆鱗に触れ、思い余ったポロシェンコ大統領が安倍首相の肩を掴んで左側に寄せたという流れに見える。


だがしかし、安倍首相に限らず、バンコクにいる日本人も全く同じような立ち位置のミスを頻発する。日本人の立ち位置間違いは非常に目立つ。僕もポロシェンコ大統領と同じようなことをしたくなる気分になる。少なくとも僕は、この様なガン無視を見ると激しくイラっとする。一生懸命話しかけてるのに聞いてすらいない悪気のないガン無視反応。僕としてはポロシェンコ大統領のこういう暴挙を充分理解できる。

ネットユーザーの見解をみると、大多数が安倍首相は世界の恥である、といったものだ。だが僕の個人的な感想によると、安倍首相がアホというか、日本人の7割位は安倍首相と同じで、立ち位置をよく間違える。その立ち位置の間違いは、バンコクでBTSに乗っている時、その立ち位置を見るだけで、日本人かどうかわかる程にはっきりしている。

ウクライナの健康的な女性

先日、混雑するBTS(バンコクの高架列車)で乗車待ちをしていたら、後ろの人とぶつかった。もうこの段階で既に、僕はこの人が日本人だと察した。何故ならば、タイの人は滅多に人とぶつからないからだ。

その人は、妙に前の人との距離が近い。僕は「どんだけ近視なんだよ」と思った。「近づきすぎだろ」とツッコミを入れたくなる程に近かった。もうこの段階で日本人と確定する感がある。

で、列車に乗ってからも、「これは明らかに日本人だろう」とわかる行動のオンパレードだった。そのオッサンは、周囲で女の人が立ってるのに、堂々と座っている。別にこれはルール違反という訳ではないのだが、気遣いのある男性が多いバンコクにあっては、結構目立つ行為のひとつだ。バンコクのスマートな男性は、電車の中で、立っている女性がいると、無言でスッと女性に席を譲る。 それがバンコク・クオリティーだ。だが日本人には(特にバンコクの日本人に顕著なのだが)往々にしてこの様な気遣いがない。

で、そのオッサンは座った。社内は混雑しているので、オッサンが座っている前面にも人が立っている。ここでもまた立ち位置のおかしさが目立つ。座っている場所と前面に立っている人の距離が妙に近い。顔がオッサンの前面に立っている女性の腹部にほとんど接してしまう程に近かった。僕は、てっきり前の人がそのオッサンの奥さんだと思った程だった。だが明らかに他人同士だった。

この豪快な立ち位置の違和感は、正に日本人の特徴と言ってもよい。バンコクで生活していて、人混みのなかでヴォケェーーーーッと突っ立ってる人が居たら、それは大抵日本人だ。全員とは言わないし、ある意味では東京では滅多に見掛けない立ち方だとも思っているが、何故かバンコクには非常に多い日本人のタイプだ。



安倍首相の立ち位置の間違いは、何故起こったのだろうか ─── 思うのだが外国の式典に出席して、その段取りがどの様になっているのかを熟知しているということは、ほぼ不可能ではないか。恐らく、リハーサルもなしで、突然に出席することになるのではないだろうか。よって、立ち位置を多少間違えてしまうことは、やむを得ないことでもある。恐らく問題は、そこではない。

恐らくだが、ポロシェンコ大統領が手を出した段階で、「これはおかしいな」と気付いて移動していれば問題にはならなかった筈だ。だが、安倍首相はそこで問題に全く気付かなかった。これも日本人の常なのだが、周りの人間が発しているジェスチャーを全く観察していない為、周囲の人らの意図に全く気付かない事が多い。 これは安倍首相に限らず、日本人に非常に多い性質だ。

