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2019年6月15日土曜日

自国文化に対する客観性〜日本のリズムの単純化 (oka01-gdkjunqqeqheorkh)

タイでこういう画像を見つけた。


タイの女子校生が渡しているのは…


タイの女子校生が渡しているのは、タイで非常によくある『お布施のお願い』の手紙。

タイで漫画を書いている人はタイ/ラオに潮州(華僑)が混ざってる人が多い…と僕は思う。これを描いた人も多分そうだ。100%タイ/ラオの人は常にお金をもらう一方でそれを変だとすら思わない。 潮州が混ざった人はそんなタイ/ラオの文化に対して客観性があって、自国文化に多少イライラしている。

つまり混血度が高い人ほど自国文化に客観的だという傾向がある

 ─── この現象は恐らく日本でも起きている。

自国文化にイライラしている人は自国文化に客観性があり、むしろどうやっても主観的になれない。

日本と東南アジアの連続性

僕がアジアでいろいろな人の気質や文化を見ていて思うのは、東南アジア〜中国〜日本には漠然とした連続性がある…ということだ。
  • ベトナム〜潮州〜台湾〜福岡〜近畿の線(商売が得意・人の顔を覚えない・計算は得意・論理は苦手・多弁だが人の話は聞いていない)
  • タイ/ラオ〜ベトナム〜 鹿児島〜太平洋側〜岩手〜青森(人間観察力が高い・人の顔を覚える・計算は苦手・論理も苦手・多弁で人の話をよく聞く)
  • 北海道〜青森〜北関東(1)(超地道・寡黙・小柄)
  • 北海道〜青森〜北関東(2)(背が高い・多弁)
  • 中国北部〜朝鮮半島〜九州〜北陸? (文字に強い・論理が得意・しばしば寡黙。)
タイの場合、そういう人のグループは、民族と呼ばれてはっきり分かれている。顔つきも文化も性格も違うし、何よりも喋る言葉が全く違うので見間違えようがない。言葉が通じないことも稀ではない。

タイは主に5グループに分かれる。
  • タイ系(バンコク郊外〜北部に住んでいる。)
  • マレー系(南部に多いので南部人と呼ばれる。)
  • ラオ南部系(ラオス南部から中部コラートにかけて多い。タイで一番人口が多い。)
  • ラオ北部系(ラオス北部〜チェンマイにかけて多い。)
  • 潮州系(都市部・繁華街に多い。19世紀後半から20世紀初頭にかけて移住した潮州人の末裔で、混血している人が多い。)
これら5グループは普段、基本的に違う言語を喋っている。だからタイ標準語を喋っても、それぞれその発音に強い訛りがある。

こういう「はっきりわかれた」タイの人間関係に馴染んだあとで、日本に帰ってくると、日本も似たような感じで分かれていることを感じる。

潮州系の人は納豆を食べない。納豆を食べるのは中国南部人※だ。 潮州系の人が食べるのは納豆ではなくて味噌(豆板醤)だ。(※ 中国南部にはタイ系少数民族が多い。)

これは、関西人が納豆を食べないことを想起する。

他にも京都に「地主神社」があったりするが、潮州系は地主神という神を信じている

人の話を聞いているようで実は聞いていない感じなど、潮州人と関西人には漠然とした共通点がある。

豆を甘く煮るのはタイ/ラオ人の習慣だ。 潮州人は豆を甘く煮ることはあまりない。(豆乳を作って砂糖を入れることはある。)

豆腐は潮州人/中国南部人の両方が食べるが、中国南部人は豆腐を発酵させてチーズの様にして食べることが多い様だ。

日本の混沌

ひきわり納豆の味噌汁というのは過激な食べ物だと僕は思う。

  • 潮州の豆腐
  • 潮州の味噌
  • 中国南部の納豆
  • チベットのスープ

日本には、これらが全部混ざっている。しかもかなり異なった様相がある。…潮州は味噌を調味料として使うことはあっても、そのまま飲んだりはしない。料理は大抵炒め物で汁に入れて食べることは絶対にない。

