2000年初頭
─── 粗末な木造の混浴温泉の、硫黄で色のくすんだ板で出来た冷たい床に座りながら、白濁した温水から立ち上る湯気が窓際で冷やされて、流れ落ちてくる様子をみた。それを眺めながら、色々な事を考えた。温泉にくる前日に、数学家・TUKKYと考えると言う事について色々話したのは有意義だった。数学やコンピュータをなりわいとしている様な「理論的」な人は、感情的な物が乏しい事が多いという話しだった。
彼自身は「数学は物凄くアヴァンギャルド(avant-garde)な芸術なんだ」…とか、発言する所や、その数学に向かう姿勢から、透き通った孤独の世界で精神を集中させる快感を求めるタイプの人間だと言う事を垣間見る事が出来る。しかし、それでいて、ジャズピアノを演奏したり、落語の講演会を開いたり、ジャグラーが上手だったりと、理論的でない感情的な「汚れた」世界も同時に理解する人物だ。
そう言う「理論的な人」は「一般的でない」事が多い。彼はその事が嫌だ、と話していた。例えば、恋人がいないと言う事には特に何の苦痛も感じないがアニメの2次元の女の子のポスターを大量に部屋に貼っていたりとか、人付き合いを極度に避ける傾向があったりとか、物凄い奇行があるとか…こういった事を彼は「一般的でない」と表現した。彼は、もっと自然に数学をやりたい、と話していた。
ここで、彼の言う「一般的でない」と言うのは人々から受け入れがたいと言う意味ではないと思う。ここでの「一般的でない」と言うのは「感情移入」の能力の事を指しているのだ。
感情移入能力と言うのは、その時に一緒にいる人が感じている事を、さも自分の事の様に感じる能力だ。一緒にいる人が悲しかったら一緒に悲しみ、一緒にいる人が楽しかったら、一緒に楽しくなると言うような事だと思う。何故かは判らない。けれども、この事は、とても大切な事だと思う。
ここで絶対に気がつかなければいけない事は、どんなに感情的な物を無くしたくないと考えたとしても、何かに没頭して集中していると、不思議と何時の間にかそう言う傾向が備わって来てしまう事だ。そう言う「マニア」的な作業に没頭していると徐々に自分自身がそう言う傾向を帯びてくる事が判る。
感情が湧き上がるのは実際には止められない。感情が湧き上がらないと感じたとしても、実際には心の中から出て行かずにとどまっているだけだと思う。心の中から出て行かずに溜まって行く感情は、次第に淀んで行き、だんだんと変質していく。そして最後に「一般的でなくなる」。
また、見方を変えると、「一般的でない」と言うのは、「人に不快感を与える」とも言えるかもしれない。淀んだ感情を持っている人の傍にいると、その感情の影響を受けて自分自身もそう言う傾向を持ってしまう事がある。そうなってしまう事を避けるために「一般的でない」に対して本能的に不快感を持つのかもしれない。それは誰でもそう言う「一般的でない」傾向を持つ危険があるからだ。
楽器を演奏すると言う行為はその対極にあることだと思う。ジャズの世界ではいい演奏をする為には「歌って」演奏しろと教えられる。いい演奏をする為にはどうすれば良いかという質問には決まって「良く歌う事」と言われる物だった。歌う…というのは自分自身のその時の気持ちや感情を込めて演奏しろと言う事だと思う。
楽器を演奏すると言う事は、気持ち・感情を心から出して行く行為その物だと思う。ジャズの世界では「どうすればいい演奏が出来るか」と言う問いに対して、決り文句の様に「良く歌う事」と言われる。とても意味の深い言葉で正しく理解できているとは到底思えない。自分では、自分自身のその時の気持ちや感情を込めて演奏すると言う事ではないかと思っている。尊敬しているドラマーに「(演奏するとき)口はあけておいた方がいい」と言われた事もある。実際に口をあけて演奏すると、自分の気持ちを感じ取りやすい。何か、感情というのは肉体に関係しているのかも知れない。
ジミヘンドリックスはギターを女性の体を扱う様に演奏したと言う。ピアニスト南博さんに音楽理論を教えてもらった時も、同じ事を言っていた ───
断片 ここまで 2000年 初頭
