─── 満月の夜・・・サッちゃんはパパと夜空を見上げた。
「パパ、お月様が綺麗だね!」
「本当だね!さっちゃん! 」
「パパ、あたし、お月さまに行きたいな…。」
─── ここでもし・・・パパがさっちゃんの言うことを本気にしたら、大変なことになる。
「そうか!遂にその気になったか!」
パパは、矢継ぎ早にさっちゃんにこう言った:
- 月に行くには、まず宇宙飛行士にならないといけないよ!
- もし月に行きたいなら、まず物理学の勉強を必要! 今から頑張ろう!
- ほら、今から東大
理科一類を目指す為に、参考書を買ってきてあげたよ! - 宇宙船に乗るためには、高Gトレーニングが必要だね! 今から練習しようね!
※高Gトレーニングの様子(ビデオ)
-
パパ、裏庭に 高Gトレーニング・マシンを作っちゃった! これでいつでも訓練できるね!
※高G訓練マシン・この巨大なマシンが秒速2回転くらいで回る。
- 宇宙飛行士の本場はNASA! やっぱり英語の勉強も頑張らないとね!
来週からテキサスに引っ越しして、本格的に慣らしていこうね! - 「パパ、あたし辛い…」
「大丈夫!世界初女性飛行士・テレシコワも最初は辛くて挫折しそうになったけど、最後までやりぬいたんだよ! さっちゃんだってできるさ!」 - etc...
パパがさっちゃんの言うことをいちいち本気にしたら、さっちゃんは命がいくつあっても、足りない。
─── ここでのパパの『正しい返答』 は、次のようなものだ。
「そうだね!パパも行ってみたいなぁ! きっと綺麗な風景だろうなぁ!」
切り替えのむずかしさ
言っている話が本気かどうかわからない時がある。いや、それが「月に行きたい」などという話であれば、間違えることはまずないが、話題によっては、それがその人にとって「月に行きたい」という非日常なのか、「コンビニに行きたい」という日常なのか、判別がつかないことがある。単刀直入に言ってしまうと、僕が一番本気かどうかわからない話題。
─── それは『東京に行きたい』だ。
僕は、東京出身だ。だから僕にとって『東京に住む』というのは、『コンビニに行きたい』という程度の日常だ。
とはいえ僕は、東京から外に出て暮らした年月が10年以上ある。よって、東京外(特に西日本)から東京に入ることがどれくらい難しいのかに関しても、いろいろなことを見聞きしてきた。だから関西人にとって『東京に行く』というのが、実はかなり『月に行く』という非日常的な感覚を帯びている…ということに、薄々は気付いては、いるのだ。
だが、とはいえ僕は、子供の頃から東京におり、東京に対して非日常的な感覚を全く持っていない。それが非日常として認識している人がいる、ということは知識として持っているのだが、感覚として理解できない。
僕にとって東京は現実以外の何物でもない。実家が東京だから、東京以外のどこにも逃げ出せない。 どこかの地方に実家があれば、そこに逃げ帰ることもできただろう。だが実家が東京だから、東京が嫌になっても、帰る場所は東京しかない。
東京出身だが、中卒なので16の時から仕事をしている。だが東京で働くことが「楽勝だ」と思ったことはない。仕事は非常に厳しく、言葉遣い・礼儀作法なども知っていて当然、出来なければ直ぐに弾き飛ばされてしまう世界だ。非人間的で奴隷のような働き方をしなければならないことも、少なくなかった ─── だが悲しいかな、僕は東京者。どこにも逃げ出せない。そこで歯を食いしばって、適応するしかなかった。
だが長年にわたって揉まれていれば、嫌でも「勘どころ」というものが見えてくるものだ。常に全力でやらなくても、適度に手を抜いても、要求された仕事をすることができるようになってくる。
僕は、都内で配達の仕事を長くやっていたので、都内全域に土地勘がある。またあちこちの同好会/サークル等々に顔を出していたことがあるので、これにより都内全域に友達がいるという状況がある。都内全域に土地勘がある・・・これは、いくら東京出身でも、全員が全員持っているものではないのだ。
土地勘があれば、都内のあちこちにある街によって傾向が違うことも知っていて、どの街では何がやりやすい、何がやりにくい…といった事柄に関しても、勘がある。
僕の「日常の東京」という感覚には、そんな「東京に住むノウハウ」のようなものも含まれている。
関西人がいう:「東京に住んでみたいわぁ」
「そうか!遂にその気になったか!」
僕は、矢継ぎ早に関西人にこう言った:
- 東京は大きく分けて5つのエリアに分かれるんだよ!
