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2014年8月4日月曜日

日本の気持ちの文化について (oka01-nuSdbQOhMEGtmIkU)

タイのアラブ街でタクシーをひろおうと思った。その瞬間、思いついた事について書く。

日本の気持ち

日曜日の昼間だった。タイのアラブ街は大きな3車線の一方通行だ。次の交差点を左に曲がると郊外へ向かい、右に曲がるといわゆる「バンコクの原宿」サイアム方面に向かう。休みなので右に曲がる道は大渋滞であることが予想される。


サイアム方面に行くなら歩いて最寄りのプルンチット駅までいけば10分程度で到着する。そこで電車にのれば2分で目的地に到着する。だが面倒臭かったのでタクシーに乗ろうと思った。

ところが全くタクシーが捕まらない。僕は次に右に曲がりたいので、道の右側で待っている訳だが、もうその時点で、運転手は僕が次に右に曲がりたいという事を察知しており、僕を見るなり、そそくさと左側によっていく。 左側には大手ホテルがあり、金持ちのアラブ人が沢山宿泊している。彼らは往々にして長距離の客だ。右に曲がってチョイノリでしかも大渋滞に巻き込まれることが明らかな客は拾いたくないだろう。

タイ人は目が良い。特にタイのタクシー運転手は田舎(タイの東北地方=イサーン地方=ラオ民族居住地域)から来る人がほとんどだ。そして僕はラオ語(イサーン語)が話せるし、ラオ人(イサーン人)とのコミュニケーションになれている。そういう自分は、タクシーを止める時、手を挙げる必要はほとんどない。 目配せだけで、タクシーをどこに停めたいのか、自分らが次にどちらに行くのか、それら全てを伝えることが出来る。

だがここで腹立たしい程に意思疎通が成功する。運転手は、僕が立っている場所や、僕の目つきだけで、僕と目を合わせたら、次の交差点で右に曲がることになる、という事を察知、僕と目を合わせるのを避けるのである。

丁度左側はホテルなので、さも左側の客しか見ていない、といった素振りで左側を見ている。目が恐ろしく良いラオ人が、僕が立っているのを見つけないわけがない。よって、これは明らかに、僕の意図を見抜いて、気付かないフリをしてごまかしているとわかる。

ムカついたので、目が合いそうな運転手を睨みつける様に強い視線を送ったら、僕と目が
合う前から、既に僕に向かって  (((°Д≡Д°)))  と全力で首を振っている。 通じすぎている。通じすぎも良くない、と思った。

ラオ人同士のコミュニケーションは、全部がこの調子だ。恐ろしい程に察しが良い人間同士の超高速の騙し合いといった様相がある。

ラオ人は、日本人よりもずっと空気読みがうまい。相手の表情をみて相手が考えていることや、相手の意図などを瞬間的に見抜いて、瞬間的に自分がどう立ち振る舞うべきなのか見抜き、対応を変える。

自分は東京人であり、空気読みは得意ではない。よってラオ人のこの空気読みスキルをよく観察して研究しているのだが、読みが非常に速く、しかも的確で外さないことには舌を巻く。

空気を読むということは、思いすごしと紙一重であることが多い。僕の様な外人がラオ人の様な全く違った文脈を持つ民族の考えている事を、空気読みという様な根拠に乏しい作業から推測する場合、間違ったままその間違いに気付かないという危険性をはらんでいる。 よって間違いを減らす取り組みも行っている。つまりラオ人の伝統芸能などを研究して、彼らがどういう文脈で生活しているのかをよく学ぶことによって、間違いを減らす取り組みもしている。

理論的に考えればそういうことになるだろうが、だが概ね、こういうタクシーを拾うというような日常的な場面で経験することを見ても、僕が最初に直感した「空気」が間違っていることは、あまりない様だ。

バンコクではこのように「空気読み」のスキルを駆使する機会はあまりないかも知れないが、自分がウドンタニーで生活する上で経験した空気読みのレベルは、更にシビアだった。空気読みを間違えると露骨に嫌味を言われることもあるし、市場で買い物をするだけでも「あぁ外人さんは本当に話が通じづらくて困るわ」と言われて恥ずかしい思いもする。波風を立ててばかりいると、終いには警察のお世話になるような大事件に巻き込まれることも稀ではない。