─── 粗末な木造の混浴温泉の、硫黄で色のくすんだ板で出来た冷たい床に座りながら、白濁した温水から立ち上る湯気が窓際で冷やされて、流れ落ちてくる様子をみた。それを眺めながら、色々な事を考えた。温泉にくる前日に、数学家・TUKKYと考えると言う事について色々話したのは有意義だった。数学やコンピュータをなりわいとしている様な「理論的」な人は、感情的な物が乏しい事が多いという話しだった。
彼自身は「数学は物凄くアヴァンギャルド(avant-garde)な芸術なんだ」…とか、発言する所や、その数学に向かう姿勢から、透き通った孤独の世界で精神を集中させる快感を求めるタイプの人間だと言う事を垣間見る事が出来る。しかし、それでいて、ジャズピアノを演奏したり、落語の講演会を開いたり、ジャグラーが上手だったりと、理論的でない感情的な「汚れた」世界も同時に理解する人物だ。
そう言う「理論的な人」は「一般的でない」事が多い。彼はその事が嫌だ、と話していた。例えば、恋人がいないと言う事には特に何の苦痛も感じないがアニメの2次元の女の子のポスターを大量に部屋に貼っていたりとか、人付き合いを極度に避ける傾向があったりとか、物凄い奇行があるとか…こういった事を彼は「一般的でない」と表現した。彼は、もっと自然に数学をやりたい、と話していた。
ここで、彼の言う「一般的でない」と言うのは人々から受け入れがたいと言う意味ではないと思う。ここでの「一般的でない」と言うのは「感情移入」の能力の事を指しているのだ。
感情移入能力と言うのは、その時に一緒にいる人が感じている事を、さも自分の事の様に感じる能力だ。一緒にいる人が悲しかったら一緒に悲しみ、一緒にいる人が楽しかったら、一緒に楽しくなると言うような事だと思う。何故かは判らない。けれども、この事は、とても大切な事だと思う。
ここで絶対に気がつかなければいけない事は、どんなに感情的な物を無くしたくないと考えたとしても、何かに没頭して集中していると、不思議と何時の間にかそう言う傾向が備わって来てしまう事だ。そう言う「マニア」的な作業に没頭していると徐々に自分自身がそう言う傾向を帯びてくる事が判る。
感情が湧き上がるのは実際には止められない。感情が湧き上がらないと感じたとしても、実際には心の中から出て行かずにとどまっているだけだと思う。心の中から出て行かずに溜まって行く感情は、次第に淀んで行き、だんだんと変質していく。そして最後に「一般的でなくなる」。
また、見方を変えると、「一般的でない」と言うのは、「人に不快感を与える」とも言えるかもしれない。淀んだ感情を持っている人の傍にいると、その感情の影響を受けて自分自身もそう言う傾向を持ってしまう事がある。そうなってしまう事を避けるために「一般的でない」に対して本能的に不快感を持つのかもしれない。それは誰でもそう言う「一般的でない」傾向を持つ危険があるからだ。
楽器を演奏すると言う行為はその対極にあることだと思う。ジャズの世界ではいい演奏をする為には「歌って」演奏しろと教えられる。いい演奏をする為にはどうすれば良いかという質問には決まって「良く歌う事」と言われる物だった。歌う…というのは自分自身のその時の気持ちや感情を込めて演奏しろと言う事だと思う。
楽器を演奏すると言う事は、気持ち・感情を心から出して行く行為その物だと思う。ジャズの世界では「どうすればいい演奏が出来るか」と言う問いに対して、決り文句の様に「良く歌う事」と言われる。とても意味の深い言葉で正しく理解できているとは到底思えない。自分では、自分自身のその時の気持ちや感情を込めて演奏すると言う事ではないかと思っている。尊敬しているドラマーに「(演奏するとき)口はあけておいた方がいい」と言われた事もある。実際に口をあけて演奏すると、自分の気持ちを感じ取りやすい。何か、感情というのは肉体に関係しているのかも知れない。
ジミヘンドリックスはギターを女性の体を扱う様に演奏したと言う。ピアニスト南博さんに音楽理論を教えてもらった時も、同じ事を言っていた ───
断片 ここまで 2000年 初頭
更新記録
公開 2013-08-21T19:03:00+09:00