ジャズやってもロックやってもクラシックやってもヒップホップやっても日本人はいつも縦乗り『トントコトンのスットントン』と無意識にリズムを取ってしまう。彼は『トントコトンのスットントン』とリズムをとっているのに『トントコトンのスットントン』の存在を認識できない。僕はこの現象の事を【桃太郎さん現象 Momotaro-san Syndrome】と呼んでいる。
この症候群に罹患しているミュージシャンは東京中に無数にいる。都内のライブハウス・ジャズクラブ・DJクラブ等々を見渡すと99%以上は罹患者だ。YouTube上で音楽教室を開いているミュージシャンに限って言えばほぼ全員と言ってよい確率で桃太郎さん症候群に罹患していると言ってよい。
桃太郎さん現象認知重篤気分調節障害
桃太郎さん現象を指摘された日本人はしばしば癇癪を起こして怒り出す。このことを僕は【桃太郎さん現象認知重篤気分調節障害= Momotaro-san Syndrome Disruptive Mood Dysregulation Disorder】と呼んでいる。日本人的自己同一性否認
日本人は決して自ら進んで桃太郎さんを演奏することはない。そればかりか桃太郎さんを演奏する日本人を見つければ鬼の首を取ったように酷く軽蔑する。
─── にも関わらず桃太郎さんを演奏し続けており、そのことに気付かない。
このように自分自身を否認する習慣は日本人に広く見られる。このことを僕は『日本人的自己同一性否認(The
Fundamental Denial of Japanese Self Identity)』と呼んでいる。
─── これが転換(Conversion)だ。 抑圧された衝動や葛藤が、麻痺や感覚喪失となって表現される。手足が痺れたり、失立失歩(脱力し立ったり歩けなくなる)や不食や嘔吐などの症状が出る。(防衛機制『転換』より)
─── 分裂(Splitting, スプリッティング, スプリット) - 対象や自己に対しての良いイメージ・悪いイメージを別のものとして隔離すること。「良い」部分が「悪い」部分によって汚染、破壊されるという被害的な不安から生まれる。(防衛機制『分裂』より)
しかし『日本人は演歌の心』という現実を言ってしまうとそれは自分自身の軽蔑対象に入ってしまう。だが完全に外国風に染まる能力もない。染まることができなければ、日本人的自己同一性否定によって日本人は壊れてしまう。
ここで本当に外国文化を真摯に学ぶ苦痛をこらえる(ジャズを学ぶ)か、逆に嫌悪されることを完全に受け入れ日本に回帰する(演歌に戻る)か。そのどちらでもない外国文化学習の苦労もせず演歌に回帰する屈辱も受けたくない。
その空隙を埋めるものこそが日本のポップスだ。この現代の日本人独特な精神崩壊危機を防ぐために日本には『学習の苦痛を味わうことなく外国の雰囲気を味わう為の娯楽』がたくさんあふれている。サウンドだけは外国風なのにリズムは徹底的に「トントコトンのスットントン」のままの日本のポップス。それは駅前で英会話学校に通って取り敢えず英語を勉強したという雰囲気だけ味わって納得したいのと非常に近い心理だと言える。
様々な防衛機制
日本人ミュージシャンの精神はこの2つ『海外羨望』『自己否認』との引っ張り合いだ。だが海外羨望(語学や音楽)を実現しようとしても日本語の世界にはそこに辿り着くための情報がないので、どうやっても実現しない。そこで様々な防衛機制が働く。『お前アドリブが桃太郎さんになってね??』
『あぁぁっっ 急に手が動かない!』
─── これが転換(Conversion)だ。 抑圧された衝動や葛藤が、麻痺や感覚喪失となって表現される。手足が痺れたり、失立失歩(脱力し立ったり歩けなくなる)や不食や嘔吐などの症状が出る。(防衛機制『転換』より)
『お前のリズム、音頭じゃね?』
『何や関東モンは気持ち悪いわ!』
