少数民族 日本人
2010年12月04日23:46
先日、師範大学に居る日本人留学生が8人集まるという飲み会が開催され、そこで僕が激怒してその場に居る全員に説教をした、という事件があった。 ここで起こった事は、僕が現在居る場所、中国の昆明という街では極めて常識的な話「顔を見て出身を当てる」という話をしたら、8人全員が爆笑して鼻にもかけなかった、という事だ。 しかし、この場所に居る8人のどう考えても超少数グループであるこの日本人たち以外の、この地に住む人たちは「顔を見て出身を当てる」という行為を常識的にやっているのだが、であるのにも関わらず、彼らはそれを普通ではないと言って笑う。
この「顔を見て出身を当てる」という行為は、タイやラオでも当たり前の様にやる。 ロシアの人からも同じような話を聞いたことがある。 アメリカなど顔にはっきりとした差があるので更に激しくやっているだろう。 アメリカでは差別もからんでいるので「顔を見て出身を当てる」という事が違法だ、とすら言いかねない。 それくらいに、これは極めてよくやられることだ。 それを可笑しいと笑う、彼らは興味深い。 彼らは外国に長年に渡って住んでいるにも関わらず、外国の文化に対してまったくの盲目である。
顔を見て出身を当てるのは、とても大切な事だ。 何故だろうか。 答えは驚くほど簡単だ。 間違えると失礼だからである。 そして、当てることが出来ると非常に有効なコミュニケーション手段になるからである。 ここまで説明しても彼ら8人は何故顔を見るのが大切なのか理解出来ないだろう。 そんな彼らでも、自分が韓国人と間違えられたり、中国人と間違えられたりすれば、即座に激怒するだろう。 彼らも「顔を見ることが大切だ」と言える要素を持っている。 僕は、日本人として「自分がされて嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」と子供の頃から教わってきた。 彼らは、自分がされて嫌なことを平気で他人にするという意味で、日本人ではない。 また、彼ら8人が、仮に、自分が韓国人・中国人と間違えられて怒らなかったとしても、「あなた日本人でしょう!」と当てられると、喜びはするだろう。「何故わかったの?」とすぐに気持ちを開いて話をするに違いない。 つまり、騙され易い。
その日、その中で一人だけ仲良くなり、後で飲みに行った。 帰りがけ、電話番号を交換しようということになった。 彼は電話番号を覚えていなかったが、ちょうど電話を忘れて来ていた。 だけど、彼はメールアドレスを覚えていたので僕にメールアドレスを教えてくれた。 後でメールで電話番号を交換しようという話になった。 先日メールが送られてきた。 その時は忙しかったので、何となくやり過ごしていたのだが、ふと今日になって、そのメールに電話番号が書いていないことに気がついた。 こういう時の対応が難しい。 タイやアメリカや中国だったら「酔っ払って忘れたんじゃないの?」と即座に返答出来る。 だけど日本だとひょっとしたら「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージである可能性がある。 このメッセージを使う人と使わない人の両方が居る。 タイやラオ・中国だと、顔を見れば「こういうやり方を使う人」「こういうやり方を使わない人」の判別も大体つく。 だけど、日本人の場合、顔を見ただけでこの判別は無理だ。 慣れれば日本にも顔の地域差がある事に気がつくが、文化を当てる事が出来るほどには精度が高くない。 この日本人の場合も、「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージか、そうでないかは判別がつかない。 しばらく様子を見ようと思う。
日本人の人間関係は、とにかく疲れる。 何故だろうか。 他人がどういう出方をしてくるのか、まったく読めないからだ。 これは多分、日本人が、みんな、誰かに、言わずして自分の意図を汲んでもらい、合わせてもらおうとしているからではないだろうか。 日本人は個体差が非常に激しい。 タイ・ラオ・中国の様に、民族間の住み分けがある国では、民族によって出方に決まった傾向があり、それをみなよく知っているので、相手の出方を読むことが出来るが、小さな島国であるにも関わらず隅から隅まで超高速鉄道を引いてしまい、地域間の住み分けが完膚なきまで破壊されてしまっている日本では無理だ。