以前チベット料理を食べた時、チベット料理に味噌汁のような料理があったことを知って驚いた。すりつぶした大豆のスープのようなものだった。だがひとつ違うのは、その大豆のスープはしょっぱくなかった。それは味噌ではなかった。 すりつぶした大豆でスープを作るのがチベットの習慣だとしたら、日本にはこれも混ざっている。

日本文化は、ほとんどゴチャマゼだ。

島国の特徴

島国とは、いろいろなものが入ってくる一方で、出て行くものはない。

潮の流れに乗って世界中のいろいろなものが流れ着く。

流れ着いても、帰り道がない。

こうして世界中のものが混ざっていく。

しかも他の世界から孤立しており、丸で島が唯一の世界のように思っている。

だから流れ着いたものを、まるで最初から島にあったもののように言いふり回す。

こうしてユニークなものが生まれる。

一方で、外部から孤立して保護されていることにより競争が働かず、明らかに正しく動作しない間違ったものでも、訂正も淘汰もされずに延々と継続する。

外部から孤立していなければ即座に淘汰される脆弱なものでも、まるで千万のネズミが一匹のネコを食い尽くすように、残っていく。

日本に違和感がある人達

日本人は、日本人に対してある客観性を持っている。だけどそれはタイの潮州系の人が持っているタイに対する客観性とはやや異なった様相がある。

日本人はよく『日本人はよく』という

 ─── その日本人に自分は含まれない。

これを僕が見ていてよく思うのだが、西日本人が『日本人はよく』という時、その日本人は東日本人のことを指している。また西日本人が『日本人はよく』という時、その日本人は西日本人のことを指している。

「日本人は人の話を聞き過ぎるから」 というとき、その日本人は東日本人を指しており、つまりそれを言っている人は西日本人だ。

「日本人はいい加減だから」というとき、その日本人は西日本人を指しており、つまりそれを言っている人は東日本人だ。

だがその違いに気付いている人は、ほとんどいない。そもそも気付く以前の問題として、東日本人と西日本人はとても没交渉で会話を交わす機会自体が少ない。

タイのように民族がはっきり分かれており、はっきりとしたマジョリティーがある場合、その客観性は特定の民族に向かう傾向がある。

タイの場合「ラオ」「マレー」「潮州」という特定の民族を表す言葉はいちおう禁句でははあるのだが誰もが知っている。本当はタイといわなければいけないのだが、それはとても『格好をつけた』言い方でもある ─── タイは民族統合がほとんど進んでいないのだ。

だが日本の場合、それがはっきりと明瞭に分かれていない ─── 実際には明瞭に分かれているのだが、それをはっきりと明瞭に見分ける能力を持っている人が稀で、それが明瞭に分かれているという事実が『日本』という名称の背後に隠されている ─── つまり日本はタイと比べると桁違いに民族統合が進んでいる。

日本は恐らく、百済が滅びたAD600年ころから移民が増え、もともと日本にいたネイティブ日本人と人口が拮抗したのではないだろうか ─── だからこそ、日本人が『日本人はよく』というとき、それの指し示すグループが互い違いになるという現象が起こるのではないだろうか。

僕も日本文化には実にイライラさせられる ─── だが僕の場合やや違った要素があるようだ。

僕の特性

日本人はしばしば日本人に対して客観的だがそれは本当の客観性ではない ─── ということをこれまで述べてきた。だけど僕はその客観性とはやや違った客観性をもっている様だ。

僕は東日本(青森・羽田・新潟系)と西日本(四国〜九州系)の2つの家柄が混ざっているらしい。だからか、僕は東日本人にも西日本人にもなれるようだ。

…と同時に僕は東日本人・西日本人の両方に対して客観的だ。

東日本人の考え方も理解できるし、西日本人の考え方も理解できるのだが、そのどちらも僕自身の考え方と大幅に違う。東日本にも西日本にも僕はあわせることはできるのだが、自分独りで好き好んでそれに合わせようとは思っていないのだ。もし僕が独りだけで誰にもあわせる必要がないなら、僕は東日本にも西日本にもあわせない。僕には東日本人・西日本人だけでなく、何かそれ以外の違うものが混ざっているようだ。