─── 分裂(Splitting, スプリッティング, スプリット) - 対象や自己に対しての良いイメージ・悪いイメージを別のものとして隔離すること。「良い」部分が「悪い」部分によって汚染、破壊されるという被害的な不安から生まれる。(防衛機制『分裂』より)
日本的自我崩壊と和製ポップス
本当に『ジャズを演奏する』という目標を達すること自体が目的ならやりかたはある。それは長く苦しい修練が必要なことだが可能なことだ。だが人によって能力や忍耐力には差があり、現実的にはそれが達成できない人が大半だ。しかしそれが達成できないければ、その屈辱が現実が心にのしかかり、日本人がみな等しく持っている日本人的自己同一性否認によって日本人は自我崩壊の危機に直面する。しかし『日本人は演歌の心』という現実を言ってしまうとそれは自分自身の軽蔑対象に入ってしまう。だが完全に外国風に染まる能力もない。染まることができなければ、日本人的自己同一性否定によって日本人は壊れてしまう。
ここで本当に外国文化を真摯に学ぶ苦痛をこらえる(ジャズを学ぶ)か、逆に嫌悪されることを完全に受け入れ日本に回帰する(演歌に戻る)か。そのどちらでもない外国文化学習の苦労もせず演歌に回帰する屈辱も受けたくない。
その空隙を埋めるものこそが日本のポップスだ。この現代の日本人独特な精神崩壊危機を防ぐために日本には『学習の苦痛を味わうことなく外国の雰囲気を味わう為の娯楽』がたくさんあふれている。サウンドだけは外国風なのにリズムは徹底的に「トントコトンのスットントン」のままの日本のポップス。それは駅前で英会話学校に通って取り敢えず英語を勉強したという雰囲気だけ味わって納得したいのと非常に近い心理だと言える。
日本のポップスの気持ち悪さ
日本のポップスは気持ち悪い。僕は世界中のポップスを聞いてきたし、特にタイのポップスは意識して研究しても来た。だが日本のポップス独特な気持ち悪さというものがある。だが不思議なことに日本製ポップスなら全てが気持ち悪いというわけではないのだ。僕は当初、リズムの構造が日本語のまま外国起源の音楽(ジャズやR&B)を演奏するから気持ち悪いのではないかと考えていた。数年間はその違和感についてリズムの形から理論的に説明することを試みてきた。それは概ね成功したのだが、リズム形が日本のままでも気持ち悪くない音楽もあり、リズム形が外国のそれを高度に模倣していても違和感を感じさせる音楽もある。それはリズム形とは関係ない場所に原因があるのではないか。
以下で様々な実例を挙げてみる。
☓ 僕はこのリズムが強烈に気持ち悪い。 こんなにお洒落な雰囲気で全くお洒落とはかけ離れた「トントコトンのスットントン」のリズムを繰り返している。この強烈な違和感は筆舌に尽くしがたい。しかもこの強烈なド和風リズムで「ニューオリンズジャズにインスパイヤされました」という様なアフリカ系アメリカ人の文化を舐めきった発言を平然と行う。
僕はこの違和感の来る場所をリズム形だと考えていた。だがリズム形が「トントコトンのスットントン」でも違和感を感じないリズムはたくさんある。
○ このシーンは映画「ロスト・イン・トランスレーション」のワンシーンだ。 この映画は日本語がわからない主人公(映画スター)が日本に来て通訳とコミュニケーションが上手くいかず幻想の世界を漂うような経験をするという映画だ。 ここで登場するマシュー南 のリズムは完全に縦乗りだが全く違和感がない。
○ この音楽は80年代に全盛を極めたアパレル業界の巨人レナウンのコマーシャルだ。作曲は小林亜星でリズムは完全に縦乗りだ。だがこのリズムには違和感がない。
○ 南クルド文化にカルホリというものがあるという。このビデオはそのカルホリのポップスらしい。このリズムは日本語と同じ縦乗りだ。カルホリの言語は西洋言語の発音と全く違った構造がある。 恐らくだがその発音は、日本語の発音とも近いものがあるのではないだろうか。この縦乗りには何の違和感もない。