日本人は、しばしば「どこかに自分を理解してくれる人が居る」と信じている。これは幻想だ。 自分の意図は、自分の手で書いた文章や、自分の口で話した言葉が無ければ決して他人に伝わることはない。 だが、自分の思いを文章にしたためることもせず、自分の思いを饒舌に語ることもなく、何故他人がその思いを理解する事が出来るのであろうか。 超能力者以外、無理である。
僕は人とかなり性質が違う。 だから日本に居る時は、正常な日常生活を送るにあたって、他人に合わせる為に高度に自分を演じなければいけないし、演じる事はとても大きな精神力を必要とする。 コミュニケーションに大きな精神力を使うことに慣れている。 ここまでは僕の責任である。 だが、残念な事に、日本人の多くの人は、僕が他人に合わせる為に使っている精神力の大きさ程、僕に合わせることに精神力を使ってくれない。 だから僕は常に他人に合わせっぱなしである。 僕がタイに居て楽だと思うのは、この合わせることに大きな精神力を使うことに慣れている人が多い、という事だ。 日本人はタイ人ほど辛抱強くない。
昨日、僕は学校の生徒からギターを借りて、夜寝る前に長らく演奏した。 朝起きても演奏していた。 僕はジャズギターを弾き始めて、もうかれこれ20年である。 ジャズ演奏を身につけるいう事は、日本で日常生活を送る者に取って、非常に大きな困難を伴うものだ。 長い訓練が必要である。 僕は特に「厳しい」と思ってそういう訓練を続けて来た訳ではないし、むしろ楽しくて辞められなかったので訓練を続けてきたのだけど、僕がしている事を他人にやらせると10分も続かない。 一般的な感覚から見ると、厳しい訓練なのだと思う。 僕はこういう「厳しい」訓練を20年続けてきた訳だ。
ところで、日本人は自己認識が苦手である。 特に自己主張を含む芸術をする人ほど、その傾向が顕著だ。 特に僕が指向しているギタリストという人種は、特に自己主張が強い芸術であり、自己認識がへたくそな人の巣窟と言ってよい。 現実の自分と理想の自分の区別がなかなかつかない人が多いのである。 そして、日本人もそのことを認識している。 仮に読者の前に、「僕はギタリストです」と言う人が居たら、その言葉を素直に受け止める人が日本人に居るだろうか。 居ないだろう。 ギタリストとは、自己幻想が高い人種だと言える。
僕はそういうギタリストではない。 18歳の時に、ある先生からジャズギターを習い始めて、早大のジャズ研に顔を出すようになった。ジャズの世界というのは、実に厳しい世界である。 僕が先生に習っている間に、僕がしたことといえば「採譜」「耳コピ」だけだ。 非常に辛い苦行のような作業である。 習っている間、僕は「耳コピ」を続けたし、以降も「耳コピ」を10年以上続けた。 ジャズ研で実際の演奏経験もつんだ。 ジャズ研というのは、実に「嫌な人間」の巣窟・展覧会である。 ジャズ研に住む悪魔は、こういう自己幻想が高い人間にありがちな、実力の無さを、あっさり暴露し、侮辱し、慢心を完膚なきまで破壊し尽くす。 しまいには、女の子の前でパンツを脱がされて、性器にキンカンを塗られて、激痛と屈辱に耐えながら、演奏させられるのである。 自己愛幻想が0の地点から全てを始める。 だからジャズ研出身の人は、自己認識が的確な人が多いのではないか。(精神的に屈曲した人が多いという説もあるが。)
多数の演奏者が居るなかで、行う即興演奏とは、ほとんど空気読みの訓練と言って過言ではないだろう。 周囲の演奏内容をよく聞いて、その場の調和を乱さないよう、かつ、そこに一輪の花を飾りつけることで華やさを加えるように、演奏しなければいけない。 ジャズは決まった譜面が用意されている訳ではないので、その場の雰囲気を見て、音色や演奏内容を変化させなければいけない。 これは、決まった方法論がある訳ではない。 決まりきった事をすればよい、という作業ではない。 独創性が求められるとても難しい作業だ。 失敗すると、その場に居る演奏者・聴者からの冷たいオーラが自身の体に突き刺さるのを感じる。 演奏に失敗するということは、極めて辛い経験である。 僕はそういう厳しい世界に居た。
