日本でミュージシャン活動をしているある外国人がフェースブックである告白のようなものをしているのを見た。英語で書かれていた。彼は日米両方に友達がいるので、日本語と英語の両方でコメントが寄せられていた ─── 日本語で書かれたコメントを見て僕は、実に複雑な思いがしたのだ。
日本にいる外人の諦観
彼の告白は、彼の生育歴にまつわるもので、かなり深刻なものだった。その内容についてはここには書かない。僕がコメントを読んで愕然としたのは、数名の日本人の知人がその内容を全く理解していないことが明らかな返答をしていたことだ。返答をしているからには、英語を読むことはできたのだろう。だがそれを理解している様子が全く見られない。読んで理解したなら、その理解した内容についての何らかのコメントをするだろう。だがそのコメントは内容とは全く何の関係ないものばかりだった ─── 理解できていないのだ。
それは正直僕は非常に失礼なことだと思った。もし完全に理解できないなら、しばらく様子を見て、状況を飲み込んでから返答してもいい。だが状況が深刻なのだという状況自体を理解していおらず、実に軽々しく返答しており言葉を失った。
その返答をしていたのは、ほぼ全員僕の知人だった。正直僕は怒りたかった。だが僕が怒っても、恐らく何故怒っているのかすら理解できない。全く無関係な他人である僕が怒っている位だから、言われた本人はもっと怒っている筈だ。
─── だが実際には何も言い返しておらず怒っていなかった。それは何故だろうか。それは「日本人はいつもそうだから」と諦めているからだ。
痛みとは
日本人が理解できない話題
僕はいつも自分で考案したジャズのリズム理論について日本語で記事を書いている。だがそれを読んでも誰も理解できない。また僕は語学に関しても相当数の記事を書いているのだが、こちらも『誰も理解していない・読んですらいない』と言ってよい状況だ。ジャズと語学・・・どちらも外国の文化にまつわる話題だが、これをわかりやすい日本語で丁寧に説明しても、どうやっても理解できない。どうやっても理解できない。
何故、理解できないのだろうか。その事について考えてみると『痛み』というものへの理解の欠落があるのかな、と思う。
僕は正直をいうと、理解できない人を見ると棒を持ってボコボコに打ちのめしたくなる衝動に駆られる。実に物事に対する姿勢がぬるく、厳しさを教えてやりたい気持ちでいっぱいになる ─── では僕は何故そう思うのだろうか。それは自分が経過してきた歴史が『棒をもってボコボコに打ちのめされる』ような状況だったからなのかも知れない。
理解できない理由とは
僕は都会育ちで厳しい環境にいながら、学歴もなく家が貧しかった。1989年に社会に出て働き始めて以来 『ある一定レベルをクリアしないと死ぬ』という状況に何度も立った。クリアできずに『(精神的・社会的・経済的に)棒でボコボコに打ちのめ』されるような状況に何度も落ちた。2005年に日本から出た。日本を出て以降は、精神的・社会的・経済的だけでなく、実際に死ぬかも知れないという状況も何度か経験した。
日本では『(精神的・社会的・経済的に)棒でボコボコに打ちのめ』されることはある。だが実際に死んでしまうことは稀だ。日本は海に囲まれており、色々な意味で守られている。海外は何も守られていないので、注意しないと死んでしまう状況にしばしば出会う。
恐らくだが、日本人は海に囲まれた平和な状況で進化してきている。だからガラパゴス島の珍獣が外敵=人間を見ても逃げないのと同じく、外敵に脆弱なまま進化したのではないか。その後、船が発明されて日本に外敵(異民族・異文化)が侵入するようになると、まるで伝染病が一気に流行するパンデミックのように、暴力や犯罪が広まってしまったのではないだろうか。
これは中国のビデオで、僕が言いたいことを非常に的確に捉えているので紹介したいと思う。これは中国の雀荘に斧を持った3人の通り魔が襲いかかった瞬間の映像だという。襲いかかった瞬間、その場の全員が椅子を持って応戦している。結果として襲われた人たちに重症を負った人はいなかったが、話によると襲った二人が逆にその場で殺され、残った1人だけが生きたまま逮捕されたという。
だが日本ではこうは行かない・・・海外の人はこのように外敵に対する免疫がある程度備わっているのが普通で多少攻撃を受けたくらいではビクともしない。だが日本人はこういう免疫を全く持っていない。日本で同じことが起きたらみな何が起こったのか理解する間もなく殺されてしまっただろう。
日本ではぼんやり歩いていても、何か致命的な問題に出会うことはない。だが海外では道のあちこちに気付かないような細かな危険がむき出しの状態で放置されていることが多く、歩く際ある程度の周囲に対する配慮が求められる。
だが日本人は実に不注意だ。海外の歩行者は機敏で注意深いので人とぶつかることは稀だ。だが日本人は実に人とよくぶつかる。僕は久しぶりに日本に帰ってきて、人とぶつかる人の多さを見てびっくりした。