○ この音楽は世界的にヒットした映画「東京ドリフト」のテーマ音楽だ。この音楽は日本の縦乗りリズムを意識的に多用している。だが全く違和感はないどころか、弱起のある西洋のリズムと非常に高度に調和してとても洗練された印象すら与えている。
☓ 先日ふと気付いて改めて聞いてみて衝撃を受けたのはこの曲だ。僕はこれが流行していた当時もこの曲に非常に強い違和感を感じていたので好んで聞いたりすることは一切なかった。改めて聞いても今でもその違和感は強く感じる。だが気付いたのは、この曲のリズムが縦乗りではないことだった。縦乗りではないにも関わらず非常に強い違和感を与えている。
☓ 先日見つけて強烈な違和感を感じた曲。彼は極めて技巧的で才能あふれる方だ。非常にホイットニーの唱法を高度に模倣しておりほぼ成功している。だがそのリズムは強い縦乗りでとても強烈な違和感がある。
○ ピコ太郎氏のこの音楽はほぼ縦乗りだが全く違和感がない。またピコ太郎氏は実は海外でも実は評価が高い。彼の縦乗りはところどころに変化が入っており部分的に横乗りになっている。
◎ 赤坂小梅/おてもやん1961年の演奏だ。これは完全な縦乗りだ。違和感がないどころか幻想的ですらある。このバッキング(チューバ)のタイミングは絶妙で名人芸が光っている。素晴らしい。
○ アニメソングはしばしば縦乗りだが違和感を感じさせないものが多い。この曲「コズミックサイクラー」は80年代のアニメ『うる星やつら』のエンディングソングで、アニメソングとしては古典の部類に入る。縦乗りだが違和感がなく非常によい感じで仕上がっている。
○→☓ このビデオは拙作のビデオだ。僕がセブンイレブンでかかっていた縦乗りBGMのリズムを耳コピして再現したものだ。オリジナルと縦乗り版を交互に聞いて比較できるようになっている。
○ このリズムは前述のセブンイレブンの縦乗りヒューマンネーチャーと全く同じリズム形を持っている。セブンイレブンの縦乗りは強い違和感があるが、こちらの縦乗りには違和感がない。全く同じリズム形なのに違和感があるものと違和感がないものがある。この曲は70年代に放映された『子連れ狼のテーマソング』だ。完全に和風の縦乗りになっている。
○ イエローサブマリン音頭。大滝詠一がビートルズのイエローサブマリンを音頭にアレンジしたもの。縦乗りだが全く違和感がない。
○ 太田裕美の木綿のハンカチーフ(1975年) 縦乗りだが全く違和感がない。
○ この曲も違和感がない。アニメソングはしばしば違和感がない。この曲は前半が横乗りになっており、サビ部分で縦乗りになっている。横乗り部分も縦乗り部分も全く違和感がない。
○ この曲には違和感がない。この曲はアニメ『涼宮ハルヒちゃんの憂鬱』の オープニングテーマ曲だ。この曲は部分的に変拍子が入っているが全て縦乗りだ。
○ この縦乗りは完璧に決まってる。全てオンで始まってオフで後付けのアクセントを入れる完璧な縦乗りだけでも充分なのに、最後に駄目押しの和楽器を入れて超ハイセンスな音頭の雰囲気で美しく様式美でまとまっている。
この曲にははっきりしたオフビートが入っており完全に縦乗りではない。また縦乗りリズム部分に突然和楽器を入れたり意図的に縦乗りを使っている形跡が見られる。
『極♨落女会』のテーマソング『お後がよろしくって…よ! 』
○ この曲にも違和感がない。この曲は完全に337拍子の縦乗りで構成されている。
○ この曲にも違和感がない。 この曲は80年代歌謡曲風の弱起つきの縦乗りで構成されている。
○ この曲にも違和感がない。
◎ 縦乗り大御所・当然違和感はない。 三橋美智也 藤野とし江「大東京音頭」昭和54年。
◎ 違和感がない。 憧れのハワイ航路 唄 岡 晴夫。 昭和23年。
考察