その「気付かなさ」が相手に強いストレスを与えて、腕を掴んでムンズと引っ張るという暴挙に押しやったのではないだろうか。

このよくぶつかる日本人については おかあつ日記『ぶつかる人々』 で詳細に論じた。

何故日本人は気付かないのか

さっき知ったのだが、日本の古い国号である『倭』という名称は日本という名称の由来=『日いづる本』同様、中国起源の名称だという。倭は、人偏に『委ねる』と書く。委ねるというのは、素直で従順という意味があるのだそうだ。つまり「倭」というのは、従順な人という意味があるという。中国人からみて、日本人は素直で従順に見えたのではないだろうか。

従順で素直というのは、日本では良い性格だと考えられているが、海外ではこれが真逆の価値観で断罪される。従順で素直な人間は、ビジネスでの利害関係の調整で騙されやすく、頼りのない人間とみなされる。

日本人はどうも、海に囲まれて他民族と隔離されており、周囲の人間との人間関係摩擦に晒される経験に乏く、周囲の人間の表情やジェスチャーを観察する習慣を全く持ってない人が多い様に思える。

他人を観察する習慣は、車を運転している時に顕著に出る。 タイだと隣の運転手と目が合うが、日本では全く目が合わない。 よって、日本のドライバーは、こちらが右折するか左折するか、全く見ていない。 こちらが車の車線変更をする時も、こちらの動きを全く読んでいないので、どんなに静かに行動を起こしても、必ず驚く。

僕も、日本人とバンコクを歩いていると、ポロシェンコ大統領がやった様に、ムッとしながら笑顔で押しのける様なことに結果的になってしまうことが多い。

 もし僕が、日本人とのコミュニケーションにストレスを感じていなかったら、こんなブログ記事は書いていないだろう。
 おかあつ日記『ドランダックで学ぶ英語マスター必勝法』


ウクライナの健康的な女性達

何故日本の首相はバカなのか

こうやってポロシェンコ大統領と安倍首相とを比べて並べてみると、人間としての自立度が全然違うように感じないだろうか。これは僕が思うに、安倍首相が単なる官僚の操り人形で、実際に彼自身は全く権力を持っていないから…ではないか。操り人形の安倍首相に対し、ポロシェンコ大統領は自分自身が実権を握る責任ある立場なのではないか。その立場の違いがこの様な雰囲気の違いとなって現れているのではないだろうか。

ある知人が「為政者がコロコロ変わるのは日本の特徴だ」と言った。これは非常に鋭いポイントを突いていると思う。日本の首相は、数年単位でコロコロかわる。普通は、実権を掌握するというのは非常に困難な作業なので、時間を掛けて掌握し、掌握したらそう簡単には降りない。 だが日本は、妙にコロコロ変わる。


日本の為政者がコロコロ変わるのは、恐らくそれが、単なる操り人形からではないだろうか。実際に実権を握っているのは上級官僚なので、表向きの為政者は誰でも良いのだ。 その方が、不人気な政策をやって人気が落ちたら、交換可能なので、むしろ都合が良い。ディスポーザブル首相。


空気読めと亭主関白

https://twitter.com/Sho__Nuf/status/611623771787542528

これを読んでなんとなく思ったが、周囲を観察しない傾向と亭主関白傾向は、ほぼ一致するのではないか、という風にも思った。周りが彼を立てるということに慣れすぎてしまって、社交性を失ってしまうパターンがあるのではないか。

実際には、ポロシェンコが安倍に何度か送っているメッセージに気づいていないことの方がずっと失礼なのだが、それでもなおかつ怒らないのがジャパニーズクオリティーという風に解釈している様に思う。

「気が付かない人間を許す優しさを求める」のは、実は中国人の考え方と非常に似ている。中国人は全く気付かない。だが気付かない人にやさしく教えてあげるのが、思いやりという風に捉えているフシがある。



この「気付く/気付かない」「許す/許さない」という気質に対する、民族性による違いについては 『同調圧力の起源』 に詳しく書いた。



更新記録:
細かな言葉遣いを若干修正した。(Tue, 25 Aug 2015 11:39:33 +0700)
主語を『僕』に統一した。句読点を数点修正した。クロノロジーの件を加筆した。 (Wed, 01 May 2019 17:46:35 +0900)




著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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