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2011年2月14日月曜日

もう何も言わない (mixi05-u459989-201102140351)

ミクシ内で書かれた旧おかあつ日記を紹介します。
もう何も言わない
2011年02月14日03:51
今日も銭湯に行ってきた。僕は銭湯が好きだ。 家に居て色々な事を考えているとだんだんと疲れてきて煮詰まってくる。 と言うのも、僕が住んでいる母の実家は非常に小さいので、常にこぐったり跨いだり半身になったりしながら住んでいるので、体の節々が痛くなってくるのだ。 そんな時、銭湯に行くと体がスッキリする。

僕が銭湯に行くのは大抵10:00過ぎだ。 そういう風に決まった時間に銭湯に来る人というのは多い様で、この時間に銭湯に行くと、やはり同様にこの時間に銭湯に来る、顔なじみの客がたくさん来る。 挨拶などはしないが、あぁまた居たぞ、と行く度に思う。 と言っても客はいつも多くなくて10人くらいしかいないのだが。 そんななかで、頭を洗って、顔を洗い、風呂に浸かる。

閉店は深夜0時で、その時間帯に来る人は、0時が近くなると一斉に風呂を上がる。 僕も同様に風呂を上がるのだが、風呂場のロッカーは4段重になっているので、同時に風呂をあがった人と、使用しているロッカーが上下でバッティングすると、服を着るときに不便だ。 今日は、運悪く他の人とバッティングしてしまった。 がっちりしたガタイの良い強面のお兄さんだった。

僕が上段で、彼は僕の下、最下段だった。 彼はしゃがんでロッカーの中の物をゴソゴソやっていた。 僕は最上段のロッカーだった。 僕はロッカーの扉を開けた。 開けた瞬間、僕は、こういう恐れを持った。 恐れとは、彼が、僕がロッカーの扉を開けたことに気がつかず、不意に立ち上がって、頭をぶつけてしまう事だ。 そう思ったので、扉から体を離さないように開け、開けっ放しにせずに扉を閉じた。 扉に体を寄せながら扉を開けたのは、体と扉が近ければ、彼が僕にぶつからない様に避ける事によって、不意に扉にぶつかってしまう事も無いだろうと思ったからだ。 僕が扉を閉じてバサバサと頭を拭いていたら、彼は立ち上がった。 彼は、立ち上がる瞬間、一瞬の間、半身になって、もしも扉が開いていたとしたら、扉が来ていたであろう場所を避けつつ、立ち上がった。 ちょっとした仕草だったが、僕はそれに気がついたのだ。 僕は、しゃがんでロッカーをゴソゴソやっている彼を見たとき、彼が恐らく数秒後に立ち上がろうとしている事に気がついたし、彼も僕が近づいてきてロッカーのドアを開け放して居るかもしれないことに気がついていた。 僕は何が言いたいのか。 つまり言葉こそ交わしていないが、彼と僕はきちんとコミュニケーションを取っていた、という事だ。 この事は、実に些細な事なのだが、これが僕の気持ちの中に非常に深く落ちた。 前述の強面のお兄さんを見て僕は自分の考えを修正しよう、と決心した。

僕は、日本人はコミュニケーションが下手である、と思っていたが、それはどうも誤っていた様だ。 日本人は、外国語が下手で。他人の気持ちを察するのが下手で、自分の意見を伝えるのが苦手で、騙されやすい。 そう考えている人は僕だけではあるまい。 だけど、僕はタイ・ラオ・中国と渡って日本に戻ってくる中で、日本人は、実はそんなにコミュニケーションが下手ではない、と漠然と感じる様になった。 何故だろうか。

日本国内に居る日本人は、外国に居る日本人と全く違う。 僕はタイやラオや中国に居て、日本人の周囲を動きを見ていない事に、大変な驚きを感じている。 タイ人やラオ人は、周囲の動きしか見ていないと言っても過言ではなく、そういう人たちと比べると日本人の周囲に対する不注意は殊更目立つ。 しかし、前述のお兄さんは、タイ人・ラオ人と同じように周囲をよく見ていた。 彼の様な日本人は、外国にはなかなか居ない。

それだけではない。 中国から帰ってきて、久しぶりに東京をブラブラして思ったのだが、東京には、タイにもラオにも中国にも絶対に居ない様な、自己主張が非常に強いタイプの人間が居る、ということだ。 僕は、インラインスケートの専門ショップに行って、そこの店主と話していて、そう思った。 インラインスケートに強い拘りを持っていて、それを絶対に他人に譲らず、客を捕まえては、その哲学について延々と講釈を加える。 その拘りの技能を信頼して客が集まる。 店員の知識や経験・技能が非常に高い。 タイやラオや中国では、他人に講釈を加える時は、大抵パフォーマンスやファッションの一環としてのポーズであり、話は面白くても、その内容は正しくない事が多い。 飽くまでも商売の一環である。 日本には、パフォーマンス・ファッションは度外視であり、ひたすら技術を追求する姿勢を持っている人が少なからず存在する。 商売は度外視である場合も少なくない。 こういう店は(アジアでは)日本にしかない。 少なくとも東京では、どこに行っても、従業員の言葉遣いがとても丁寧で、やってきた人に非常に丁寧に対応する。 きちんと相手に説明義務を果たすという意識を持っている。 だからきちんとコミュニケーションが取れる。 ちゃんと人の目を見ており、相手の意図を読む努力をしている。