ウドンタニーはタイの辺境だ。本来なら外人がウロウロしていてよい様な場所ではない。その様な辺境でウロウロ出来るのは、ひとえにラオ人の温厚さや寛容さをもって、外人の無数の『粗相(そそう)』が許されているからでしかなく、このような優しさに甘んじて延々とラオ人に迷惑をかけ続ければ、しまいにはブチ切れて大問題が発生する。それは世界中どこに行っても変わらない、普遍的な人間の性質だ。如何に寛容なラオ人が相手でも同じことである。



以上の様な事を、僕は普段、言葉に出して発言することは、ない。前述の様な話は、日本人として当然の様に理解して然るべきである。ラオ人の思いやりの気持ちは、日本人が古来から持っている思いやりの気持ちとなんら違いはない。

よって、わざわざ「こんな高度な空気読みが出来る、僕って凄いレベル高いなぁ」とアピールする必要はない。そもそもこれは、ただの社交であり、礼儀であり、義理であり、常識である。僕にとってそれは、和の心を尊ぶ日本人として出来るのが当然のことではないか、と思う。和の心とは、見せびらかせて威張り散らして他人を傷つける為のツールではない。それは飽くまでも、人をいたわる気持ちだ。



日本人としての疑問点

だが何故、にも関わらず、僕が今こうして、こういう「気持ち」の存在について文章を書いているかといえば、それは即ち「これは思い込みではない」という事がいいたいからだ。

どうも僕はしばしば思うのだが、バンコクの日本人は「和の心」が足りない方が多すぎやしないか。ラオ人の思いやりを踏みにじり、田舎者と罵る日本人が多すぎやしないか。バンコクでは、日本人とラオ人を同時に見る機会は多い。そこで僕が見かける日本人は、想像を絶する。ラオ人が思いやりを以って起こした行動を、日本人が気が付かないばかりか、踏みにじる結果を招く行動をとり、ラオ人の気持ちを著しく害しているも関わらず、その害してしまった気持ちすら気付かず、相手の非礼ばかりを一方的に罵る、日本人としてあるまじき日本人が大勢いる。僕はそれを目撃する度に、激しく心を痛める。

時にはそのことを指摘することもある。僕は日本人である。日本人として日本語によって日本人に話しかけ、その日本人として恥ずべき行為を戒めることは、決して悪いことではなかろう。

だがその様な場合、彼らの反応は決まって「それは思い込みだ」というものだ。お前がラオ語が上手だというのも「お前の勝手な思い込み」だ。お前がイサーン語の発音がうまい、というのも「お前の勝手な思い込み」。

なるほど、確かに「お前の勝手な思い込み」かも知れない。だが自分もその危険性は重々承知している。そこで様々な視点から自分自身を批判する事で間違いを減らす取り組みも行っている。そこで行った取り組みの内容に関しては、このようにブログで論文形式にまとめて発表している。

僕には、何の恥ずかしいこともない。 出来る事は出来る。出来ないことは出来ない。それだけだ。だがそれも「お前の勝手な思い込み」という。加えて、自分がこれまで取ってきた取り組みに関しては「興味がない」。

何故こういうことが起こるのか。


『お前の勝手な思い込み現象』

僕はこれを『お前の勝手な思い込み現象』と呼んでみたいと思う。

僕の身の上にも、かつて『お前の勝手な思い込み現象』 が起こっており、悩んでいた。何かおもしろい事を思いつく。何かおもしろいことに気がつく。何かの問題の原因をに気付く。相手の気持ちの動きに気付く…。 こういう洞察が働いた時でも、人から、そんなものは「お前の勝手な思い込みだ」と言われ続ける。言葉では説明しにくい理由でそれが明らかだと気付いても、それに共感できる人が周囲に1人も存在せず、「お前の勝手な思い込み」という一言で片付けられてしまう。