僕は今、外国に居て、中国語・ラオ語・タイ語を習っている。 僕はそういうジャズの訓練と、語学の練習にとても強い相似性を感じている。 雰囲気を読むところ、相手の意図を汲むこと、リックを作ったり研究したりして、それをいつでも必要な瞬間に演奏する訓練、聞く訓練等々、ジャズの訓練と同じである。
ところで、僕が今までに合ってきた日本人のジャズミュージシャンの半数以上はバイリンガルだった。上手・下手はあるにせよ、 英語などの外国語を話す人が多かった。 外国語を話さない人も多いが、この様な人は、いわゆる「自分節」みたいな、独特の話し方を持っている人だった。 いずれにせよ独特な言語感覚を持った人が多かったように思う。 僕は、こういう事をみるにつけ、言葉とジャズに強い相関性を感じる。 それだけでなく、ジャズミュージシャンは非常に他人に合わせるのが上手い。 その場の雰囲気を読んで、そこでおもしろいギャグを言う、という事に関して命をかけている様な人が多い。 これもジャズと似ている。
僕はそういう日本人と付き合うことが多かった。
だが、そういう日本人は、例外的なのだろう。
僕は思うのだが、日本人は他人に合わせるのが極端に下手だ。 一方で人から合わせてもらいたいと常に願っている。 とても矛盾した存在だと僕は思う。
◇
僕はタイ人が好きだ、という日本人をほとんど信じない。 これはいわば「俺はギタリストなんだ」と言う人と同類である。 タイ人は他人に合わせるのがとても上手い国民性を持っている。 だが、これは相手に合わせているだけで、本音ではない。 彼らタイ人が日本人とあうと、タイ人は常に合わせっぱなしになってしまう。 顔はニコニコしているが、内心欲求不満を溜め込んでいる。 日本人は察しが悪いので、この事に気がつかない。
本来、タイ人が好きな日本人は、タイ人と同じレベルで気遣いが出来なければならない。 タイ人は、常にオープンだ。 相手が何を言おうと全て受け入れる。 タイ人は、話し相手に、自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールする。 ところが日本人はそうではない。 日本人には言っていいことと悪いことがある。 例え、自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールしていたとしても、それは建前である可能性がある。 だから、言うことを選ばないといけない。 つまり、思っている事を常に言ってしまってはいけないのだ。 だから思っている事を言わない。 言えない。 タイ人は、常に相手の意見に耳を傾けて、相手の意見を汲み取って実現していく。 だけど、本来、日本人が、タイ人と付き合うときは、日本人も、タイ人に対して、タイ人と同じように自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールしないといけない。 だが、日本人はそれを絶対にやらない。 日本人は、タイ人に気を遣ってもらっているだけなのだ。
日本人が、タイ以外の国に行くとどうなるか。
コミュニケーションが出来なくて相手にされないだけだ。
何故か。 日本人が少数民族だからだ。
日本語の文法も、発音も、他の主流な言語と大幅に違う。 似ている言語を探すのが大変な位だ。
日本人は色々な国に行って色々な少数民族を見ているが、本当は日本人が一番の少数民族なのだ。
何故か日本人はこの事実にどうしても目が向かない。
この「顔を見て出身を当てる」という行為は、タイやラオでも当たり前の様にやる。 ロシアの人からも同じような話を聞いたことがある。 アメリカなど顔にはっきりとした差があるので更に激しくやっているだろう。 アメリカでは差別もからんでいるので「顔を見て出身を当てる」という事が違法だ、とすら言いかねない。 それくらいに、これは極めてよくやられることだ。 それを可笑しいと笑う、彼らは興味深い。 彼らは外国に長年に渡って住んでいるにも関わらず、外国の文化に対してまったくの盲目である。