縦乗りの要素
縦乗りの気持ち悪さには数種類の要素があるのではないか、と思う。1. 嘘くさい
都会的な洗練を誇張しようとしており、周囲の状況を読み取って本心から語っていないという音楽に対する屈折した制作姿勢が見え隠れするところが不気味さを醸しだすのではないか。
2.傲慢
縦乗りの人には独特な気質がある。縦乗りであるならば素直にそれを認めて受け入れれば良いのに頑としてそれを認めない。認めないだけでなくそれを指摘したことを逆恨みし、責任を転嫁し、他人に苦情を申し立て正当化して居直る。縦乗りの人が全員そうだという訳では決してないが、縦乗りの人が起こす人間関係トラブルには独特なパターンがある。
3.エレクトーン教育の悪影響
縦乗りはエレクトーン教育の悪影響の結果だという説もある。日本のエレクトーン教育はとても偏っている。 読譜に重点が置かれており、その読譜方法も1拍目3拍目にメトロノームを鳴らし機械的にニュアンスを殺し譜面に忠実な訓練をする。 これによりリズムニュアンスを感じる感覚が完全に破壊されてしまっているのではないか。間違った読譜訓練により相対音感が失われて即興演奏ができなるという話はよく耳にする話だが、これと同じ現象がリズムでも起こっているのではないだろうか。
縦乗りの演奏は非常に難しい。上記のおてもやんのバッキングのチューバのタイミングは絶妙だ。 これは非常に良い縦乗りグルーヴ表現の例になっている。この様な縦乗りリズムで疾走感を表現することは極めて難しく、とても長い訓練が必要だ。縦乗りは些細なずれが大きなフィーリングの違いとなって現れてくるため細かなタイミングをコントロールする技術が必要だ。
横乗りのリズムはそうではない。横乗りは終了地点だけがあっていればよく、他の地点はむしろずれていることが前提になっている。ずれの大きさ自体がリズムの味わいのうちになっているため、実はさほど細かなタイミング制御は求められない。むしろ大きくずれたまま維持するという広い『同時の感覚』が必要になる。
僕はもともと古いジャズや東南アジアの古い民族音楽など、素の音楽が好きで、この10年くらいはそういう音楽ばかりを聞いてきた。実際に現地を歩いて演奏者に習ったりしたこともある。そういう中で体験してきた一般的な音楽の感覚からする、この『エレクトーン教育』作り出したリズムの違和感はかなり強烈だ。恐らく日本人も終戦直後くらいまではそういう「素の人間の感覚」を備えた人が生きていたのではないだろうか。だが時代は進み、国が豊かになり教育が普及した。その結果として、日本人のリズム感が画一化されて破壊されてしまったのではないか。
結論
縦乗りという言語
縦乗りは素晴らしい日本のリズムだ。縦乗りは素晴らしい。だがこれと同じことをジャズでやると強烈な違和感が生まれる。縦乗りをジャズに乗せると、ジャズというリズムが成立しなくなってしまう。 ここをどうやっても理解できない東京のジャズマンをとても歯がゆく思う。縦乗りが好きだからジャズでも縦乗りで演奏しよう…という発想はふさわしくない。それは英語の授業中に国語の教科書を読むのと同じことだ。国語の授業中に英語の教科書を読んだら、それが如何に素晴らしい内容であろうがふさわしくない行為だ。同じように英語の授業中に日本語の素晴らしい文学を朗読してもそれはふさわしくない。
全く同じ事柄(音楽的内容)でも、縦乗りと横乗りの2種類の方法で表現することができる。そのどちらが素晴らしいということは決してない。だがその場にあったふさわしい表現方法を選ぶべきだ。
おたくは格好悪い。だがおたくの方々はその格好悪さを直視して受け入れる心の強さがあるように思う。だから格好悪いのに全く格好悪くない。むしろそこに潔さにも近い洗練された説得力すら備わっている。 ところがジャズマンの方々は格好悪さを否定してしまっている。本来ジャズは格好悪く洗練されていない泥臭い黒人の音楽がその根底に流れている。だがその格好悪さを否定して格好良さだけを殊更強調してみせようとする。だから逆に違和感がでてしまう。
