今日は誕生日だ。ここに来てから本当に色々なことがあった。どの問題も決して小さくはなかったが乗り越えてきた。どの問題も、元を見てみると全て気持ちの問題だった様な気がする。
最近あまり他人に対して怒りを覚えなくなった。この変化は、恐らくラオ人と付き合うようになったことが非常に大きい。僕は、ラオ人は子供から老人まで本当に人をよく見ていると思うのだが、そのことは、その瞬間に当たった問題が精神的に厳しければ厳しい程、強く感じる。 気持ちを重視するラオ人の流儀での人付き合いを学んできた中で、それでふと日本を振り返ると、色々なことが見える。
ラオ人を真似して自分もラオ人と同じ様な視点から色々な人を観察するようになった。そういう視線から、人の色々な所作を見ていると、本当に人柄とかその人の考え方が滲みでている事を思う。それは人々が思っている以上に深い面まで露出している。「人を喰った考え方」という物がある。人の色々な所作に、この人を喰ったところが露出する。或いは人の色々な所作に、その人の人好きな面が露出する。
この「人を喰った」という言い方は、面白いことにラオ語にも存在する。ラオ人は、日本語や中国語で言うところの「因果応報」を信じている。因果応報などあるものか、神も仏もあるものかと考えがちな日本人から見ると非常に奇妙なのだが、このタイ東北イサーンに住んでいると、因果応報が存在すると思えるような事件にしばしば遭遇する。
人付き合いには流れの様な物がある。その流れのなかで人が不服に感じるような事ばかりしている人は、流れの中でトラブルに巻き込まれて不幸に落ちることが多い様に思う。 一方、その流れのなかで、人が満足を感じるような事をする人は、自然に流れが良くなって良い場所に流れ着く事が多いように思う。
タイ東北で色々なトラブルに巻き込まれるうちに、何かそういう流れの中の人が見えるようになった気がする。否、流れを見るのが天才的に上手いラオ人と自分を比較すると、自分は何も見えていないことを常に痛切に感じている。だが、そういう高いレベルの流れ見師の中で揉まれた後で日本人を見ると、呆れる程に流れを見ていない事を思う。 ラオ人は人の好みがはっきりしており、非常に正直だ。そういう中では、その流れの力の強さがどうも強くなる様な気がしている。だが、その流れの存在というものは、ラオ社会の中だけに限らず、実は万国共通なのではないか。
癖が強く嫌な奴に見えるのだが、実は非常に他人思いな親切な人間も居る。見た瞬間は非常に優しそうで親切に見えるのだが、実は中身が非常に人を喰った考え方をしている人間も居る。 人はまるでプリズムの様に光の当たる角度によって色々な色に見える。 人は、色々な角度の色々な光にさらされて、色々な色を発する。
別に人を喰った考え方をしていても構わない。それは人の自由だ。僕は、道徳上の問題があるとか、差別は悪いことだとか、綺麗事を言うつもりは一切ない。だが僕は、それが危険な考え方だと思うだけだ。
人の流れは信じられないほど大きな力がある。一瞬で人を滅ぼすような強い力を持っている。僕はそれを見てきたので、その流れを欺く様な事をする事に対して恐怖感がある。流れにちょっとした気まぐれが働いて、流れが自分の頭上に災いを落とす事があるのではないか、と感じる。そんな気まぐれがしばしば起こるのも見てきた。 僕が人を喰った様な考え方を好まないのは、道徳上の倫理感からではなく、防御本能でもある。流れをいたずらに乱すような事は、時として自分自身に破滅を招く。
僕自身も流れを持っている。誰もが流れを持っている。自分自身が流れを乱された時、怒りを感じる。何故そういう事をするのか、と感じる。復讐してやりたいと感じる。復讐心が巻き起こる。だが、自分自身も含めた大きな流れのなかで見ると、自分が彼を復讐しなくても、流れ自体が自然に彼に制裁を加える。復讐自体が流れを乱す行為でもある。流れを乱す事はリスクを伴う。個人としては、そんな他人の流れを乱す無作法も許して受け入れるべきなのではないか。