顔を見て出身を当てるのは、とても大切な事だ。 何故だろうか。 答えは驚くほど簡単だ。 間違えると失礼だからである。 そして、当てることが出来ると非常に有効なコミュニケーション手段になるからである。 ここまで説明しても彼ら8人は何故顔を見るのが大切なのか理解出来ないだろう。 そんな彼らでも、自分が韓国人と間違えられたり、中国人と間違えられたりすれば、即座に激怒するだろう。 彼らも「顔を見ることが大切だ」と言える要素を持っている。 僕は、日本人として「自分がされて嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」と子供の頃から教わってきた。 彼らは、自分がされて嫌なことを平気で他人にするという意味で、日本人ではない。 また、彼ら8人が、仮に、自分が韓国人・中国人と間違えられて怒らなかったとしても、「あなた日本人でしょう!」と当てられると、喜びはするだろう。「何故わかったの?」とすぐに気持ちを開いて話をするに違いない。 つまり、騙され易い。
その日、その中で一人だけ仲良くなり、後で飲みに行った。 帰りがけ、電話番号を交換しようということになった。 彼は電話番号を覚えていなかったが、ちょうど電話を忘れて来ていた。 だけど、彼はメールアドレスを覚えていたので僕にメールアドレスを教えてくれた。 後でメールで電話番号を交換しようという話になった。 先日メールが送られてきた。 その時は忙しかったので、何となくやり過ごしていたのだが、ふと今日になって、そのメールに電話番号が書いていないことに気がついた。 こういう時の対応が難しい。 タイやアメリカや中国だったら「酔っ払って忘れたんじゃないの?」と即座に返答出来る。 だけど日本だとひょっとしたら「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージである可能性がある。 このメッセージを使う人と使わない人の両方が居る。 タイやラオ・中国だと、顔を見れば「こういうやり方を使う人」「こういうやり方を使わない人」の判別も大体つく。 だけど、日本人の場合、顔を見ただけでこの判別は無理だ。 慣れれば日本にも顔の地域差がある事に気がつくが、文化を当てる事が出来るほどには精度が高くない。 この日本人の場合も、「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージか、そうでないかは判別がつかない。 しばらく様子を見ようと思う。
日本人の人間関係は、とにかく疲れる。 何故だろうか。 他人がどういう出方をしてくるのか、まったく読めないからだ。 これは多分、日本人が、みんな、誰かに、言わずして自分の意図を汲んでもらい、合わせてもらおうとしているからではないだろうか。 日本人は個体差が非常に激しい。 タイ・ラオ・中国の様に、民族間の住み分けがある国では、民族によって出方に決まった傾向があり、それをみなよく知っているので、相手の出方を読むことが出来るが、小さな島国であるにも関わらず隅から隅まで超高速鉄道を引いてしまい、地域間の住み分けが完膚なきまで破壊されてしまっている日本では無理だ。
日本人は、しばしば「どこかに自分を理解してくれる人が居る」と信じている。これは幻想だ。 自分の意図は、自分の手で書いた文章や、自分の口で話した言葉が無ければ決して他人に伝わることはない。 だが、自分の思いを文章にしたためることもせず、自分の思いを饒舌に語ることもなく、何故他人がその思いを理解する事が出来るのであろうか。 超能力者以外、無理である。
僕は人とかなり性質が違う。 だから日本に居る時は、正常な日常生活を送るにあたって、他人に合わせる為に高度に自分を演じなければいけないし、演じる事はとても大きな精神力を必要とする。 コミュニケーションに大きな精神力を使うことに慣れている。 ここまでは僕の責任である。 だが、残念な事に、日本人の多くの人は、僕が他人に合わせる為に使っている精神力の大きさ程、僕に合わせることに精神力を使ってくれない。 だから僕は常に他人に合わせっぱなしである。 僕がタイに居て楽だと思うのは、この合わせることに大きな精神力を使うことに慣れている人が多い、という事だ。 日本人はタイ人ほど辛抱強くない。
