- 便利になると大抵、非常に忙しくなる。
- その忙しさに対応できない人は、不幸になる。
- 不便さは、人に、幸せとは何なのか、確認する機会を与えてくれる。
人には 便利さに憧れて忙しさに食い尽される という状態が存在する ─── 人はそこまでして便利さを追い求めなければいけないものなのだろうか ───?
便利さを求めて、街に出る ─── だが、自分が街に何を求めていて、街に対して何を与えられるのか。これがはっきりしていないと、便利さに喰い尽くされる。
或いは、便利さを求めて故郷の発展を望むのも同じことだ。故郷が発展して便利になる。だが便利さに対して何を支払い、便利さから何を得るのかはっきりしていないと、故郷が便利さに喰い尽くされる ──── 故郷に喰い尽くされる。
僕は現在タイに住んでいるが、タイの人らのその辺のバランス感覚の良さにしばしば感心する。自分が得られるものは欲しい。だが自分が支払えないほどのもの・支払うと結果的に、自分が不幸になってしまうようなものは、潔く諦めて欲しがらない。
興味深いのは、華僑その他、タイ系の民族(タイ系やラオス系人)のタイに住む人らは、基本的に娯楽に対して自給自足体制を整えていることだ。村のビリヤード場・道端の飲み屋等々、全てが基本的にセルフサービスで成り立っており、セルフサービスで出来ない以上の娯楽は、求めない。 看板も何も出てない、単なる田舎の納屋が、実な飲み屋として営業していたりする。看板も何も出てないが、みんなそこが飲み屋だと知っている。セルフサービスの飲み屋。
彼らを見た後で、日本人を見ると、自分らが支払えない様な豪華な娯楽を求めて、身を滅ぼしてしまう人が多い様に感じる。街を不相応に発展させて、不相応に豪華な遊びを望んだり、上京して不相応に豪華な遊びを求めたり、する人が多いように思う。
自分が街に何を求め、街に何を与えるのか───この事について考える時、政治を学ぶことの大切さを思う。あたりまえだが、政治を学ぶということは、政治家の名前を知っているとか、歴史をたくさん読んだとか、政治解説の本をたくさん読んだとか、そういうことではない。それは、もっと実践的な、利害関係調整の技術に関する事柄だ。
僕は正直、日本から出る前は、政治など全く興味を持っていなかった。それどころか僕は、利害関係を調整する必要性自体に気付いていなかった。日本を出て46時中騙されまくり、そこで初めて必要に迫られ、必要性を理解した。その後意識して周辺の人がやっている習慣を真似することで技術を覚えた。
日本の外は騙しあい・化かしあいの世界だ。 騙しあい・化かしあいの世界で、有利に利害を調整するスキルを持っていないと、喰い尽くされっぱなしになってしまう。そこには日本でいう様な誠意や信頼は存在しない。しかし、そんな疑い合いという適度な距離感を保ちつつも、それぞれ仲良くしている。
絶対に負けるとわかりきった勝負に出る必要は、ない。強さを追い求め、覇を争い、リスクを犯して便利さを追い求めるよりも、不便なままの方がむしろ幸せでいられる場合は少なくない。
タイ語に「足るを知る」という表現がある。不相応なものを求めすぎると、逆に不幸になるという戒めの哲学がタイにはある。それは「哲学」という仰々しいものではなく、ごく一般的なその辺りにいる中年の肉体労働者ですらも持っている常識的な謙虚さのひとつではないか、と僕は思う。
日常的にそういう謙虚さに触れていると、 日本でよく見掛ける「憧れで身を滅ぼす」タイプの人らについて、色々と感じるものがある。