城北・城南・城西・城東・中央(千代田区・中央区)だよ! - 東京に住むなら、地域別に人の雰囲気が違う感覚を大まかに掴んだほうがいいよ!
- 都心のほうが関西人が多く、郊外にいくほど少ないよ!
- ◯◯系の仕事をするなら◯◯区がいいよ
- etc...
だがどうも、どうやら、どういうわけか、しばしば、これらの返答は、あまり関西人を喜ばせないらしい…ということを、何度も繰り返し見てきたような気がするのだ。
恐らく、ここでの理想的な返答は:
「そうだね!僕も行ってみたいなぁ! きっと東京は、楽しいんだろうなぁ!」
差別なのか区別なのか
タイの農村地帯で10年間の語学武者修行をしていた時、似たような状況があった。近所の虎おじさんがいう。
虎「こんな物はな!バンコク(タイの首都)に行って売ったら、ムチャクチャ儲かるだろ!」
僕「そうか! じゃぁこんど一緒に行こう! 僕も案内するし!」
次の日、近くの熊おじさんがやってきた。
僕「こんど、虎おじさんとバンコク行くわ!」
熊「バカ!あいつがバンコクにたどり着けるワケないだろ!言ってるだけ!言ってるだけ!」
虎おじさんは、筋金入りのファーマーだ。バンコクに行くどころか、村から出たことすらない。だがいつも大言壮語で、スケールの大きな話をしている。だがそれは飽くまでも実行に移す気のない、定番の話題なのだ。
僕「あぁーー、そういうノリ?」
僕は東京育ちだし、言葉も丁寧だし、関東弁だ。だが僕の家柄は基本的に西日本系だ。僕の苗字は関東にほとんどいない。下の名前も関東では珍しい方だ。恐らく、四国人だった祖父(初代)の命名だからだろう。
だが、初代が西日本から上京して3代目なので東日本人の血が入っている。よって僕の風貌から僕が関西人と思う人は、絶対にいない。僕は関東らしい顔つきをしている ─── だが僕の中身は、風貌と全く一致せず、かなり大雑把というか、適当というか、裏をかく性格というか、コテコテな人間だ。
よって前述のような、大雑把な人らの感覚は、他人と思えぬほどの強い馴染みがある。
この感覚 ─── を先ほどの関西人との会話に適用すると、次のようになる。
関西「こんなのはな!東京に行って売ったら、ムチャクチャ儲かるだろ!」
僕「よしきた! じゃ俺、今度案内するわ!まぁ飲め!ハハハ!」
次の日:
友達「東京行かなくていいの?」
僕「関西人が東京にたどり着けるワケないだろ!言ってるだけ!言ってるだけ!」
確かに、これで収まりがよくなった。確かに、違和感はない。
だが、何故か、心が痛むのだ。
─── 果たして、こんな差別的なので、いいのだろうか。
人生は、全てバランスだ
人間、全てを右・左と2つに分けて、どちらか正しい方を選び続ければ万事上手く行く・・・などという単純なものではない。場合によってどちらも選べない時もある。場合によっては両方選ばなければならないこともある。状況によって右に手をかけながら左を取る・・・あるいは左を睨みながら右を取る・・・等々、相反する物事を清濁併せ呑んで、両方を成立させなければいけないことばかり ─── 人生は、全てバランスだ。だが、西日本と東日本の違いは、とても複雑だ。僕はいつも西と東に挟まれ、どちらも取れず悩んでいる。関東と関西のどの辺りでバランスを取ればいいのか、それが僕にはわからない。
更新記録:
(Mon, 17 Jul 2017 16:54:42 +0900) 文法間違いを修正した。
(Tue, 25 Jul 2017 04:54:11 +0900) 高G訓練を高Gトレーニング に統一した。「都心のほうが関西人が多く、郊外にいくほど少ないよ!」を追加した。