『人によって考え方は違う』という考え方は正しくない。だがそれは飽くまでも自分自身にとってのことで、実は他人にとってはそれが正しいのかも知れない。
『人によって考え方は違う』という考え方は正しくない。1+1は2でしかない。それが人によって3や4になってしまったらそれは問題だ。それは飽くまでも客観的事実であって、人によってその結論が変化してはいけない ─── だけどそこを敢えて『人によって考え方は違う』ということにしておき、答えをはっきりさせずにおいた方が都合が良いことも多いのではないか…と思った。そのことについて触れてみたい。
リズムと数学
僕は海外放浪から帰ってきたこの3年間ずっとジャズのリズムについて研究してきた。僕はリズム研究に関して、自分の主観によらない様に観察した結果について仮説を立てた上で、それを譜面に起こし、コンピューターによって自動演奏させた結果を自分で聞いてみるという手法でリズムを研究している。
問題は自分で聞いて確認するという点に主観が入ることだ。そこには言語学(音声学)と民族学を、経験的手法によって組み合わせて出来るだけ主観を減らす様に工夫している。音楽はもともと主観的なもので、人によって感じ方はそれぞれだ。だがそれでも、その人の属する民族文化によって強い傾向が見られることは事実だ。音楽の嗜好についての文化的な偏りを観察して定量化した上で、自分自身の民族学的な属性を明らかにすることで、リズム考察から主観を(ある程度)取り除けるのではないか、と考えている。
音楽のリズムは数学的な性質を持っており、とても単純だ。どのリズムが効果的に感じるかは人によって違っても、ある特定のリズムに注目した時、そのリズムの数学的な性質については、とても単純な数字で表現できる。そこには何の曖昧さもない。とても明らかなことだ。
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だからリズムについての考え方が『人によって考え方が違う』という事は絶対にありえない。
リズムと自信
ところがジャズ演奏者にとってリズムはしばしば漠然としたもので、はっきりとした正体を知らないことが多い。現在コード理論についてはとてもはっきりとした説明をしている書籍が多く出版されており、入手は容易だ。しかしリズムについてはほとんど誰も理論化していない。リズムについて説明のある書籍を入手することは困難だ。リズムを書物から学問的に学習することは難しい。
それが原因かはわからないが、その人のリズムの良し悪しは、その人が自分自身で感じている才能などの自己評価に密接に結びついている場合が多いようだ。
リズムの才能を生まれつき持っているということはとても稀で、リズムは誰でもある程度の特別な訓練を必要とする。だけどジャズ演奏者はしばしば、自分自身に対して『自分はリズムの才能を持っている』という幻想を持っている。それは彼らにとって、一種の身体的特徴のような様相を顕している。リズムは飽くまでも、先天的に備わっている性質ではなく、後天的な訓練によって獲得するべきものだが、彼らはその認識を共有していない。
リズムは後天的に獲得できるが、それを先天的な身体特徴と思っている人たちにとって、リズムのまずさを指摘されるのは、まるで『背が低い』『太っている』等々の身体的特徴を指摘されるのと同じ要素を持っている。彼らは、自分のリズムについて指摘を受けると、自分の容姿を貶された様な過敏なリアクションを示す。
リズムと討論
僕はリズムについてとても論理的に考えており数学のような感覚でそれを捉えている。僕はそこに精神性を感じていない。だがその考え方を人に伝える時にその冷徹さが問題になることが多い。何故ならば、人によっては『リズムの良し悪し』を『身長の高い低い』と同じような感覚で捉えているからだ。
僕はまるで、必死に「僕の背は低くない!」と力説している人に対して「しかし日本人の身長の平均は約160cmでありあなたの身長は150cmである以上身長が高いとは結論付けられない」というような、論理的だが結果的に彼の神経を逆撫でするだけの反論を加える結果となる。
前述の通りリズムは後天的な訓練なしでは決して身につかない物だ。だが彼にとってリズムは飽くまでも身体的特徴である以上、リズムついての批判は決して受け入れられない。ひとたび彼が拒絶してしまえば、リズムが如何に訓練で向上できるものであっても、そのメッセージは彼に届かない。
曖昧の便利さ
僕は、僕のリズムについての自分の理論を、妥当な理由なしに変更することは絶対にない。もし僕の理論の変更を求めるなら、変更するにふさわしい妥当性を提示する必要がある。また僕には、この理論をリズムで悩むこの理論を求めている方々の手元まで届けるという使命がある。反論する人々を恐れることなく、人々に包み隠さずありのままにそれを説明する必要性がある。
だがそこで理論が受け入れられないだけにとどまらず、延々と妥当性のない反論をする人は、どうしても一定数いる。彼が彼自身の間違いを指摘されても、彼自身の妥当性のなさを認めるだけの精神的な強靭さを持ち合わせない場合、彼は自己肯定感を防衛するための延々と終わりのない反論を繰り広げてしまう。それは大変な時間の浪費であり、また同時に大きな人間関係リスクだ。
そんな時、考え方は人によって違うという点を認めてあげれば、彼に非常に安全な逃げ道を提供することができる。彼は自分の自己肯定感を損なわずに、かつ人間関係リスクも回避することができる。
『考え方は人によって違う』という点を自分自身が認めてしまうと、それは論理の破綻を起こす。『本質を分析することで発生した問題に対する対策を考える』という行動原理が働かなくなる。発生した問題を的確に対処することが出来なくなってしまう。
だが相手に対して『考え方は人によって違う』と認めると、相手の論理破綻を防ぐことができる。実は、彼の論理は既に破綻しているのだが、その論理破綻を暴露してしまうと、彼の自己肯定感を破壊してしまう。論理破綻を認めてもなお壊れない、頑丈な自己肯定感を持っている人は稀だ。だから敢えて論理破綻を隠して温存しておく。それは時がくれば気がつくことだ。
投影への対応
こうして自分の欠点を直視することを避けている人は、しばしば彼自身が直視できない欠点を身近な人に投影させて非難をする。ここで彼の具体的な論理の破綻を指摘したとしても、建設的な結果をもたらすことはない。
こういう場合も敢えて『考え方は人によって違う』と問題を曖昧なまま温存した方が、彼の自己肯定感を破壊せずに済む場合が多い。
弱さの良さ
人には色々な弱さがある。だがそれはしばしば何かの強さを得る為に代償となって生じた弱さだ。何かを得ようとすれば必ず犠牲になる何かがある。犠牲として生じた弱さを破壊してしまえば、その弱さの代償として得た強さも同時に破壊される。
敢えてはっきりさせないほうがよいこともある。
都会では、色々な人の強いところを利用しあうことで自分の弱いところをカバーできるところに便利さがある。弱いところを敢えてはっきりさせる必要はない。
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カテゴリを『縦乗りを克服しようシリーズ』から『日本のジャズを理解する』に変更しました。(Fri, 06 May 2022 23:28:05 +0900)