ぶつかる人は、こちらに人がいるというのに丸で吸い込まれるように近づいてくる。「人も少ないしこれくらい距離を取っていればぶつかることはないな」と思って距離を取って歩いていると、そちらに進んだらぶつかるのが明らかな方向に方向転換し、全く避ける素振りもなく近づいてきてぶつかる ─── 加えて僕が「気をつけろ!」と怒ると、「お前こそ気をつけろ!」と逆に怒り返される不条理感。
彼らは、周囲に対する配慮が全くない。そればかりか、そもそも回りを全く見ていない。そもそも、ぶつかってはいけない、という危機感がない。
日本人は色々な形で守られている。
例えば、僕がいくらシビアな人間だからと言っても、よそ見をしてぶつかってきて「気をつけろ!」と逆ギレする人をひとりひとり捕まえては「どちらがよそ見をしていたのかちょっとはっきりさせようか!」と『棒でボコボコに叩く』ようなことはしない。
だが海外では当然のように『棒でボコボコに叩』かれるのだ ─── ぼんやり歩いていて人とぶつかってよろめいた先にバスが走ってきて轢かれたとしても、ぶつかった人に責任を問うようなことは絶対にない。海外では、ぼんやり歩いていて人とぶつかって転んで庭先の尖った柵にぶつかって大怪我をしても、ぶつかった人に責任を問うようなことはまずない。海外では、ぼんやり歩いていると、大怪我をさせることを狙ってわざとぶつかってきたりする人もいる。
海外では、ぼんやりしている人の責任が問われる ─── だが日本では、ぼんやりしている人を怪我させた人の責任が問われる。
海外では誰もが『棒をもってボコボコに打ちのめされる』ような経験をしている ─── いくら海外の人が『外敵に対する免疫』が備わっていると言っても、実際にトラブルに巻き込まれて不幸にして命を落としてしまうこともあるし、命を落とさないまでもショックを受けて心に深い傷を残してしまったというようことも稀ではない。
だが、こういう『痛み』が共感性というものを育てていくのではないか。
共感性こそが英語理解力の源泉だ。
共感性=英語の理解力の泉源
共感性というのは、他人の痛みを自分の痛みに置き換えて理解する能力のことだ。腕立て伏せを200回連続でやる筋肉の痛み ─── 腕立て伏せ200回を実際にやったことがあれば、その痛みを知っている。だからこそ、腕立て伏せ200回をやっている人を見た時に『痛そうだ』と理解することができるだろう。それが共感性だ。日本人は共感性が非常に低い人が大半だ。それは常に守られた環境にいるため、大半の人が『痛み』を経験したことがないからではないか。 しかし全員が共感性が低いので、共感性が高いという状態自体を知らない。だから自分たちが共感性が低いということ自体を認識することができない。だから共感性が低いということ自体に気付かない。
英語の理解力を上げる秘訣とは ─── 他人の痛みを理解することにほかならない。
他人の痛みを理解するために必要なことは勉強ではない。経験だ。
それも、厳しい世界で生き抜く痛みの経験が必要だ。
日本という閉じた世界
日本は、それ自体がひとつの閉じた論理体系だ。だからゲーデルの不完全性定理 を引き合いに出すまでもなく、日本人は自分の考え方の間違いを見つけることができない。柄谷行人の『内省と遡行』 の様に『内部』に閉じ込められたまま、内部が何なのかすら知ることができず、外部が何なのか、そもそも外部が存在するのか自体も知ることができず、延々と日本の言語空間を亡霊のように彷徨うのみ・・・それが日本人の運命なのかも知れない。
自分が見えない日本人
日本人は非常に勉強家で TOEICで900点台を持っている様な人が大勢いる。英語力が高いはずなのに、実は相手が何を言っているのか全く理解できていない ─── これを見た時の不条理感の激しさというものは、筆舌に尽くしがたい。TOEIC についての批判をグーグルで検索する
- TOEIC点数とコミュニケーション力の相関について(バーミンガム大学・2002年)
- TOEICの上辺だけの改革、適切な会話能力計測の指針には不適切(ジャパン・タイムス2016年)
- TOEICの落とし穴(ケヴィン・ミラー氏 2003年)
- TOEIC テストを大学英語カリキュラムに取り込む問題点について(多摩大学)
『TOEIC 高得点者の大半の人が英語が喋れてないだろ!』『TOEIC はダメダメだ!』 ─── TOEIC についての批判は世界中から上がっている。
だがTOEICの人は英語が読めないのでこれらの批判が彼らの耳に届くことはない。
日本人は自分が見えないので、英語が理解できていないという状態自体に気付かない。
これはある意味、恐ろしく奇特なことだ。
だが誰もその奇特さに気付かない。
日本は国民総出で弱点の多いTOEIC一本槍に。
日本は再び玉砕する。
これで玉砕しないなら、そのほうがずっと奇特な話だ。
※ 追記 (Wed, 26 Jun 2019 01:16:50 +0900)
英語民間試験「中止を」東大の元副学長ら請願書
この記事を書いた後でやや動きがあったようだ。
日本政府もそこまでは腐ってなかった。
だが嘆願書を出した人は沖縄の方ではないか。図らずも本州人は国際センスがないと証明してしまった形ではないか。日本人がきちんと日本の文化を客観的に眺め批判的に評価できる様になる日は遠い未来のことになりそうだ。