2000年末の手記。
2000-12-26 03:15
最近、心境が大きく変わった。『自分の中で自分だけがわかる理想を持つ事は大切な事だ』...と思い始めた。でも、本当は、それは昔から考えていた事なのだ。では、なぜ今、再びそんな事を今更ながら考えているのかというと、ここ4~5年の自分はそうではなかったからだ。かつて(1994~1996)の僕は、理想が非常に高かった。自分のなりたいイメージ、演奏したいスタイルのイメージを非常に強く持っていた。かつての僕は、自分の欲しいと思う事・自分の必要としている事を自分の中でいろいろ吟味して一つの理想を作り出し、それに対してひとつの道筋を組み立てていた。例えば自分が一番気持ち良いと感じられる音と自分の楽器の性質を考えてすべてを満たした理想像を持って、それを実現する為の色々な方法論を考え出していた。またその為には色々な人に教えを請うたりもした。
だが、そんな理想像や方法論というのは飽くまでも自分だけに通用する物なのだ。『理論武装』なんて縁遠い事だった。
自分は自分で自分の状況が見えている。そんな中で自分にとって最適な事を選ぶのは難しくは無い事だと思う。しかし、この事を人に説明するのは極端に難しい事だ。色々な複雑な背景を知らない人がその考え方を聞くと、間違っている事に感じられる事は珍しい事ではないからだ。僕は、『理由』は説明できなくても正しい事というのが存在すると思っていた。
当時、よく友達に頑固だ、といわれた。確かに僕は、人の考えを受け入れる事のできない人間だった。気配りとか他人への配慮も不得意な分野だった。
僕は、この事に関してかなり強い批判を浴びつづけたし、自分自身この事を自分の欠点だと思って非常に悩んでいた。僕は、この事を克服すべく人の意見を努力して取り入れていた。
しかし、僕にはどうしても受け入れられない意見があった。一つは学歴の事だったし、一つは両親の事だった。また、いってみれば自分の『理想像』もそうだった。自分が『突破口』として捉えている理想像を否定する事は非常に難しい事だった。一つの例を上げると、僕は、自分の気に入っているスタイル自体を『だめだ』と否定され違うスタイルを強制され続けていた。これは非常に辛い事だった。
しかし、僕は最終的にこれらを色々な考え方で自分なりに消化して取り入れられるようになった。自分の一つの部分として人の意見を取り入れられるようになった。これは、非常に大きな進歩だった。自分の前に大きく道が開けた感があった。友達が増えたし、色々なことがスムーズに進むようになった。
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だけど、問題があった。それ以来、僕は少し投げやりになった。「自分は本当はそれを正しいと思っていない...だけど、こうやればみんな満足なんでしょ...?」という風に考え始めていた。
自分は納得していない...自分は正しいと思っていない...だけど、他の人が言うやり方をしたら、自分は何も変わっていないにもかかわらず、みんな「岡あつしは成長した」と賞賛し始めたり、それまでのぼろぼろな格好をやめて=きている服と人間の価値観は一致しないという考え方をすて、仕事の為にスーツを着るようになっただけで、街中を歩く人の自分を見る眼が激変して些細な事で嫌な思いをする事がピタリと無くなったり...そんな事をたくさん経験するうちに自分の中で「本当に正しいと思う事に対する誠実さ」を失っていった。自分の身の周りの事を深い意味であまり大切にしなくなっていった。
例えば街中で演奏している時の演奏の内容で言えば、「自分で考えだした気に入っているフレーズ」を弾くより「へたくそでインチキ臭いけどベンソンフレーズ」を(ベンソンフレーズ=Geoge Bensonの弾くスピーディーなフレーズの事)弾いたほうがはるかに喜ばれるのでそういうものを重視したり、「適当に演奏してもどうせみんなわかりっこないや」と考えたり...しはじめていた。
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今の仕事についた1997年から今までそれは続いていた。だけど、最近あるきっかけで大きく考え方が変わった。長い期間で考えるとやはり「自分で本当に大切だと思っている事」を続けなければうまくいかない...と思うようになった。
例えば、前は自分が得意としている能力...たとえそれが風変わりであってもそれを伸ばしていく事が大切だと考えていたが、何でも出来るように幅広く取り入れていくように変わった。確かにそれは重要な事だった。しかし、だからと言って自分の本領を忘れてしまう事は致命的なことだと感じるようになった。
他にも色々あるけどよく思うのは、「適当でいいや式」の自分でいるときに付き合うようになった人たちは深く付き合い始めて重要な局面にあたってもそそくさと逃げてしまったし、「適当でいいや式」の演奏では少しの間は人をひきつけることは出来ても人々の心の深遠まで音を届ける事は出来なかったという事だ。
確かに「適当でいいや式」でいる事が大切な場面もある。厳密に言えば...これは飽くまでもバランスの問題でどちらか一方が正しい...という物ではないのだと思う。音楽の世界で言えば、いくら理想を追求してもその時の自分のレベルが低いから実現不可...という問題はどうしようもないので自分の能力の許す範囲である意味での妥協をして、経験を積んで行かなければ仕方が無いし、「いくら自分の理想がこうだ」って思っていたとしても人を喜ばせたい...という気持ちを忘れてしまったらただの独善でしかなくなってしまったりすると思う。しかし、今までの「理想のみを求める」という考え方の反動で全くそれをしなくなってしまっていた。それはそれで問題だ...と感じるようになった。
音楽で言えば、「演奏なんてみんなにうけりゃいいんだ」みたいにあまりにも理想が無さ過ぎてもどうかと思うし、二部大学での事で言えば...いくら「卒業する為には面白くない授業もある程度妥協して受けなければならない」にしても「卒業する為には真面目に勉強する事すら妥協しなければならない」...となってしまったら、それはそれで問題だと思う。(これは夜間大学を中退した理由でもあるのだけど...)
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これは、ひょっとしたら、「人の事ばかり考えていないで自分の事も考えなければならない」という事なのかもしれない。でも、「自分の事ばかり考えていないで人の事も考えなければいけない」のかもしれない。
2000-12-2603:15に途中まで書いた物を2001-01-1600:10に完成させた
更新記録
公開 2013-08-21T19:35:00+09:00
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NOTICE
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2022年5月29日更新: 末子音がない日本語 ─── 縦乗りを克服しようシリーズその22
2022年5月15日更新: 裏拍が先か表拍が先か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその3
2022年5月11日更新: 頭合わせと尻合わせとは何か ─── 縦乗りを克服しようシリーズその2
著者オカアツシについて
小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。
特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々
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