更に踏み込んで考えると、日本で広く支持を受けるミュージシャンは、日本人が持っている心の弱さを埋め合わせる補間の様な役割を担わされてしまって、色々とゆがんでしまうことが多いのかも知れない ─── ミュージシャンは飽くまでも象徴でありその本質ではない。
グルーヴしたいのにグルーヴしたくない生殺し感
新しいドラえもんの曲のリズムは例えようもなく気持ち悪い。その気持ち悪さを例えるなら「演歌としてみてもポップスと見ても解釈できない」という感覚だ。 これはひょっとしたら「演歌の価値観」に視点を固定して考えるとつまり『極めて先進的な演歌』なのではないか。日本の音楽のリズムは1拍3拍が重点で変化が入ると2拍4拍にシフトする。だが完全にはシフトできずモヤモヤした領域を漂う。だが新しいドラえもんはかなりはっきりと2拍4拍に一瞬だけ入っている。これが日本語の文脈から見ると「先進的」に感じる要因になっているのではないか。
戦後の本の音楽は演歌リズムからの脱却の歴史だ。常に脱却を目指しているが全て失敗に終わっている。脱却を目指しているが完全に脱却したことはない。
僕から見ると「脱却するならサッサと脱却しろ!」と思う。だが完全に脱却してしまうと、完全に認知世界の外にでてしまい「難解なプログレッシブ」の領域に入ってしまう。
演歌 …|プログレ
← → この位置が時代によって変わる。
演歌とプログレの中間は現実には存在しないのだが、その領域にある幻想がかなり肥大化しており、その領域がJPOPとかニューミュージックとか呼ばれている。
ジャム・セッションでも僕は2裏4裏以外弾かないのだが、それをやると完全に数えられなくなって、完全に演奏が止まってしまう人もいる。僕が声を出してカウントしても数えられなくなってしまう。 だがオフビートがないということはグルーヴしないということでありこれではグルーヴの存在意義自体がない
グルーヴしたいのに、グルーヴしたくない。 この生殺し感がとても気持ち悪い
訛りの獲得について
これは2000年代初頭に流行ったシンバルズのヒット曲だ。僕は当時これを気持ち悪いとは感じていなかった。だがとはいえ本格的なロックとも思っていなかった。『爽やか縦乗りサウンド』と思って割りきって楽しんでいた。これはこれとして別物として捉え、それとは全く別物として西洋のジャズを聞いていた。…だがこれを実は彼らは本当に「洋楽っぽい感じ」を狙ってやっていたのかも知れない… 恐らくだが。 それが洋楽を聞いて育った彼らの回答だったのだ。では子供の頃からロックを聞いて育った彼らが本当に純粋にロックを演奏できるのだろうか ─── 恐らくできない。これが彼らの素の音楽なのだ。これが彼らの『訛り』なのだ
もし本当に純粋にロックを演奏できたとしたら、新たにこの訛りを獲得する必要がある。
縦乗りと敗戦
日本のポップスの気持ち悪さの本質は「西洋かぶれサウンド」だ。西洋のポップスを取り込んでもその基底に演歌が残っている。基底にある演歌を厳しく軽蔑しているのに実際にはその本人自身の中にその演歌性は色濃く残っている。 だからその演歌性の否定が上手くいけばいくほど気持ち悪さが滲みだす。日本のアニメソングが気持ち悪くない理由はその心のなかの演歌(音頭・民謡)の存在を受け入れているからだ。また同時に「西洋かぶれサウンド」も受け入れており、そこから色々な方法論を取り込んでいる。結果として非常に高度な文化融合が発生して面白いサウンドになっている。
僕は日本人にしては非常に珍しく自分の中の演歌の存在を制御できる。演奏中に、演歌を出したり引っ込めたりできる。この能力は、語学の能力と同じだ。僕から見ると演歌を軽蔑しつつ演歌を引っ込められずに演歌を出しっぱなしで西洋ポップスを取り込んでいる様子が、野暮ったく田舎くさく感じる。