昨日、僕は学校の生徒からギターを借りて、夜寝る前に長らく演奏した。 朝起きても演奏していた。 僕はジャズギターを弾き始めて、もうかれこれ20年である。 ジャズ演奏を身につけるいう事は、日本で日常生活を送る者に取って、非常に大きな困難を伴うものだ。 長い訓練が必要である。 僕は特に「厳しい」と思ってそういう訓練を続けて来た訳ではないし、むしろ楽しくて辞められなかったので訓練を続けてきたのだけど、僕がしている事を他人にやらせると10分も続かない。 一般的な感覚から見ると、厳しい訓練なのだと思う。 僕はこういう「厳しい」訓練を20年続けてきた訳だ。
ところで、日本人は自己認識が苦手である。 特に自己主張を含む芸術をする人ほど、その傾向が顕著だ。 特に僕が指向しているギタリストという人種は、特に自己主張が強い芸術であり、自己認識がへたくそな人の巣窟と言ってよい。 現実の自分と理想の自分の区別がなかなかつかない人が多いのである。 そして、日本人もそのことを認識している。 仮に読者の前に、「僕はギタリストです」と言う人が居たら、その言葉を素直に受け止める人が日本人に居るだろうか。 居ないだろう。 ギタリストとは、自己幻想が高い人種だと言える。
僕はそういうギタリストではない。 18歳の時に、ある先生からジャズギターを習い始めて、早大のジャズ研に顔を出すようになった。ジャズの世界というのは、実に厳しい世界である。 僕が先生に習っている間に、僕がしたことといえば「採譜」「耳コピ」だけだ。 非常に辛い苦行のような作業である。 習っている間、僕は「耳コピ」を続けたし、以降も「耳コピ」を10年以上続けた。 ジャズ研で実際の演奏経験もつんだ。 ジャズ研というのは、実に「嫌な人間」の巣窟・展覧会である。 ジャズ研に住む悪魔は、こういう自己幻想が高い人間にありがちな、実力の無さを、あっさり暴露し、侮辱し、慢心を完膚なきまで破壊し尽くす。 しまいには、女の子の前でパンツを脱がされて、性器にキンカンを塗られて、激痛と屈辱に耐えながら、演奏させられるのである。 自己愛幻想が0の地点から全てを始める。 だからジャズ研出身の人は、自己認識が的確な人が多いのではないか。(精神的に屈曲した人が多いという説もあるが。)
多数の演奏者が居るなかで、行う即興演奏とは、ほとんど空気読みの訓練と言って過言ではないだろう。 周囲の演奏内容をよく聞いて、その場の調和を乱さないよう、かつ、そこに一輪の花を飾りつけることで華やさを加えるように、演奏しなければいけない。 ジャズは決まった譜面が用意されている訳ではないので、その場の雰囲気を見て、音色や演奏内容を変化させなければいけない。 これは、決まった方法論がある訳ではない。 決まりきった事をすればよい、という作業ではない。 独創性が求められるとても難しい作業だ。 失敗すると、その場に居る演奏者・聴者からの冷たいオーラが自身の体に突き刺さるのを感じる。 演奏に失敗するということは、極めて辛い経験である。 僕はそういう厳しい世界に居た。
僕は今、外国に居て、中国語・ラオ語・タイ語を習っている。 僕はそういうジャズの訓練と、語学の練習にとても強い相似性を感じている。 雰囲気を読むところ、相手の意図を汲むこと、リックを作ったり研究したりして、それをいつでも必要な瞬間に演奏する訓練、聞く訓練等々、ジャズの訓練と同じである。
ところで、僕が今までに合ってきた日本人のジャズミュージシャンの半数以上はバイリンガルだった。上手・下手はあるにせよ、 英語などの外国語を話す人が多かった。 外国語を話さない人も多いが、この様な人は、いわゆる「自分節」みたいな、独特の話し方を持っている人だった。 いずれにせよ独特な言語感覚を持った人が多かったように思う。 僕は、こういう事をみるにつけ、言葉とジャズに強い相関性を感じる。 それだけでなく、ジャズミュージシャンは非常に他人に合わせるのが上手い。 その場の雰囲気を読んで、そこでおもしろいギャグを言う、という事に関して命をかけている様な人が多い。 これもジャズと似ている。