僕自身の考え方は、どちらかというと非常に大陸的で大雑把だ。学術や論理が好きで、何か既存のものを壊すことに興味はあっても、コツコツと努力して育てることにはほとんど興味がない。

僕自身は、生活していて「常に人にあわせている」という息苦しさを感じている。正直に自分の感性を顕にしてしまうとみな怒り始めるので、常に自分を隠していなければいけない。

別に恥ずかしいから隠さなければいけない、と思っている訳ではなく、常にできるだけ自分を出そうと思って、常にどれ位出せるのか探っているのだが、出しても理解されることは稀なので、ほとんど自己満足の世界に突入している。

その感覚はしばしば、九州人や離島部の人と共有できるらしいことも発見している。だが常に共有できる訳でもないようだ。また彼らしばしば、東日本人と全くソリが合わないことも観察している。だから彼らを関東に連れて来ても、関東の社会にうまく適応できないことが多いようだ。九州・離島部の人は関東では超少数派で、だから僕は仲間を探すことが困難なようだ。

・・・だが僕にとって全てのことは赦して受け入れることができる。

僕にとって唯一、どうしても我慢ならないのは、日本のリズムのことだ。

日本人のリズムの特徴についてここで詳細に述べた。

ここでは日本人のリズムに対する僕の印象だけを述べる。

日本のリズム

日本人のジャズは337拍子だ。

337拍子はジャズのリズムではない。

ジャズのリズムは337拍子ではない。

337拍子はジャズのリズムではない。

だが何故、日本人は337拍子でジャズを演奏するのか。

このことをいくら言っても、いくら言っても、伝わらない。

この不条理感たるや筆舌に尽くしがたい。

ダサすぎる。

しかもダサくしないと、みんな怒り始める。

ダサくないと気がすまない。

頑固すぎる。 

しかもプロと呼ばれる人ほど絶望的にダサい。

実に皮肉なことだ。

僕はジャズギターを弾く。だが、ジャズギターを弾き始めると、僕が一言も何も言葉を発していないのに「お前は失礼なやつだな!」と怒り始めるジャズ演奏者がたくさんいる。これはある意味すごいことだ。一切言語によらずに失礼になるというのは、一体どういう風にしたらできるのだろうか。僕にもわからない。

337拍子にしないと気がすまない。

337拍子のジャズは、ダサい。

ジャズが337拍子というのは、ダサい。

だが 337拍子にしないと気がすまない。

だがダサくないと気がすまない・・・ だが同時に、ダサい自分が嫌いで嫌いで仕方がないので、ダサいとバカにする。

僕がまだ縦乗り337拍子で演奏していた頃、セッションで演奏すると喜ばれることも多かったが、失望されることも多かった。海外放浪のあとの僕は縦乗りではなくなった。結果として、セッションで演奏して失望されることはほとんどなくなったが、同時に何故か演奏者から激怒されることが非常に多くなった。
・・・これ以外のことは全て我慢できるが、とにかく日本人のマヌケと言っていいほどにリズム感が悪いことに関しては、心底堪え難い。

実際マヌケなだけなら許してもいいのだが、プロという看板を出している人間が、マヌケなだけに留まらず、自分がマヌケなことを棚に上げて居直って他人に文句を言い団結して常人を追い出していることなどは、もはや滑稽を通りすぎて、社会の恥レベルに到達している。

