僕のtwitterアカウントに対するフォロワが近々3000人を超える。僕のフォロワは、その数が多いだけでなく案外と注目して良く読んで頂いている方々が多いのも特徴ではないか、と僕は日頃感じている。
僕は、最近twittbotという自動つぶやきを行う為のロボットサービスを利用し始めた。それは僕なりのツイッターユーザーの分析の結果である。僕のツイートは、数が圧倒的に少ないと、僕は見ている。ひとつひとつ色々考えて書いているので、その少ないつぶやきをよく吟味して読んで欲しいと思うが、現実的には他人のツイートにそこまで強い関心を持っている人はごく稀である。ツイッターという世界では、ツイート数が多い人がより多くの表示回数を得るシステムであり、僕の様な少ないツイート数の人間は圧倒的に不利である。
そこでボットサービスを使って過去の発言などを繰り返し発言する様にしてみたところ、非常に大きな効果が得られた。現在の僕のブログへのアクセスはほとんどがツイッターの繰り返し発言からのリンクから誘導されており、1日当たりに200程度得られており増加傾向である。ここから、この僕の自動繰り返し発言は、高い確率で僕を知らない僕の発言を求めている人の元に届いていると、僕は認識している。ツイッター上での反応も、1日平均して10名程度反応がある。恐らくそこからしばしばリピーターになっていただいた方も居るだろうと、僕は考えている。 ボットを使い始めてからフォロワー数は増加傾向にある。
だが、そういう中で、僕の壊れたテープレコーダーの様に繰り返し発言する行為を鬱陶しがる人が増えてきた。
3,000人とは凄い人数である。恐らく校庭に集めたら全員入りきらない人数だろう。twitterで文章を書くという行為は、朝礼で教頭先生がお話をするレベルを遥かに超えている。僕の今までの100人スケールの文章スタイルとは大きな違いがある。
これ迄、僕はmixi日記での100名前後のスケールのコミュニティーで文章を書いて来た。100名前後のスケールでは読者ひとりひとりの顔が見える為、その人それぞれに応じてカスタムメイドで文章を書くことが可能で、読者の注目に関しても高いレベルで期待できた。言って見ればあたかも100人全員と交換日記をしているようなきめ細やかさがあった。
だがそれが3000人というスケールに移行すると、コミュニケーションの質自体が変わってしまう。自分の文章がどの様な文脈で見られているか知るすべは限られており、読者の注目力に関しても殆ど期待出来ず、注目される事を期待しない状態でバランスを維持する必要がある。恐らくこのような質の移行は、3,000人から10,000人へ、10,000人から 30,000人と指数的に現れるだろうと考えられる。
今回の自動重複発言に関しては各界の知人友人関係者各位に大変なご迷惑をお掛けし、申しありませんでした。この場をお借りして深くお詫びを申し上げる次第で有ります。
今回のこの件によって僕は色々な事を考えた。インターネット上の文字を使ったコミュニケーションに於いて、100名スケールのコミュニケーションと1000名スケールのコミュニケーションを両立させることは可能なのだろうか。この事について、色々と考察してみた。僕はこの件に関して3つの視点を持っている。順に紹介してみたい。
1. ツイート数比率の問題
一つ目は僕のプログラマとしての視点だ。遠慮を義務と考える日本人的な視点から見ると、多すぎるツイートは迷惑行為だと見なされる事が多いが、ある面から見ると、これは単純なコンピューターシステム設計上の問題でもある。それを以下で説明したいと思う。この問題は、次のようにして起こる。Aさんが30人程度をフォローして居たとし、このフォロー中のユーザーが平均して日に10程度ツイートするとする。するとAさんのタイムラインは1日平均してだいたい300程度のツイートが並ぶことになる。