僕はそういう日本人と付き合うことが多かった。
だが、そういう日本人は、例外的なのだろう。
僕は思うのだが、日本人は他人に合わせるのが極端に下手だ。 一方で人から合わせてもらいたいと常に願っている。 とても矛盾した存在だと僕は思う。
◇
僕はタイ人が好きだ、という日本人をほとんど信じない。 これはいわば「俺はギタリストなんだ」と言う人と同類である。 タイ人は他人に合わせるのがとても上手い国民性を持っている。 だが、これは相手に合わせているだけで、本音ではない。 彼らタイ人が日本人とあうと、タイ人は常に合わせっぱなしになってしまう。 顔はニコニコしているが、内心欲求不満を溜め込んでいる。 日本人は察しが悪いので、この事に気がつかない。
本来、タイ人が好きな日本人は、タイ人と同じレベルで気遣いが出来なければならない。 タイ人は、常にオープンだ。 相手が何を言おうと全て受け入れる。 タイ人は、話し相手に、自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールする。 ところが日本人はそうではない。 日本人には言っていいことと悪いことがある。 例え、自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールしていたとしても、それは建前である可能性がある。 だから、言うことを選ばないといけない。 つまり、思っている事を常に言ってしまってはいけないのだ。 だから思っている事を言わない。 言えない。 タイ人は、常に相手の意見に耳を傾けて、相手の意見を汲み取って実現していく。 だけど、本来、日本人が、タイ人と付き合うときは、日本人も、タイ人に対して、タイ人と同じように自分には何を言っても全部受け入れるぞ、という事を常にアピールしないといけない。 だが、日本人はそれを絶対にやらない。 日本人は、タイ人に気を遣ってもらっているだけなのだ。
日本人が、タイ以外の国に行くとどうなるか。
コミュニケーションが出来なくて相手にされないだけだ。
何故か。 日本人が少数民族だからだ。
日本語の文法も、発音も、他の主流な言語と大幅に違う。 似ている言語を探すのが大変な位だ。
日本人は色々な国に行って色々な少数民族を見ているが、本当は日本人が一番の少数民族なのだ。
何故か日本人はこの事実にどうしても目が向かない。
コメント一覧
まはヴぃーら 2010年12月05日 01:07
少数民族っていうか、日本を一歩出ると日本人はマイノリティーだということを認識してないか、したがらない人は多いですね、、、
で、そういう人に限って危機管理能力に欠けてる。
出身地以前に、いい人と犯罪者の区別もつかない。
サラわれてマワされて埋められてからじゃ遅いんだよ、とも言えないのでほっといてるけど。
で、そういう人に限って危機管理能力に欠けてる。
出身地以前に、いい人と犯罪者の区別もつかない。
サラわれてマワされて埋められてからじゃ遅いんだよ、とも言えないのでほっといてるけど。
あび 2010年12月05日 02:00
そんな日本人でも、なぜか、韓国人と中国人と日本人の見分けはできたりしませんかね?やっぱり目にする機会が多いからかな。
ジャコビ 2010年12月05日 05:20
>タイやアメリカや中国だったら「酔っ払って忘れたんじゃないの?」と即座に返答出来る。 だけど日本だとひょっとしたら「もう電話をかけてくれるな」という暗黙のメッセージである可能性がある。
これって、本当に難しいです。失敗した事が何度もあります。特にニューヨークで暮らす日本人の専業主婦は、そのまんま日本の社会生活習慣を持ちこんでいる場合が多いので、こういう日本的な表現を多用する人が沢山います。正直言ってニューヨークで一番つき合い辛い人々です。
これって、本当に難しいです。失敗した事が何度もあります。特にニューヨークで暮らす日本人の専業主婦は、そのまんま日本の社会生活習慣を持ちこんでいる場合が多いので、こういう日本的な表現を多用する人が沢山います。正直言ってニューヨークで一番つき合い辛い人々です。