『僕は思い込みが激しい』そんな風に悩んだ時期は短くない。だが僕は、タイに来て、長らくラオ文化と触れ合い、それに馴染み、馴染んだあとで、街に戻ってきて、ラオ人と日本人を同時に見て、疑問を持ち、熟考した末に得た結論について、日本人から「お前の勝手な思い込みだ」と言われ続け、ラオ人から「お前は間違っていない」と言われ続け、そのなかで、これは日本人の心理上でしばしば発生する、ひとつの独特な現象なのだと気付いた。

考察

この『お前の勝手な思い込み現象』について、まだ詳しいことがわかっていない。

ただ僕は恐らく、以前執筆したこの文章と深い関わりがあるのではないか、と考えている。

おかあつ日記『気持ちと論理の交差点』
 
なお、今僕が念頭に置いているのは、九州人だ。僕はかつて東北人の中で激しく虐められていた経験から、この『お前の勝手な思い込み現象』が東北人独特な現象だと誤解していた。だが今の自分が観察して得た結果としては、東北人に起こる『お前の勝手な思い込み現象』と、九州人に起こる『お前の勝手な思い込み現象』には、その発生に至るプロセス上、微妙に違いがある事にも気付いた。

九州人も東北人も劣等感が強いタイプは多い。だが、その劣等感の感じ方が微妙に違う様に思う。東北人はコミュニケーション能力の低さや、口下手さを思い悩んで劣等感を持っていることが多いが、九州人は真逆で、きっちりしていないことや口先ばかりで実が伴わないことについて、東北人の様に劣等感として自分を責ずに、他人を見下すことで解決する傾向がある様に感じる。

東北人はどんなフヌケでもかなり細かいことは相当にきっちりしてるので、当然、その辺りに劣等感を持つこともないのではないか。 九州は、逆に、その辺にコンプレックス持ってるタイプが、多いのではないか。

九州人が、東北人が見たらコンプレックスで身を焦がすような華麗な話術を持っていても、九州は「そういうものは下劣」と否定しがちであると感じる。

東北部でも沿岸部と山間部で大きく気質に違いがあるらしいが、九州人でも、南部と北部の人に大きな気質の違いがあることも感じるようになった。 それは恐らく「もっこす」と言われている人たちと、関連があるのではないか、とも思う。だがとはいえ、曲がったことが嫌いな「もっこす」の方々が、『お前の勝手な思い込み現象』を起こすとは思えない、とも感じている。ということは、また違った要素がそこに入っている筈だ。

福井に東北弁に近い方言が存在するのは、かつて「北前船」と呼ばれる定期航路があったことによるという。恐らくだが九州にも似たようなものがあったのではないか、という予感がする。

今軽く調べてみた結果、かつて筑前五ケ浦廻船というものが存在したらしい。

僕の家柄は、古く別府を起源としているのではないか、という説があるが定かではない。だがそれが原因してか、僕は九州人と急激に親しくなる傾向が非常に強い。だが近年色々と思い起こしてみると、僕はどうも特定の九州人とは犬猿の仲となりがちでもあるらしい。特に福岡周辺を出身とした知識人と、仲が悪くなりがちだ。それも大抵、筆者はフレンドリーに接しているにも関わらず、相手から一方的に拒絶反応を起こされて戦争突入というケースが非常に多い。

何故こういう事が起こるのか。詳細は一切不明だ。

僕は、和の心を尊ぶ日本人として、出来れば人と衝突せずに人間関係を丸く収めたいと考えている。よって僕は、何故、意図していないにも関わらず、こういう問題が発生するのか理解したい。

今、僕がわかるのはここまでだ。もう少しゆっくりと時間を掛けて考えてみたいと思う。


P.S.
上記のように、地域で人格を判断する事について差別的だと感じる方は多い。だが僕としては、このように考える理由は他でもない、何故同じ日本人なのに、価値観や物の感じ方について「外国人並み」に激しい違いが見られるのか、それを理解することにあり、その目的は他でもない、どのようにしたらもっと深く理解し合うことが出来るのか、それを探ることであり、一切の他意はないことをこの場をお借りして明言させていただければ、と思う。



(Tue, 05 Aug 2014 13:13:44 +0700) 劣等感の持ち方について追記。
(Tue, 05 Aug 2014 13:18:01 +0700) 文末の追伸を追記。