このマヌケさは日本だからこそ許されるものだ。日本外でここまでマヌケだと即死レベルで淘汰される。

それも地方都市のある酔っ払った晩の一幕というならいざ知らず、東京の一等地でこのレベルというのは常軌を逸しており、恥を知れといいたい。
 
僕はそのレベルで『東京』を名乗って欲しくない。

僕の東京のジャズシーンに対する違和感

僕は自国文化に対していらだちを感じている以上に、東京のジャズシーンのレベルの低さについてもいらだちを感じている。

当たり前が当たり前として通じない人、人、人。

居直って他人に文句ばかりいう人、人、人。

結果的にコミュニティーの中のどこにも居場所が見つからず孤立する自分。

妥協するリズムと、酷いリズムを演奏した自分に対する自己嫌悪。

妥協しないで自分を貫き通した時の、周囲の激昂。

空気を読めという圧力。

何故理解できないのか理解できない不条理感。

無理が通れば道理が引っ込む。

縦乗りが通れば横乗りが引っ込む。

答えのない疑問。

閉塞感。

いらだち。

勝ち目のないシーンでボロボロになるまで闘い続けてはいけない ─── 逃げるのも戦略だ。

僕は東京を出て行く以外ないのだろう。

僕は一応東京者なのだが、垢抜けない地方出身者が東京に来て楽しそうに演奏活動をしていて、東京者が東京を出て行かねばならぬというのは、一体どういう風の吹き回しなのか、と問いたい。実に腹立たしい。

・・・だが都会者とは、そういうものなのだろう。


再度日本人の客観性

僕はそういう日本人の337拍子どどんがどんのジャズにどうしても主観的になれないのだが、実はそう感じている日本人は少なくない ─── というのも僕が非337拍子のリズムで演奏するとおお喜びでついてくる人は決して少なくないからだ。

僕はここに日本のジャズの構造問題を指摘できる。

実際には337拍子で演奏したいと思っていないのに、337拍子で演奏する人が337拍子で演奏しないと怒り始め337拍子同調圧力を発信する為に、みな仕方なく337拍子で演奏するようになってしまう ─── という構造がそこに存在する。

ジャズマンを志したからには、ジャズを究極まで極める  ─── それはむしろとても日本人的な考え方ではないか。究極に到達していないのに慢心し他人に威張り散らすというのは、日本人としてあるまじきことだ。正面から正々堂々と勝負することなく結託して他者を追い出すというのは、日本人の武士の精神に反する。

多様性と客観性

人は多様であっていい。特に日本は島国で多様な考え方の人が共存して生活している国だ。多様性を認めなければいけない。他人の違いを赦し、受け容れていかなければいけない。自分の価値観を他人に押し付ける傲慢があってはならない。

だが日本がとても不幸なのは『自分の価値観を他人に押し付けるな!』という言葉自体が自分の価値観を他人に押し付ける常套句になってしまっていることだ。

相手が自分の価値観を全面に押し出して来たなら、自分も自分の価値観を全面に押し出してぶつかっていけばそれでよい。そういうぶつかりあいのあるところで新しい価値観が生み出される。ところが日本人はしばしばここで『自分の価値観を他人に押し付けるな!』という言葉によって、相手に自分の価値観に対する譲歩を迫る。『価値観の押し付け』といえば表面上の聴こえはいいが、この言葉は実際には自分から相手の価値観に対して譲歩するつもりがないことの裏返しであり、暴力だ。

『空気を読め』という言葉も全く同じことがいえる。相手に『空気を読め』と強制する人は決して自分から空気を読まない。これは形を変えた暴力だ。

これでは何も前向きな結果は出ない。

ましてや、ジャズの様に個人のぶつかりあい自体が本質にある音楽を演奏するなら、なおさらだ。

武道と農民

武道の考え方はぶつかりあいつつお互いを敬いあうことにある。だが、こういう人間のぶつかりあいを拒否する日本人は、とても農民的だ ─── 日本は農民的だからリズムが単調なのか

だが僕はここで非常に面白いパラドックスを見つけたのだ。

実は、農民の方が多様なリズムを持っているのだ。

東南アジアのラオ人は非常にリズム感が良いが、彼らは大抵生粋の農耕民族だ。アフリカ人は平均して非常にリズム感が良いが彼らは往々にして生粋の農耕民族だ。

農民は働きながら歌う労働歌として音楽を発展させる。単純作業が多く周囲と同期が必要な動作が多い。こうした作業はみんなで歌を歌いながら一緒にやるととても捗る。こうして農民はリズムを身につけることが多いようだ。

アフリカの人はかつてこの様に歌いながら農作業をしていたらしい。


エチオピアの音楽。非常にリズミカルな音楽文化を持っているエチオピア。背景に出てくる風景はどれも田園独特なものばかりで、彼らが農耕民族であることを強く示唆している。