実は、昨日僕が住んでいるアパートで殺人事件があった。結構長く住んでいた女性が殺されたと聞いた時は非常に驚いた。彼女と一緒に住んでいた恋人が、ドイツ人のオッサンでヘビーメタルアナーキストみたいな大男だった。見かけは非常におっかない人だったが、目を合わせると非常に柔らかい目をしている人で、僕は好感を持っていた。だが女性は決して素行の良い人ではなかった。あちこちに複数人恋人が居てお金を受け取っている様だった。それを知ってか知らずか、ドイツ人のオッサンは、その見かけとは裏腹に、この女性の子供も一緒に面倒を見る生真面目さがあった。そのアパートで子供の為に部屋を借りて一緒に育てても居たのだ。こんなおっかない見かけの人だがドイツ人は生真面目なのだと思った。だが最終的に男性がキレたらしく、ウドン歓楽街の結構有名なバーで、大勢が見ている前でナイフでメッタ刺しにしてしまったらしい。 この話には前後に色々な話が付随する。詳しいことについては、また稿を改めよう。
これを見て、非常に色々な事を考えさせられた。
実は、殺人事件に出くわすのはこれが初めてではなく、これで三件目だ。 僕が関わっていない人の、身近で起こっただけの話も含めるともっと増える。僕は今までこういう事件について一切語って来なかった。日本人がタイに来ると、殺人事件みたいな社会のネガティブな部分ばかりに注目して、社会の裏側を見たと言って粋がって、他の部分を全く見るつもりがない人が極めて多い。僕はこの行為を自分自身に対して強く戒めていたので、これまでブログ・mixi日記・twitter・facebook含め、一切触れて来なかった。だから僕の日記を読んでいる人は、そういう事件が僕の周りにないと思う人も居たかも知れない。だが実はかなり多い。事情を聞くと、どれもこれも激しく流れを乱している話ばかりだ。… これらの話はどれもこれも非常に重い話で、なかなか気軽に言及できない。
話は変わって日本の話だが、最近、僕が非常に危険人物だと思っていたある女性Aが、僕の予想を激しく裏切って実は非常によい人間だという事を目撃する事件があった。Aは明らかな危険人物であり、僕は最大限の警戒を払っていた。だが、僕の旧友のとある悩める女性Kに対して、見下したり傷口を広げたりする事一切無しに的確なアドバイスを与えているところを目撃した。Aは非常に癖が強い人間でしばしばあちこちで問題を起こしている人間だが、Kの様な繊細な人間にソフトランディング出来る稀有な能力を持っていた。これは僕を激しく驚かせた。 彼女は不思議な人だ。彼女と接触すると、光が当たった様になってその人の人柄があからさまに露出する。
また最近、僕が一目置いて親しくしていたある方が、団塊世代のバブル時代を謳歌し先行逃げ切りで良かった的な事を言って、現代の悩める若者・段階ジュニアジュニア世代の事についてデリカシーがないことを言っているところを目撃した。僕はそれを見て、彼は案外と人を喰った人だったのだな、と思ったのだ。
人というのは長く見てみないと、なかなかわからないものだ。
人生を2〜3年という短期で見ているだけなら、ちょっとした小手先の笑顔やセールストークで得をしたりすることもあるだろうが、10年〜20年という長期で見ると、人間の中身が広く露呈してしまう事件が必ず起こる。その人間の中身によって、角に頭を打ち付けたり、あるいは思っても見ない様な場所から好条件のオファーがあったりするものではないだろうか。
将来の事は誰にもわからないが…。
漠然としており何一つ確証のある事は書けなかった。
単に最近漠然とそういう事を思うようになったというだけだ。
考え方などまた簡単なことで移ろってしまうものかも知れないが。