僕がタイ・ラオ・中国で見てきた日本人は、一体何なのだろうか。



僕を含めてだが、外国に居る日本人というのは、日本に対して一抹の居心地の悪さを感じている人が多い様に思う。 何か直視出来ない現実を持って生きている。 心に何かしらの弱さを抱えて生きている。 そういう人は、往々にして外国を目指す物だ。 多くの人は、生存条件が厳しい外国で武者修行を積むことに、非常に前向きだ。 ところが、そうでない人が居る。 そんな人の中に、タイにはまってしまうタイプが居る。 (実際にはタイではなくラオだ。 タイ人と呼ばれる人の多くはイサーン人と言ってラオ族の一派であり、タイにハマっている人の7割がたは、自分がラオにハマっているという事にすら気がついていない。)

ラオの人は、心の性質を知り抜いている。 ラオ人 は他人の心の弱さを労るデリカシーを持っている人が多く、直視できない現実・人に見せたくない弱さを、優しく受け止める。 そんなラオ人に、傷ついた日本人は惚れ込んでしまう。

一方、ラオの人は、他人のデリカシーの無さに対して敏感でもある。 ラオの人に、心の弱さを踏みにじる様な事を言ってしまっても、大抵の場合、ニコニコして怒らないで聞いているのだが、後で必ず仕返しを受ける。 直視出来ない何かを持っている人や、心に何かしらの弱さを抱えている人は、往々にして他人の心の弱さにも非常に敏感に反応する物だが、タイにハマってしまうタイプの日本人には、どういう訳か、他人の心の弱さを踏みにじる様な言動を取りたがるタイプの人が多い様に思う。 そういう彼らをラオ人は決して許さない。

僕が日本でラオ人と非常に似ていると感じる人たちは、京都の人だ。 京都の人たちは、他人の心の動きに敏感で、相手の本心や感情をすぐに見抜く。 表面的には非常に感じ良く振る舞うが、自分の本心はなかなか他人に見せない。嫌いな人間には、見えないように嫌がらせをする。そういう特徴が、ラオの人と全く同じだ。 実際、ラオから中国南部にかけての最奥地で出会う日本人には、京都の人が圧倒的に多い。 あるいは、ラオの人は、日本のヤクザに似ているとも思う。 やはり他人の心の動きに敏感で、話術が上手く、駆け引きも上手い。 人を騙す訳ではないのだが、方便を使って自分に利益を誘導するのが、得意だ。 義理人情を最も大切にして、借りた恩は必ず返す。

ラオ人と接する時は、ヤクザと接しているのと同じくらい神経を使う必要がある。 実際、ラオの人は、日常的に、それ位の高い集中力を他人に使っている。 気を遣ってもらっているのに、自分は気を遣わなくてもよい、という訳が無いのである。

つまり、いくらタイやラオの居心地が良いいっても、他の国で武者修行をしているのと、何も変わりはない。 むしろ、その本質が建前やウソで隠されて表面的に見辛い分、他の国に滞在するよりもずっと厳しいとも言える。



人は、問題を解決したい、何て思っていない物だ。

本当にやりたいと思っている事を、本気でやる等とは夢にも思っていない。

自分の弱点を克服したいなんて、夢にも思っていない。

人間というのはそういう生き物で、それを責める事は出来ない。

だから、僕ももう何も言うことがない。

自分がラオ人をバカにしている等ということは、いずれ自然に気がつくだろうし、言っても絶対に理解出来ない物だ。

...どうしても上手く自由の気持ちを書き表せない。

北京に行ったらもう一度書き直すかな。

Mon, 14 Feb 2011 03:49:46 +0900

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出展 2011年02月14日03:51 『もう何も言わない』

著者オカアツシについて


小学生の頃からプログラミングが趣味。都内でジャズギタリストからプログラマに転身。プログラマをやめて、ラオス国境周辺で語学武者修行。12年に渡る辺境での放浪生活から生還し、都内でジャズギタリストとしてリベンジ中 ─── そういう僕が気付いた『言語と音楽』の不思議な関係についてご紹介します。

特技は、即興演奏・作曲家・エッセイスト・言語研究者・コンピュータープログラマ・話せる言語・ラオ語・タイ語(東北イサーン方言)・中国語・英語/使えるシステム/PostgreSQL 15 / React.js / Node.js 等々




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