福島は僕が知る限り農業が盛んだ。彼らのリズムは多様で複雑だ。


  • 衝突を好む狩猟民族的な要素。単純なリズムを好む。
  • 調和を好む農耕民族的な要素。複雑なリズムを好む。

日本は何故、調和を好み、同時に相反する性質である単調なリズムを好むようになったのだろうか。

日本のリズムの単純化

恐らく日本人のリズムの本質は、非常に複雑だ。様々な地域からいろいろな民族が集まって混血しており、しかもそれが無数の部落に分かれて多様な文化を育んできている。日本に住む人々は主に農耕民族で、そのリズムは本質的に非常に複雑だった筈だ。

だがその中に複雑でないリズムを育んできた狩猟民族系の人達もいた。

人々の概念は常に一番単純なものに揃う。つまり技術レベルは常にその場にいる人の一番低い技術レベルに揃う。非常に悪い言い方だがこの現象を一般的に『バカは伝染る』という。

人々が単純なリズムしか理解できない人々にあわせつづけるうちに、日本のリズムは単純化されていったのではないだろうか。

だがこれは飽くまでも社会的に育ったリズムであり、遺伝的に持っているリズムは全く異なるのではないだろうか。

厳しさが必要な混血文化

日本は世界的に見ても非常に混血度が高い地域だ。混血文化というものは、信じられない程にいいものを生み出すこともあるが、信じられない程に悪いものを生み出すこともある。

誰にでも『良い面』『悪い面』の両方があるものだ。だが2つの民族が混ざり合うと、それぞれの父親・母親が持っている『良い面』『悪い面』の全てを受け継いだ子供が生まれる。

勤勉だが計画性がない母と、計画性があるが怠惰な父から生まれた子供は、勤勉性・計画性・無計画性・怠惰性の全てを持った子供が生まれる。その子には、気質の選択の自由がある。勤勉になるか怠惰になるかは子供の気持ちしだいなのだ。

混血度の高い人の場合、その子の中の勤勉性と計画性がうまく引き出されれば、とても働き者になる。だがとその子の怠惰性と無計画性が引き出されてしまうと、問題になるだろう。

東南アジアの辺境に住んでいる少数民族の人達の気質はとても均一で、教育した程度で性格が変わったりすることはない。 ─── だが日本人の場合、人々の混血度が高いことによって、いろいろな人がいろいろな性質を持って生まれてくる。混血度が高い人の子は、どの性質を伸ばすのかによって、全く違う人間として育つ。

島国のぬるま湯

これまで混血文化では厳しさが必要なことを述べた。

だが一方で日本人は、島国という環境により外敵が少ない守られた環境で育っている。日本は外敵が少ないだけでなく、南国の様に灼熱に晒されることもなく、極北の様に氷で閉ざされることもない。政治的にも気候的にもとても安全な環境で育っている。

よって厳しい環境で鍛えられる…ということが少ない。

日本人のミュージシャンは非常にレベルが低い。日本外ならあっという間に淘汰されてしまうようなインパクトのないミュージシャンがのうのうと暮らしている。日本外はインパクトが強い音楽がありふれている。

日本の限界

しかし僕はいつも常に同じことを言っており、いつも同じ結論にたどり着く。

日本のリズムは何故おもしろくないのか。

それは日本人は守られた環境にいて厳しさを知らないからだ。

日本では何故おもしろいリズムが通らないのか。

それは日本人は守られた環境にいて厳しさを知らないからだ。

日本のリズムは何故おもしろくないのか。

それは日本人は守られた環境にいて厳しさを知らないからだ。

今日もまた、もうかれこれこんな文章を12時間近く書いている。

結論は常に同じだ。

僕は日本に帰ってきてからずっと同じことを悩み、同じ結論に達している。

もう終わりにしなければいけない。

発展の望みの無いものは、切り捨てなければいけない。

腐った人間を殺し、捨てて、前に進まなければならない。

終わりに

日本人をみんな海外に連れて行って、日本に帰れなくしてやりたい。

ざまあみろ。

誰もが、僕が言っていることが正しいと思い知るだろう。

言葉も通じない。

食べ物もあわない。

当然仕事もできない。

そして、

僕が言っていることが正しいと思い知る前に、みんな死んでしまうだろう。

それが日本という環境なのだ。

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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