例えばここに1日の平均ツイートが100のユーザーTさんが加わるとする。するとAさんのタイムラインは3つに1つがTさんのツイートという比率になり、ほとんどがTさんのツイートで埋め尽くされた印象のTLとなるだろう。これは問題だ。
ところがBさんが1,000人程度をフォローしていたとし、このフォロー中ユーザーが平均して日に150程度ツイートするとする。彼のタイムラインは1日平均して150,000程度のツイートが並ぶことになる。1日は86,400秒だ。彼のTL上では1秒に1.73ツイートが流れている。TL上に一回に表示されるツイートは20なので、ひとつのツイートが表示される時間はわずか11.5秒程度だ。
そのBさんがTさんをフォローしたとする。1日の中でBさんのTL上でTさんが表示される時間は1,150秒=19分程度となる。人は常にツイッターで遊んでいる訳ではない。もし或る人が1日にツイッターで遊ぶ時間が1時間程度あったとしても、Tさんのツイート時間とBさんの利用時間が一致しなければ、まず目にする機会はないと断言しても良いだろう。
もっとも現実のユーザーの行動は、このように簡単な比率では表せないかも知れない。こういうウェブサービスの常であるが、ユーザー全体の1割がシステム内のツイート全体の9割のツイートをまかなっているという様な、ヘビーユーザー対ライトユーザーの対立はここでも起こるであろう。
以上の様に、ツイート数比率のバランスの悪さは、実際に利用するに当たって不具合を生み出す。
このツイート数の質と量の比率による不公平は、facebook では一定の解決アルゴリズムを採用する事で解決を図っている様だ。 TL上で各ユーザーのツイートが公平に表示される様に、TL上で各ユーザーのツイートは、それぞれのユーザーのツイート数の多寡に関わらず確率的に同じ頻度で表示される様になっている。利用者のあるユーザーに対する興味が高ければ、表示確率をあげることで表示頻度を上げる事が出来る。逆にフォローしているが義理でのフォローという色彩が強ければ、表示確率を下げることで表示される頻度を下げることが可能だ。
恐らくツイッターでもこの様な確率的な表示を行うような機能を実装すれば(あるいは恐らくそういうツイッターのビューワーが存在するかも知れないが)問題は解決するだろう。
だが表示制御に小細工がない荒っぽさが、ツイッターというシステムが持っている持ち味でもあるのではないか。 表示制御に小細工がないため、工夫次第で一般市民でも大きな注目度を得る事が出来る点は、ある種のアメリカンドリームである。 それに対して、オーディエンスもリストや外部アプリなどを利用することで対抗手段を得ることが出来るのもツイッターならではの持ち味のひとつではないだろうか。
2. 「音数」の問題
もうひとつの視点は、僕のジャズマンとしての視点である。(僕は、全く成功は納めていないが、ジャズマンとしての活動歴が10年以上ある。)ツイート数が多すぎる少なすぎるという感想は、実際のところツイート数とは全く関係ないのではないだろうか。実は、面白いければ何をやっても許される、つまらなければ何をやっても許されない、ということでもあるのではないだろうか。 他人に「お前はツイート数が多すぎる」と文句を言う人が、大変なツイート量を誇る「東海アマ」氏を何食わぬ顔でフォローして眺めていたりすることは、有りそうなことだ。
つまり「ツイート数が多いぞ」という発言は、翻訳すると「最近ツイートがつまらない」と言い換えられるのではないか。僕がこう思う理由は、僕のジャズマンとしての活動経験から来ている。
ジャズの世界では「音数が多い」などという表現がある。音数という言葉をご存知であろうか。音数が多いジャズミュージシャンとは、演奏がつまらないミュージシャンの代名詞だ。演奏中、一生懸命に色々な音を並べるのだが、それが効を奏せず人々に無感動に映る場合、これを形容して「彼は音数が多い」などと揶揄する。