実をいうと、僕は西洋かぶれサウンドが好きだった。僕はシンバルズが好きでほとんど違和感なく聞いていた。オリジナル・ラブもそうだ。そもそも僕が音楽を始めたきっかけ自体が山下達郎初期の『過激西洋かぶれサウンド』にはまったのが最初だったし、更にその前はスペクトラムという過激ファンクかぶれバンドの大ファンだったのだ。どれも西洋のリズムを高度に取り入れているが、その基本にあるのは飽くまでも演歌だ。ただその混合比率が違うだけだ。
だがその後、僕は語学(ジャズ)を学ぶことを決意し、自分のなかの西洋かぶれを厳しく禁止した。それが僕の海外放浪での日本語禁止修行だった。僕は日本を出て日本語禁止修行を10年近くやった。
結果として「西洋かぶれ」に敏感になった。それがこの僕が感じている日本のポップスの気持ち悪さの根源にある。またはからずも、アニメソングが西洋にかぶれていない=自分の中にある演歌の存在を認めて共存していることも見えるようになった。
もうひとつ付随的に気付いたこととして、演歌・音頭・民謡を認めている人の方がリズム感が良いということがある。日本人で非西洋かぶれ音楽(ジャズ)が上手な人はしばしば、演歌でも非常に良いリズムで演奏できる。演歌を認めていない人は、リズムニュアンスの表現に無頓着だ。
敗戦国ラオと敗戦国日本の比較
僕が喋れるタイ語の方言イサーン語を思い出す。もともとタイ東北地方はタイとは違う王(ビエンチャン)が統治する地だった。だが1892年にタイとラオ(ビエンチャン)が戦争した結果ラオは敗戦しタイに統合された。タイ語が標準語とされてラオ語はタイ語の方言とされた。だが突然タイ語を話すことはできない。結果としてイサーン語というタイ語とラオ語の中間言語の様な言語が生まれた。これが2020年の今でも続いている。タイ東北地方の人たちは状況に合わせてタイ語とラオ語の比率を変化させる。学校などの公の場では100%タイ語で話すが、その辺りにいるときに100%タイ語で話すと非常に目立つのでふさわしくない。とは言え100%ラオ語で話してしまっても逆に非常に目立つのでふさわしくない。このタイ語とラオ語の混ぜ具合を状況を見て機敏に切り替える必要がある。
言語の切り替えが機敏にできないと社交上大きな問題が発生する。
これと同じ状況が音楽でも起こる。タイの歌謡「ルークトゥン」は主にタイ・潮州・ラオという3つの文化の衝突でできている。まず江戸時代ごろにバンコクへの潮州移民が増加し、潮州の音楽とタイの音楽が融合して、結果として「ルークトゥン」が生まれた。その後敗戦したラオが統合されたことにより人口比が一気に逆転、ラオの民族音楽「ラム」がルークトゥンに流れ込んだ。結果としてルークトゥンの創始者だった潮州+タイがシーンの端に追いやられ、ルークトゥンをラオが乗っ取った形になった。 現代のルークトゥン演奏者は、その音楽の比率を状況に合わせて変える。ラムの手法・タイの手法・潮州の手法を増やしたりすることでバリエーションを作り出す。
このタイのルークトゥンと同じ現象が日本の歌謡曲にも起きている。1945年に日本が敗戦して以降、日本の音楽シーンにアメリカ文化が日本に流れこんだ。結果として日本にもともとあった演歌・音頭・民謡とアメリカのR&Bなどの音楽が融合する形で日本の歌謡曲が生まれた。
だが日本がタイと異なるのは、日本人はタイ人ほど言語切り替え能力が高くないことだ。日本人は新しい言語を獲得することに100〜200年という非常に長い時間が掛かる。 タイ人の様に状況に合わせ瞬間的に言語の混合比率を変えるということができない。その中途半端な融合が「西洋かぶれサウンド」となって目に飛び込んでくるのではないか。
更新記録:
加筆訂正した (Mon, 15 Jun 2020 19:55:32 +0900)