昔書いた文について
2006年05月28日15:49
ちょっと前にプログラミングに関してブログで書いた文章を引っ張り出して読んでみたら、自分の文章があんまりにも乱暴なのでいやになってしまった。 実に、あらゆる悪文の要素 ─── 乱暴な結論付け、論理の飛躍、極論、などなどが散乱し、読んでいてあまり気持ちのよいものではなかった。
とはいえ、その時、僕はまだプログラミングに関して問題解決をはじめたばかりであり、問題の量はさほど難しくないが量がとても多かった。 この文章は、そんな、とにかく量を沢山こなさなければならなかった時に書いた、メモの様な文章である。 だから、ある程度理論が飛躍したり、乱暴な結論付けがあったとしても、論理が大筋では正しい方向を向いていることを知っており、あとで読んで何を考えたのか思い出す事も出来るので、おおむね目的は達成できてはいる。
だが、こういう文章を人に見せるのはよくないのではないか。 なぜならば、人を不要な反論に時間を割かせてしまうからだ。 時間が無いので書かなかった予想済みの反論や、本当は時間をかけて矛盾が無いように組み立てなくてはいけないのだけど、正しい答えを既に知っているので、大幅に省略してしまった論理など、があちらこちらにあると、人に不要な誤解を招く。 そして、既に答えのある事柄なのに、それについていろいろ考えさせてしまう。
僕は、どうも、ブログが苦手だ。 勿論、ブログの使い方がわからないとかそういうことを言っているわけではない。 ブログという、メディアの性質が僕の書き方にあわないのを感じる。
読者を特定できないので読む人の文脈をつかみづらく、全く違う文脈から来た人からの無差別な批判にさらされるうえ、文脈に依存しない抽象的な書き方をすると、理解されない。
また、操作性がとても低く、文章を考える時間を、操作方法を考える時間に食われてしまう場合がとても多い。 既存の文章を編集する時も自由度が低くとても時間が掛かるので、あまり、積極的にやろうと思えない。
だから、自分で使いやすいプログラムを作ろうと思うのだけど、まだ、そのための基幹ライブラリが完成していないので、結局mixiでこうして文章を書いている。
とはいえ、その時、僕はまだプログラミングに関して問題解決をはじめたばかりであり、問題の量はさほど難しくないが量がとても多かった。 この文章は、そんな、とにかく量を沢山こなさなければならなかった時に書いた、メモの様な文章である。 だから、ある程度理論が飛躍したり、乱暴な結論付けがあったとしても、論理が大筋では正しい方向を向いていることを知っており、あとで読んで何を考えたのか思い出す事も出来るので、おおむね目的は達成できてはいる。
だが、こういう文章を人に見せるのはよくないのではないか。 なぜならば、人を不要な反論に時間を割かせてしまうからだ。 時間が無いので書かなかった予想済みの反論や、本当は時間をかけて矛盾が無いように組み立てなくてはいけないのだけど、正しい答えを既に知っているので、大幅に省略してしまった論理など、があちらこちらにあると、人に不要な誤解を招く。 そして、既に答えのある事柄なのに、それについていろいろ考えさせてしまう。
僕は、どうも、ブログが苦手だ。 勿論、ブログの使い方がわからないとかそういうことを言っているわけではない。 ブログという、メディアの性質が僕の書き方にあわないのを感じる。
読者を特定できないので読む人の文脈をつかみづらく、全く違う文脈から来た人からの無差別な批判にさらされるうえ、文脈に依存しない抽象的な書き方をすると、理解されない。
また、操作性がとても低く、文章を考える時間を、操作方法を考える時間に食われてしまう場合がとても多い。 既存の文章を編集する時も自由度が低くとても時間が掛かるので、あまり、積極的にやろうと思えない。
だから、自分で使いやすいプログラムを作ろうと思うのだけど、まだ、そのための基幹ライブラリが完成していないので、結局mixiでこうして文章を書いている。
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