だが実際のところ、演奏の面白い面白くないは、音数とは全く無関係だ。音数が多くても面白い演奏は面白い。音数が少なくても、つまらない演奏はつまらない。「音数の多い」と批判されるジャズミュージシャンが、正直に批判に答えて音数を減らすと、更に演奏はつまらなくなり、更に注目を集めなくなる。オーディエンスとは残虐な物である。 一方素晴らしいと言われるミュージシャンは、コルトレーンのシーツオブサウンドの例を引き合いに出すまでもなく、往々にして実際の音の数自体は多いものだ。 演奏の面白い面白くないは、音の数とは別な要素だ。だが人の耳とは面白いもので、面白くない演奏を耳にすると、その音の数の多さが殊更に目立つのである。
これと同じことが恐らくツイートにも言えるのではないだろうか。
3. 繰り返し耐性の問題
僕は、現在ブログを書くことのゴールをはっきりと収入に結びつける事と決めている。だが、ゴールの為に、面白さのクオリティーを下げるような事があってはならない。クオリティーが下がればその分ゴールも遠ざかる。僕が行ったここ2〜3週間のマーケティング努力の結果として、僕は100円程度の広告収入を得た。僕の現在のタイ東北の滞在費である月3万円程度の生活費を賄う為には、単純計算で考えると、スケールとしてあと300倍程度が必要な計算になる。現在、僕のブログのPVは日当200程度であるが、これを60000程度まで増やすことが目標として要求される。これは、あと300倍繰り返しても飽きないだけの、高い繰り返し耐性が必要という意味でもあるのではないか。
ラオの人と一緒に村を歩くと、まるで壊れたテープレコーダーの様に会う人会う人同じ事を話して歩くのを見かける。「いやー!裏でこんなデカイ魚捕れたんでさぁ! 釣り上げようと思ったらよ!あんまり重いもんで釣竿折れたべ!慌てて網出して捕まえようと思ったら折れた釣竿ごとビチビチ逃げて、池に飛び込んでつかまえてよ! 持って帰ったら大騒ぎよ! 夕べは裏のじっちゃん呼んで、みんなで酒盛り!」という武勇伝を、歩いていると次々に出会う村人20〜30人のひとりひとりに、毎度毎度同じイントロとクライマックスを同じ口調で再現して歩くのである。これは実際にやってみると非常に難しいものだ。いざやってみると、そんな魚を捕まえる興奮や臨場感は、なかなか伝わらない。
ラオの人は、伝統民謡バンドを呼んだ酒盛りで酔っ払ってステージに引っ張り上げられても、結構物怖じせず緊張せずに大勢の前で面白い話を話せる人が多いのだが、それは、恐らくラオ人の「壊れたカセットテープレコーダー」の様な習性と、無関係ではあるまい。
同じ事を繰り返し話すという事は、ある意味に於いては、コミュニケーションの基本でもあるのではないだろうか。よい音楽は必ず繰り返しがある。良い音楽と同じ様に、話も繰り返す。 全てを一度で伝える事を期待せず、全てを一度で理解する事も要求しない。一言も取りこぼさぬ様な鋭い緊張と共に聞く音楽も楽しいが、それは聞く人に一定の能力の高さを要求する事でもある。 何度も何度も繰り返す事で、人は聞きこぼしてもまた言ってくれるだろうという安心感を持てる。同じ事を何度も何度も繰り返し言うことは、或る種の優しさでもある。
だが繰り返し話す内容は、繰り返しに耐えるクオリティーの高さが必要だ。繰り返しとは恐ろしく高いクオリティーが求められる物である。ちょっとした配置の不格好さであっても、何度も繰り返す中では、強い印象を持って不愉快さが気持ちに迫ってくる。10年繰り返しても飽きない配置というものがあるが、これをつかむ事は容易でない。
過去に作られた名演奏・名盤・名作は、この様な長年に渡って繰り返しに耐えてきた高い繰り返し耐性の実績がある。繰り返す中で少しでも違和感を感じさせるようなことがあればすぐに淘汰されていたに違いない。 過去の作品から学ぶ点は多い。
一方、楽しい音楽というものは、往々にして単純な繰り返しからなるのも事実だ。そういう素朴な良さがあっても良いのではないか。